「――全く、だからいつも言っているでしょう。もっと周りに注意を払って下さいと」


 アイリーンさんの声が執務室に響く。

 ここにきてから延々続いている小言は、まだ止みそうにない。


「ワインバーガーの人間に見られた事も勿論ですが、あれだけの至近距離で対話するなど、一体何を考えられているのですか。危機感というものが足りないのではありませんか?」

「はいはい、妾が悪かった。あー悪かった悪かった」

「今回はたまたま何もなかったから良かったものを、もしいきなり攻撃されていたらどうするのです? 同盟を結んでいると言っても、油断してはなりませんよ?」

「分かった分かった。これからは気を付ける。誓おう誓おう」

「……本当に、分かっておられるのですか」


 アイリーンさんは、机に座るご主人を睨み付けた。


「大体、何故お一人で部屋を抜け出してしまわれるのです。何度も申しておりますが、使用人が起こしに行くまでは、せめて待機していて下さい。一国の姫が、ご自分で着替えや出掛ける用意をするなど以ての外です」

「だがそうしないと、鍛錬する時間が減ってしまうのだ」

「鍛錬の時間は、十分確保しております」

「もっと長く取れるのに、何故見過ごさなければならぬ。妾は、出来る事ならば一日中剣を揮っていたいというのに」

「姫様」


 書類片手に、アイリーンさんが近付いてくる。


「姫様は、この国の姫なのです。兵士ではないのです。剣を揮われるのも結構ですが、それよりもやって頂きたい事が山程ございます。例を上げればきりがありませんので割愛しますが、一言で纏めるならば、もっと姫らしく、お淑やかな振る舞いをなさって頂きたいのです」


 アイリーンさんの威圧感が増していく。俺が怒られてるわけでもないのに、超怖い。

 でもご主人は、ちょっと唇を曲げてアイリーンさんを無視した。音を立てて羽ペンを動かし、珍しく真面目に書類をこなしていく。


「姫様は、モファットの民自慢の姫でございます。聡明で美しく、また器も大きい。正に次期国王に相応しいお方です。ただ、少々男勝りなのが玉に傷と申しますか。私共女子からすれば憧れの的なのでございますが、男性からすれば、今一つ魅力に欠けると申しますか」


 ご主人の握る羽ペンが、妙にしなった。


「勿論、そう言った方を好む殿方はいらっしゃいますわ。しかし昨今の風潮からしますと、加護欲をそそる女子の方が断然人気があるようですし、しかも並の男性よりも格段に強いとあっては、正直嫁に貰いたいと思う方は相当な変人しかいないかと思われます」


 羽ペンから、変な音が上がる。

 ご主人の手の甲にも、くっきりと筋が浮かんだ。


「自分を一人の女性として愛して欲しいと願うのならば、まずは愛される努力をしなければなりません。その為には、結婚したいと思わせるような女らしさや教養の一つや二つを、身に付けるべきかと私は思いますが」

