むじん島

ツヨシ

本編

誰もいないのに、口に出して言った。


「ここはいったい、どこなんだ!」


いつのまにか独り言の癖がついている。


この数日間のうちに、すっかり。


よくない傾向か? 


そうかもしれない。


しかし、口に出さずにはいられない。


もう何日も水平線しか目にしていない。


本当にいやになる。


景色に変化というものが、あまりにもなさすぎる。


朝から晩まで目に写るものが何ひとつと変わらない。


まるで大きく引き伸ばした写真でも眺めているようだ。


水と食料を、よくこれだけ積んであったものだ。


でもそれも底をつきかけている。


なのに自分が今どこにいるのか、まるでわからないのだ。


無駄と知りつつ海図をながめなわす。


もう飽きるほどに見てはいるのだが。


ふと思いつきで、さかさにしてみたりする。


なんの意味もない。




海に出たのは五日前だ。


会社でいやな上司と一悶着あった。


世間ではよくあることだ。


はらいせに、まとめて有給休暇をとった。


当然上司から「やめろ!」と止められたが、そんなの知ったこっちゃない。


現場知らずの甘い事務所に提出すると、あっさり許可がおりた。


――二、三日、海でもでてみるか。


親の残した遺産と数年間節約して貯めたお金で、ヨットを買った。


小さなヨットだが、俺の全てと言ってよかった。


だが買ってからそんなに時間は経っていない。


それまで練習がてら、東京湾内を数回クルージングしただけだった。


ヨットは一人ならなんとか宿泊することができるが、泊まったことはなかった。


そもそも、遠出などしたことがなかったのだから。




東京湾を出て、しばらく南下した。


どこかにミスがあったとは思えない。


にもかかわらず、ふと気がつけば、まだ右に見えているはずの陸地がいつのまにか消えてしまっていた。


ついあわててしまい、半ば闇雲にヨットを操作した。


とりあえず陸地のあると思われる方角に向けて。


それがいけなかったのだ。


いくら進んでも陸地は見当たらない。


方角を間違えていると気がついた時には、もう遅かった。


さらに陸地から離れてしまったようだ。


そのうえ、じゃあどこが正しい方角なのかと問われれば、それがさっぱり見当がつかない。


背筋にざわざわと悪寒が走った。


あっちじゃないのか、こっちにちがいない、とヨットを忙しなく操作したのだが、いつまでたっても陸地どころか島さえも姿を現さない。


これはいけないと、最後の綱とばかりに取り出した無線機は、信じられないことに壊れていた。




今日が五日目であることは、わかる。


あと食料と水が、仲良くそろって一日分しかないことも。


それ以外はなにもわからない。


このままでは生きて帰れないことは、明らかだ。


ふと、ある光景が脳裏に浮かんだ。


広い太平洋上を孤独に漂う小さなヨット。


そのヨットの中に、座ったまま白骨化している、一人の男の死体。


次に上司の顔が浮かんでは消えた。


二度と見たくないと思っていた上司の顔が、今は懐かしくてたまらない。


――冗談じゃない!


俺は生きて帰るんだ。死んでたまるか!




いろいろ考えたあげく、最終的には太陽の方向を元に、こっちにちがいない! と目をつけた方角に、ひたすらヨットを進めた。


が、無駄だった。


おそらく、さらに迷う結果を招いてしまったようだ。


心身ともに疲れ果てた時には、日が暮れかかっていた。




朝の陽に目覚めた。


食料は今日で終わり。


ついでに水も。


――……四等分するか。


四等分しても四日しかない。


その四日で、陸地か島にたどり着ける確率、船か航空機に偶然見つけてもらえる確立、いったいどのくらいあるのだろうか? 


