第四章


「……む」


 本棚の方から、ご主人の唸り声が聞こえた。


 机の影から顔を出して見れば、ご主人は本棚の上の方にある本を取ろうとしていた。けど、届いてない。何度かジャンプしたり棚によじ登ろうとしたりするけど、指先がちょっと当たるだけで掴む事も摘む事も出来ないでいる。


 そろそろ、俺の出番かも。


 俺は絨毯に転がしていた体を起こして、ソファーへと向かった。そこに置いてあるマントを咥え、引き摺りながらご主人の所へ行く。


 足元で『ご主人』と声を掛けると、ご主人は俺を見下ろし、少し考えるように唇を尖らせた。

 やがて深く息を吐き、しゃがみ込んで俺が持ってきたマントを受け取った。広げて俺の背中に掛けて、首の下で紐を結ぶ。


「……いいかメータ。あそこの、上から二段目にある、青い背表紙の本を取ってくれ。薄いあれだぞ。いいか?」

『うっす』

「取ったら妾の机の端に置き、それからソファーの裏で体を伏せるんだ。分かったな?」

『任せて下さいよご主人。俺、ちゃんと出来ますんで』


 元気良く返事を返せば、ご主人はぎこちなく頷いた。


 それから一度深呼吸して、俺の鼻の上辺りにチューをする。


 途端、ご主人は机の方へそそくさと逃げていった。

 俺の体は熱くなる。蹄がムズムズして、穴という穴から俺の中身が飛び出しそうな感覚が走った。

 沸き起こる衝動を、俺は目を瞑って堪え、小さく呻く。段々と波が引き、ふと溜め息を吐いた時には黒い前足が肌色の両手に変わっていた。


 よし。

 俺はふんと鼻息を荒くして、四つん這いで本棚へ向き直る。下から三段目の端に手を掛けて、反動を付けて体を持ち上げた。俗に言う掴まり立ちの体勢となる。

 ちょっとずつ上の段へ手を乗せていき、ご主人に言われた青い背表紙の本目指して進んでいった。


『よっとぉ』


 軽く曲げた指に引っ掛けつつ、本を前へ引き出していく。ある程度出てきたら、親指と人差し指で摘み、体を支えてた方の手を離す。足の力も抜いて、落ちるように床の上へ着地した。

 ドン、という音に、椅子ごと後ろを向いているご主人の肩が緊張する。


「だ、大丈夫かメータ? 大きな音がしたが、もしや倒れたのか?」


 心配そうな声が聞こえるも、俺は大丈夫だという気持ちを込めて、四つん這いで歩き出す。足音をわざと立てれば、ご主人の肩の力も抜けていった。


 お仕事をする机へ近付き、端っこに持っていた本を乗せる。それからソファーへ向かい、俺はご主人に見えない位置で体を伏せた。羊の時と同じく、崩れた土下座スタイルです。シムさんには怒られるけど、これが一番楽なもんで。


『オッケーっす』


 俺が声を掛けると、椅子と床の擦れる音が上がる。


「か、隠れたか?」

『うっす』

「顔だけ、ほんの少しだけ、出してみろ」

『うっす』


 ソファーの影から首を伸ばして、半分だけ顔を出してみた。

 目が合ったご主人は、きちんと体を隠している俺に、ホっと胸を撫で下ろす。


「う、うむ、よくやったぞメータ。褒めてつかわす」

『あざっす』

「では、お前は元の姿に戻るまで、そこで待機しているがいい」

『うっす』


 顔を引っ込め、俺は伏せた体を縮込めた。一応マントを着てるけど、その下は真っ裸だから超寒い。毛もないし、全然守れてない感じ。

 早く羊にならないかなぁと思いつつ、俺は重ねた両手の上に顎を乗せた。


 俺が人の姿になるようになってから、ご主人はちょくちょく俺を変身させた。高い所にある物を取る時とか、棚の上の方にある本が欲しい時とか……あ、上の物を取る時しか変身してないや。いやでも、シムさんがいる時でも俺に取りに行かせるから、毎日一回は絶対に人になっていた。


 どうやらご主人は、人の姿の俺に慣れようとしてくれているらしい。「一度飼ったら、最後まで面倒を見るのが飼い主の務めだ」ってこの前言ってたし、捨てる気もないみたい。

 ありがたい限りです。きっとその内、人の俺も羊の俺同様に可愛がってくれるんだろう。


 因みに、シムさんは特に変化なく、どっちの姿でも普通に接してくれる。

 でも、どっちかっていうと、人の時の方が子供扱いされてる気もする。この前「あんよが上手ー、あんよが上手ー♪」って歌いながら俺を歩かせてたし、時々俺の事、近所のじいちゃんばあちゃんとそっくりな顔で見てるんだぜ? そんな温かく見守んないで下さいよって一体何度思った事か。いや、いいんだけどね。


 アイリーンさんは、あんまり執務室に現れないからよく分かんない。俺について調べてるらしい。城の中にある倉庫に籠もって、沢山の本を読み漁ってるんだって。

 だから『お疲れ様っす』ってこの前執務室にきた時言ったら、あっという間に水の縄で縛り上げられた。そして全身を隈なく調べられた。おばば並に触られまくって、涙が出る位恥ずかしかったです。


 まぁ、色々あったけど、基本的には特に変わりなく過ごしている。相変わらずご主人の部屋で一緒に寝て、三日に一回シムさんに洗って貰って、執務室でゴロゴロして、アイリーンさんに睨まれたりとかしてる。安定ののんびり羊生活ですな。


 と、内心頷いていたら、不意に鼻がムズっとした。

 顔を顰め、口を大きく開く。


「めっぷしっ」


 唾を吐き散らかして、くしゃみを一発噴射する。

 直後、体が一気に熱くなった。

 顎を乗せていた手の毛がモコモコ膨れ上がって、太さと長さが変わっていく。マントの端もずり下がり、俺の体をすっぽりと包み込んだ。


 俺は立ち上がり、頭を二・三振ってからご主人の元へ小走った。


『ご主人ー』

「おぉ、戻ったか」


 ご主人は一旦手を止めて、俺の体からマントを取った。それを適当に机の端へ置いて、俺を見下ろす。


「ご苦労だったなメータ。よくやった。流石は妾の愛オヴィスだ」


 綺麗な顔を更に綺麗に緩ませて、ご主人は俺の頭を撫でた。顎の下もくすぐられ、気持ち良さに俺は思わず尻尾を振る。

 ついでに「メェェ~」と甘えた声を出せば、ご主人の顔は一層綺麗に蕩けていった。

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