「……さい……」


 ご主人の体が震え、一段と腕の力が入った。

 と、思った、その時。


「うるさいぞっ、アイリーンッ!」


 羽ペンが、折れた。

 机を勢い良く叩き付け、ご主人は立ち上がる。


 その拍子に飛んできた羽が、俺の頭にプスっと刺さった。


「さっきから聞いていればなんだ偉そうにっ! 結婚もしておらぬ奴が分かったような口を利くなっ! お前が男の何を知っておるというのだっ!」

「少なくとも、姫様よりは知っているつもりです」

「黙れっ、この行き遅れがっ!」

「い……っ、行き遅れですってっ!?」


 珍しく声を荒げて、アイリーンさんが目をつり上げる。


「あぁそうだっ! 妾は知っておるぞっ! 先日エマの婚姻が決まったそうじゃないかっ! おめでとうっ! 妹に先を越されて可哀そうになぁっ! 姉の面目丸潰れだっ!」

「誰のせいでっ、こうなっていると思っているのですか……っ!」

「妾のせいにするなっ! この行き遅れめっ!」

「っ、私が行き遅れならばっ、あなただって行き遅れでしょうっ!」

「妾は良いのだっ!」

「良くないっ! 国王陛下は私達の歳にはもう結婚してっ、子供も産んでいたのよっ!? 次期国王としてっ、もっと危機感を持ちなさいよっ!」

「うるさいうるさいっ! 母上は母上っ、妾は妾だっ!」

「じゃあこっちだって同じよっ! エマと比べないでちょうだいっ!」


 凄ぇ剣幕で怒鳴り合う二人。止めようと足元でメェメェ鳴いてみるが、聞こえてはいなそうだ。

 寧ろ、邪魔だと言わんばかりに蹴りを入れられた。アイリーンさんに。


 どうしようかと途方に暮れる俺。向こうは更にヒートアップして、今にも掴み合いが始まりそうだ。でももう一回声を掛けたところで、どうせ止まりはしないんだろうな。


 取り敢えず、頭に刺さった羽を抜こうと思う。


「あのー、お二人共ー?」


 ソファーに頭を擦り付けていたら、部屋にシムさんが入ってきた。苦笑いを浮かべて、廊下の方を指差す。


「外まで声が聞こえていますよー」


 三つ編みを軽く揺らし、扉を閉めた。パタン、と聞こえた軽い音に、何となく部屋の空気が変わる。

 ご主人とアイリーンさんは互いを一瞬見やり、すぐさまそっぽを向いた。

 ご主人は乱暴に椅子へ座って、代えの羽ペン片手にガリガリ書類をこなしていく。アイリーンさんは険しい顔のまま、シムさんへ近寄っていった。


「シム、随分と遅かったですね」

「すいませーん。ワインバーガー国との公務の調節に時間が掛かりましてー」

「そうですか。まぁ、いいです。で、本日の予定は?」

「はい。えーと」


 シムさんは持っていた紙を上から眺めていく。


「まずは、この後に新しいドレスの採寸と打ち合わせがありますねー」

「やらん」


 ご主人が、顔も上げずにそれだけ言う。


「……シム。続けて下さい」

「あ、はい。えー次に、オコネル侯爵との面会が」

「やらん」

「昼餉には、ワインバーガー国の使者殿も交えて歓談を」

「やらん」

「え、えーと、それから」

「本日、妾は全ての公務を拒否する」


 書類に視線を落としたまま、ご主人はそう宣言した。

 シムさんは困った顔で頬を掻いている。アイリーンさんは大きな溜め息を吐いて、シムさんの持っていた予定表的な紙を受け取った。上から順に眺めていく。


「……結構です。では、本日の公務はこの通りに進めて下さい」

「おい、妾はやらぬぞ」

「まずは、ドレスの打ち合わせからですね。仕立屋が到着するまでに、ある程度執務を終わらせなければ」


 アイリーンさんはご主人を無視して、書類の整理を始めてしまった。

 ご主人はムっと顔を顰め、また羽ペンを動かしていく。