そんなの俺にわかるわけがない。


わかるわけがないが、わかっていることが一つある。


それは太平洋がとてつもなく広いということだ。


絶望的なほどに。


その事実はどうあっても曲げられない。




あれから四日目となった。


しかたがない。


さらに三等分することにする。


ただ四等分でも腹のへり具合、それ以上に喉の渇きはそうとうなものだ。


辛抱に辛抱を重ねている。


それを一割る四、さらに割ることの三。


十二分の一。


とてもじゃないが、もちそうにもない。


しかし今は三等分するしかないのだ。




はるか遠くに旅客機が飛んでいる。


当然俺には気がつかない。




あれから三日が過ぎた。


ついに水も食料も底をついた。


――せめて、雨さえ降ってくれれば……。


照りつける太陽を呪った。


雲ひとつない青空。


おまけに腹立たしいことに、今は八月なのだ。




日が昇り、目が覚めた。


ずっと日が昇れば起きて、沈めば寝ている。


ヨットを操作することもなく、ただ枯葉のように漂っているだけ。


腹が猛烈にへっている。


それ以上の問題は喉の渇きだ。


確認するまでもない。


水も食料も、数日前からないのだ。


――もう、だめかもしれない。……でも死にたくない。絶対に死にたくない。


ずっと同じことを考えている。




島が見えた。


――また、幻覚か?


昨日、島を見た。


喜びいさんで目をこらすと、島は跡形もなく霧のように消えてしまった。


幻を見たのだ。


やる気のない目で今見えた島を見る。


ところが島は、いっこうに消えそうにない。


――まさか。


そのまさかである。


目の前に本物の島があるのだ。


地獄に仏とはまさにこのことか。


必死でヨットを操った。


ヨットは無事に島にたどり着いた。




それほど大きな島ではないが、小さくて困るほどでもない。


それなりの規模がある島のようだ。


水と食料も――今はなんにましても大事なもの――探せば見つかるような気がする。


泉か小さな川くらいならありそうだ。


まずは水だ。


砂浜の向こうに山が見える。


山に向かった。




山に入って、すぐに気がついた。


驚いたことに道がある。


人が一人通れるほどの幅しかないが、獣道などではなく、明らかに人の手によるものだ。


――助かった。人がいるんだ。


天にも昇る気持ちとは、こういうことを言うのだろう。


思わず叫ぼうとしたほどだ。


しかし疲れきり乾ききっている喉からは、なんの音もだせなかった。


――ありがたいが、もう限界が近い。はやく人を見つけないと、その前に死んでしまう。


道に沿って歩いた。




急いで歩こうという意志は、充分すぎるほどある。


しかし足がそれについていかない。


感覚がほとんどないのだ。


足だけではない。


身体全体の感覚がとても正常とはいえない。


倒れないのが不思議なくらいによろけながら、とにかく歩く。


そして、なんということだろう。


目の前に家が見えるではないか。


この道はこの家に行くための道だったのだ。


残った体力のすべてを絞り出して、家の戸口のところまで行く。


声は出ないので、木製の古い戸をどんどんと叩いた。


奥から人の声が聞こえてきた。


「はい、どなたですか?」


――よかった。


俺の記憶はいったん、そこで途絶えた。




気がつくと蒲団に寝かされていた。


見るからに年代物の蒲団。


それにもまして内側から見るこの小さな家は、かなりの年月を生き抜いてきたもののように思える。


時代劇に出てくる貧しい農民の家、と言えば、ぴったりくるかもしれない。


奥で音がする。


木戸の向こうからだ。


その木戸は閉まっている。


音の正体は、ここからではわからない。


不意に木戸が、がらがらと大きな音をたてながら開いた。


「おや、気がつかれましたか」


そこには一人の老人が立っていた。


病的なほど痩せていて、髪は全て真っ白である。


灰色のすすけた作業服のようなものを着ていた。


足は裸足だ。


手には盆を持っていた。


盆の上には竹で作った水筒らしきものと、木の椀に入ったおかゆがのせてある。


それを持って、こちらに近づいてきた。


「さきほど無理やりお水は飲ませましたが、こんどはこちらをどうぞ」


ていねいで穏やかな語り口である。


ここがどこかということはとりあえず置いといて、まずは腹ごしらえをしないといけない。


少量のおかゆは味がなく、けっしておいしいものではなかったが、それでも腹の中は潤った。


おかゆを食べながら、竹筒の水を飲む。


ためしに軽く、ああ、ああ、と声を出してみると、普段よりはずいぶんしわがれていてまるで他人の声のようだったが、声はでた。


発声練習終わり。


会話というものにはいる。


「いろいろと、ありがとうございます」


「いえいえ、困った時はおたがいさまですから」


そう言った老人は背が低く、頬がげっそりとこけていた。


――ひょっとして、今俺が食べているものは、この人にとっては貴重な食料なのではないのか?