 雰囲気の悪い二人に、シムさんは居心地が悪そうだ。俺もどうしたらいいのか分からない。

 取り敢えず一番安全そうなシムさんの所へ向かった。近寄ってきた俺を、シムさんは苦笑いで一撫でする。


「あぁ。後、本日おばば様がいらっしゃるのですがー」


 俺は一目散にシムさんから逃げた。安全地帯と見せ掛けた危険区域だったようだ。危ない危ない。


「メータ様の診察を終えた後ー、アイリーン様を客室に呼ぶようにとの事ですー」

「私を?」


 アイリーンさんは眉を潜めて、考えるように視線を下へ落とす。


「……何か、その生き物の事で問題でもあったのですか?」

「さぁー。私には分かりかねますがー」

「おばばのことだ。どうせ孫の顔でも見たいんだろう」


 不意に、ご主人が口を開いた。


「いいじゃないか。たまには行ってこい。ついでにエマとも話してくればいい。あいつだって、久しぶりに姉と話したいに違いない」


 書類から目を離さず、ご主人は手を動かしていく。


「ついでに、結婚についてたっぷりと惚気られてこい。妹の幸せな姿を拝み、己との差を見せ付けられるがいいさ」

「……しかし姫様。私には、仕事がございますので」

「ならば命令だ。本日は、しばし家族で団欒を楽しんでこい」

「で、ですが」

「その間、お前の代わりをシムが立派にこなしてみせよう、なぁ、シム?」

「え? あぁ、まぁ、はいー。頑張りますよー」


 シムさんは、握った拳を胸の前で揺らしてみせる。ご主人はご主人で、ニヤニヤと頬杖をついた。


 そんな二人を見て、アイリーンさんはこれでもかと眉間に皺を寄せ、溜め息を吐く。


「……そんな事を言って、どうせ逃げるおつもりでしょう」

「まさか。妾もたまには真面目に働くぞ。愛しい幼馴染の為だ。頑張ろうではないか」

「たまにではなく、毎日働いて下さい」


 しかしご主人は、「ふんふーん」とわざとらしく鼻歌を歌い、受け流した。

 アイリーンさんはもう一度深く息を吐き、シムさんに向き直る。


「……この後の流れを確認します。付いてきて下さい」


 そう言って、二人は部屋を出ていった。

 扉が閉まり、ご主人の口元は更につり上がる。


「ふっふっふ。これでイリーナも妾の気持ちが分かるだろう。精々おばばとエマにコテンパンにされるがいい」


 肩を揺らして笑うご主人は、中々に悪い顔をしていた。

 相当ストレス溜まってたんすね、とソファーの影でしみじみ思っていれば、ふとご主人と目が合った。


「おぉ、どうしたメータ。そんな所にいないでこちらへこい」


 いく分か機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、ご主人が俺を手招く。トコトコ近付くと、俺の頭を見て、ご主人は笑った。


「なんだメータ、頭に羽なんか刺して。洒落ているな。可愛いぞ」

『いや、俺別に刺したくて刺してるわけじゃないんすけど』


 一応主張してみたけど、ご主人には伝わらない。取って欲しいという気持ちを込めて頭を擦り付けるも、自慢してると思われてしまった。

 そうこうしてる内にご主人もお仕事に戻ってしまい、俺は仕方なく羽を刺しっぱなしの状態でご主人の足元に伏せた。まぁ、別に邪魔なわけでもないからいいんだけどさ。


 しかし、暇だ。欠伸を零し、前足に顎を乗せる。

 ご主人のお仕事中は、絶対に邪魔しちゃいけない。アイリーンさんが超怒るから、大人しくしてないといけない。静かに、ただの羊の如く、寝てるかゴロゴロしてるしかない。

 ま、寝るのは得意だからいいんだけどね。


 俺は昼寝の体勢を探りつつ、足を伸ばしたり横になったりしてみる。その内段々体が温かくなってきて、頭がぼんやりしてきて、口の端から涎がゆっくりと垂れていくのを感じた。