そう思うと、おそらく表情からその心配を感じとったのだろう、軽く笑いながら言った。


「ご心配なさらなくてもけっこうですよ。水や食べ物もたっぷりとありますから。ご遠慮なくめしあがってください」


「そうですか」


再びおかゆを口に運ぶ。


しかし、訊きたいことは山ほどある。


「あのう、ここは、いったいどこなんですか?」


「ここは、むじん島です」


――えっ?


島の名前を訊いたつもりだった。


それなのに、無人島だって? 


現に人が住んでいるではないか。


年季の入った家もある。


もう一度訊いた。


「あのう、そうではなくて、この島の名前ですよ」


「ええ、ですからむじん島です」


考えた。


ひょっとしたら無人島ではなくて、どんな漢字を当てるのかはわからないが、むじん島というのがこの島の名前なのではないのか。


そう思いつくと、なんだかそれが正しいような気がしてきた。


「そうですか、むじん島と言いますか」


老人はそれには答えずに、すっと家の奥へと歩き出し、木戸を引き開けて外に出て行った。


木戸は開いたままだ。


とりあえず残ったおかゆを全てたいらげる。


竹筒の水も飲み干した。


身体に染みわたるようだ。


乾燥しきった高野豆腐が、徐々に水分を含んでいくような。


腹だけではなく、爪の先から頭の毛の先にいたるまで、身体全体に水と食料がゆきわたっていく。


まさに文字通り生き返えった心地。


すると老人が戻ってきた。


「新しい人が来たので、みんなに紹介しないといけませんね」




家の裏には小さな田畑、それに小さな鶏小屋。牛小屋もある。


自給自足を絵に描いたような生活のようだ。


その先のちょっとした崖を細い道をつたって斜めに登り、さらに木々の間をしばらく進むと、突然に視界がひらけた。


高い木々に囲まれて池がある。


さして大きな池ではない。


見れば驚くほど透き通っていて、中心はともかくまわりの比較的浅いところは、水底まではっきりと見える。


中に魚も泳いでいた。


雨水が溜まったというよりも、充分にろ過された地下水が湧き出ているようだ。


ある意味、神秘的な光景。


池を見ていると木々の間から、あそこから、こちらから、むこうから人が現れた。


全部で三人。


若い男、中年の男、それに女――女がいるのか、こんなところに。しかも若くて美しい――いう組み合わせである。


「おーい、新しい人が来たぞーっ」


老人はそう言うと歩き始めた。


その後を追う。四人とも同じ方向を目指しているようだ。


近づいてみてわかった。


ちょっとした広場がそこにはあった。


木を何本か切り倒して作った広場。残った切り株が、それを物語る。広場を作るために木を切り倒したというよりも、生活に必要な木を切り出した結果この広場ができたのかもしれないが、この際そんなことはどちらでもいい。


一人一人、切り株の上に座った。


最後にあいた切り株の一つに座る。


「この人が新しい人だ。みんな仲良くするように」


老人が言うと、三人が無言でうなずき、無言で立ち上がり、無言でもと来た方向へと帰って行った。


「それじゃあ、帰りますか」


きつねにつままれたような感じを受けたが、ここはひとまず帰るしかなさそうだ。




家に着いてから、もう一度たずねた。


「ここは、どこなんですか?」


老人が、えっ、と表情をつくり、訊きかえす。


「どこなんですか。とは?」


「いや、日本のどこにある島かと思いましてね。たとえば、なになに県、だとか、東京よりも北にあるとか南にあるとか。とにかく地図上の場所のことですよ」


「おっしゃっている意味が、いま一つよくわかりかねますが、東京なら昔、住んでいたことがあります」


思わず身を乗り出す。


「そうですか。では東京から、どうやってここまで来たんですか?」


また、えっ、といった表情。


「東京からどうやってここまで来たのか、ですか? おっしゃっている意味が、やはりわかりませんが。とにかく私は生まれてから今まで、ずっとこのむじん島に住んでおりますから」