 その時、不意にご主人が立ち上がる。


 椅子を引いた音と俺を跨いでいった感覚に、何となく目が覚めてしまった。折角気持ち良くウトウトしてたのに。

 鼻から息を吐き出し、涎を啜って寝返りを打った。


「む? ……ふんっ」


 なんか、ご主人の唸りが聞こえる。

 俺は耳を揺らして、腹這いの状態で片方の目だけを開けた。


 ご主人が、本棚の前で背伸びをしている。上の方の本を取りたいのか、指を真っ直ぐ伸ばして、掛け声に合わせてジャンプとかした。


「むぅ……」


 一番上の列を睨みながら、腕を組む。それから辺りを見回して、使えそうなものを探した。


『この椅子使ったらどうっすか?』


 寝転がったまま俺をそう言った。前足を椅子の方へ向けて、これこれ、とばかりに絨毯を叩いてみせる。

 するとご主人は俺を見て、「おぉ」と何かを閃いた声を上げた。こっちに戻ってきて、転がる俺を跨いで、


 何故か、椅子ではなく俺を持ち上げた。


 あれ? と思っている間に本棚の所まで連れてこられると、某ミュージカルに出てくるライオンの子供よろしく高々と頭上に掲げられた。


「ほれ、メータ。その前足を伸ばし、目の前にある緑色の背表紙の本を取ってくれ」


 ……俺を連れてくるより、椅子持ってきた方が早いんじゃないっすかね。

 とは思うも、ご主人はもう俺に取らせる気満々らしく、頻りに俺を揺らしては応援してくる。


 まぁ、どうせ暇だったし、たまにはご主人の役に立とうではないか。


 俺は右の前足を伸ばし、緑色の本を触った。蹄の隙間に引っ掛けて、ちょっとずつ前へ引き寄せる。


「いいぞメータ。その調子だ。ほれ、頑張れ頑張れ」

『うっす、頑張るっす』


 ご主人の声援に押され、俺は左足も伸ばした。半分位出てきた本を、前足で挟む。そのまま体を前後に揺らして、指定された本を引きずり出した。


『ご主人、取ったっす』


 落とさないように前足に力を入れながら鳴けば、ご主人は俺を片手で抱いた。本を受け取ってから床の上へ下ろす。


「うむ、これだこれだ。よくやったなメータ。流石は妾のまなオヴィスよ。褒めてつかわすぞ」


 俺の目の前にしゃがみ、ご主人は上機嫌に笑った。俺の顎や背中を何度も撫でては「よくやった」と言ってくれた。

 ベタ褒めの嵐に、俺の尻尾はぶいんぶいん暴れ回る。メェメェ鳴いて、ご主人の手に擦り寄った。


「なんだメータ、もっと撫でて欲しいのか? ん?」

『そうっすっ。もっと撫でて欲しいっすっ』

「そうかそうか。しょうがないな、ほれ。どうだ、気持ちいいか?」

『最高っすっ』


 ご主人は俺を見下ろしながら、それはそれは優しく微笑む。


「全く。お前は本当に愛い奴だな」


 そう言って、ご主人は前のめりになった。


 チュ、という音が、俺の鼻の上からする。


 ご主人の顔もこれでもかって位近くなって、温かくてプニュっとした感触が、顔の真ん中辺りに広がった。


 俺、今、ご主人にチューされちゃった。


 体の中が一気に熱くなる。耳と鼻から脳みそがドーンって噴火しそうだ。心臓の音もよく聞こえる。蹄の先がムズムズ痒い。熱い。毛を刈りたい位に熱い。

 でも、超嬉しい。


 ゆっくりと離れていくご主人の顔。目を瞑っていても凄ぇ美人。俺は尻ごと尻尾を振って、ご主人を見つめた。口も目も、自分で分かる程緩んでいく。デレデレとにやけながら、甘えた声で「メェ」と鳴いた。


 ご主人が瞼を持ち上げる。目を開いたら更に美人。俺はご主人の手に顔を擦り付けて、もう一回してくんないかなーという下心と共に、もう一度甘えた声を出した。


 途端、ご主人の目が、ガっと大きく見開かれる。

 息を止め、唇を震わせて固まった。


 かと思えば、凄まじい雄叫びを上げて、持っていた本ごと腕を振り被る。


 綺麗なアッパーが、俺の顎に極まった。


 後ろにのけ反りながら吹っ飛んでいく俺。背中から絨毯に落ちて、そのまま滑って壁に頭をぶつけた。超痛い。妙に痛い。ゴロゴロ転がって、俺は痛みを紛らわすようにもがいた。


『な、何するんすかご主人。酷いっすよぉ』


 羊語で抗議すれば、ご主人は何故か部屋の隅っこで壁に張り付いていた。

 顔を真っ赤にして、目を泳がせている。


『ん? どうしたんすかご主人?』

「う、あぅ……っ」


 ご主人は更に壁に背中を押し付け、口を開いたり閉じたりを繰り返した。

 本当にどうしたんだ? 不思議に思い、俺は前足を付いて立ち上がった。ご主人へ向けて、一歩足を踏み出す。


 と、目の前を、一枚の羽が通り過ぎていった。

 これ、俺の頭に刺さってた奴だ。ようやく抜けたのかと思い、視線で追い掛けていく。


 床の上に落ちた羽。

 その手前にある、手。


 ……手、だ。

 しかも右と左が一本ずつ。肌色で、間違いなく、人間の手だ。


 更にその手前には、人間の胸があり、人間の膝があり、へそがあり、太腿があり、そして、男の象徴であるイチモツさんが、股間に一本ぶら下がっている。


 見覚えのあるイチモツさんだ。


『……あれ?』


 どこでお会いしましたっけと首を傾げれば、イチモツさんも同じ方向に首を傾げた。反対に動けば、イチモツさんも反対に。


 ……まさか、という思いが、俺の中に込み上げる。


 試しに、前足を動かしてみた。

 人間の手が、動く。

 今度は後ろ足。そうすると、人間の足が床を掻く。

 その場で揺れてみれば、人間の手足もイチモツさんも、一緒に揺れた。


 …………俺、人間に戻っちゃった。


 あまりに突然の出来事に、どうリアクションしたらいいのか分からない。


 取り敢えず、お久しぶりのイチモツさんを、じっくり観賞しようと思う。


「どうされましたっ、姫様っ!」


 突如、激しい音を立てて部屋の扉が開いた。

 見れば、アイリーンさんとシムさんが、凄ぇ慌てた顔で飛び込んできた。


「イ、イリーナ……ッ」


 ご主人は壁に張り付いたまま、情けない声を上げる。その真っ赤っかな肌に眉を潜めたアイリーンさんは、素早く部屋の中を見回した。


 床に座り込む俺と、目が合う。


 途端、アイリーンさんの目が、クワっと大きく見開かれる。

 息を飲み、口元を引き攣らせた。


 かと思えば、物々しい悲鳴を上げて、超ロングなスカートを翻し、足を振り上げる。


 綺麗なかかと落としが、俺の脳天に極まった。

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