今度はこちらが、えっ、となる番だ。


昔、東京に住んでいた。で、なおかつ産まれたときからこの島に住んでいると。


それこそ意味がわからない。


思わず口をついて出る。


「じゃあこの島が、東京都に属するというわけですか?」


小笠原諸島。


そんな名前が頭に浮かぶ。


しかし老人はあっさりと否定した。


「ここは東京じゃ、ありませんよ」


どう見てもふざけているのではない。


老人の表情はいたって真面目だ。


冗談とかからかいの要素は、そこには微塵も浮かんではいなかった。


「それじゃあ、夕食の準備をしますから、待っていてくださいね」


「……はい」


老人は再び視界から消えた。




目が覚めると、すっかり日は昇っていた。


寝る前に考え、起きてからも考えて、やがて一つの結論に達した。


――あの老人は、ボケている。


おとなしく朝食を食べる。


米の飯と野菜と小魚が一匹。味噌汁などはなく、水分は水だけ。


自給自足の生活では、味噌などといった加工食品は望めないか。


味付けはすべて塩だ。


塩なら海に行けば、たとえ何回生まれかわったとしても、充分すぎるほどある。


「それじゃあ、私は畑仕事をしてきますから」


老人が出て行くと、さっそく行動を開始した。




崖を登り、池に着いた。


――あのあたりから出てきたな。


昨日の三人がどの方向から姿を現したのか、姿を消したのか、頭の中で反芻する。


ぎりぎり二十代前半の男としては、真っ先に若く美しい女のもとへ行きたいところだが、俺は昔から女と話をするのは、どうも苦手だ。


年上で池のほとりにいる間じゅう怒っているかのような渋い顔をしていた中年男も、できれば避けたい。


そうなると、あとは一人。


年齢も近く――むこうがやや年上か? ――少なくとも普通の顔でいたあの男ということになる。


三人の中では一番話しやすそうだ。




木々の間を抜けると、ちょっとした崖にでた。


見下ろすと、老人のところにあったのとまるで同じの鶏小屋と牛小屋、そして田畑に、これまた老人の家とそっくりな家が見えた。


それはコピーでもしたかのようだ。


それを見ていると、無意識のうちに身体が左手に移動した。


そこには道があった。


道のある位置まで老人のところと同じだ。


そこを下る。




家の前に着いた。


「ごめんください」


すぐさま反応があった。


木戸が開き、昨日見た若い男が立っていた。


なにも言わない。こちらから声をかける。


「そみません。ちょっと訊きたいことがあるんですが」


男は、えっ、という表情をした。


その顔は、なんだか老人のものと、似てなくもない。


「ききたいこと? あの人に訊けばいいんじゃないの」


ちょっとぶっきらぼうな言い方だ。


あの人とは老人のことだろう。


迷惑そうな顔までしている。


でもひるんではいられない。


「あの人にも訊いたんですが、ちょっと訊き忘れたことがあって、それで……」


うまく理由をつけようと思ったが、あまりかんばしくはなかったかもしれない。


しかし男は、ちゃんと答えてくれた。


「そうなの。で、訊きたいこととは?」


ここはとりあえず自己紹介をして、名前を告げた。


男が言った。


「そうなんだ。わかったよ、新しい人」


名前を告げたにもかかわらず、新しい人という呼び名は、その理由は不明だが、どうやら固定されているようだ。


しかたなく話を続ける。


「実はヨットに乗っていて、まあ、なんというか遭難しまして、この島に流れ着いたんです。それで、できれば帰りたいんですが、ここはどこなんですか?」


できれば帰りたい? 


自分で自分の言い方がおかしいことに、気がつく。


できれば、ではなくて、どうしても帰りたい、が正しいはずだ。


「ここはむじん島だ」


それは聞いた。


すかさず次なる質問にうつる。


「そうですか。実は東京から来たんですが、ここからみて東京はどっちの方角になるんでしょうか?」


男の返答は、かなり意外なものだった。


「東京? そんな名前、聞いたことがないなあ。それは街の名前なのかい?」


東京を知らない! 


ありえない。


見た目もそうだが、流暢な日本語をしゃべっているのだ。


日本生まれで日本育ちの日本人にしか見えないのだが。


こちらの困惑を無視するかのように、男がそのまま続ける。


「千葉なら昔、住んでいたことがあるけど」


昔千葉に住んでいて、東京を知らない。


ますますありえない。


でもそんなことを気にかけているばあいではない。


千葉なら好都合だ。


太平洋から見れば東京も千葉も、ほとんど差がないのだから。


だいいち目的地は東京湾だ。


「そうですか。では千葉は、ここからどちらの方角になりますか?」


「千葉の方角? それはわからないなあ。なんせ産まれてから一度も、この島から出たことがないんでね」


昔千葉に住んでいたと言ったのに、次には、産まれて一度もこの島から出たことがないと言う。


どこかで聞いた覚えのある、矛盾だらけの台詞。


「それじゃあ、そういうことで。新しい人」


戸はぴしゃりと閉められた。




ちょっと迷ったが、中年男の家にたどり着いた。


家も田畑も鶏小屋も牛小屋も、先の二人と全く同じ。


ついでに言えば、崖をくだる道も。


そして中年男との問答。


若い男以上に露骨に迷惑がる中年男からいろいろ聞き出すのは、けっこう骨が折れたが、それでもなんとか聞きだすことが出来た。


とはいっても若い男との違いは、千葉が長野になっただけのことだった。


それ以外は、いやになるほど同じ内容の会話。


めげずに若い女を捜した。


思いのほか迷い、日が西に沈みかけようとしたころに、ようやく家にたどり着いた。


同じ家、同じ田畑、同じ鶏小屋、同じ牛小屋に同じ坂道。


彼女の友好度は、若い男と中年男のちょうど中間あたりか。


これまた、三人で打ち合わせでもしているかのような、同じ話。


違いは千葉、長野が、広島になったことだけだ。


ここまでくればあまりお勧めは出来ないが、むなぐらをつかんで振り回し、うむを言わせずに聞き出すという方法もある。


いったいなにをとぼけたことを言ってるんだ、ふざけるな、と。


遭難してここにたどり着いたが、こんなところで一生を終える気はさらさらない、と。


なにがなんでも家に帰るんだ、質問にはっきりと答えろ、と。


しかし、出来なかった。


知らない奇妙な場所に来て、知らない奇妙な人ばかりで、自分はここでは一番の新参者。


そんな環境で暴力行為におよんだら、それこそどんな扱いを受けるか、まるで検討がつかない。


相手はそろいもそろっておかしなことを言う連中なのだ。


ここは警察もいないことも考えた。


最悪殺されたとしても、誰も気付くことはない。


しかし理由はそれだけではない。


今朝起きた時も少し感じたが、今はもっと感じている。


あらゆる感情の高まりというものが、なにかに押さえつけられているような感覚。


一応、怒る、笑う、泣くといった基本的な感情は残されているようなのだが、それがある程度までいくと、それ以上高ぶらない。


思考も近いものがある。


深く集中して考えることが出来なくなっている。


すぐに、まあいいか、とか、考えるのがめんどうだ、と言う気持ちになるのだ。


まるで目に見えないなにかに、意志とか感情とか思考とかいったものを、脳みそにストローでも刺されて、ずるずると吸いとられているかのようだ。

 



帰ると――帰る? ここは俺の家なのか? ――老人がにこやかに、迎えてくれた。


「お散歩ですかな、新しい人。もうこんな時間です。お昼は抜きですな。夕食の準備にとりかかりますね」


消えた。


そこに座って待った。




どうにも合点がいかない。


今日のもろもろの会話と、頭の中のなんだかもやもやとしたもの。


眠い。


それともう一つ気付いたことがある。


朝食は食べたが、昼食は食べなかった。


さっき食べたのは夕食だ。


だというのに夕食を食べる直前になっても、空腹感というものがまるでなかった。


俺はまだ二十代で、人一倍身体が大きいのだ。


朝食は老人と同じものを同じ量だけ食べた。


食べ終わった後〝なんか食い足りないなあ〟と思ったはずだ。それなのに……。


「それじゃあ、もう寝ますか」


老人が言った。


「そうですね」


ることにした。


これ以上考えるのは、とにかくめんどくさい。




何日かが過ぎた。


何日かはわからないが。


毎日同じことの繰り返しだ。


老人にすべて世話をしてもらい、それ以外は家の中でごろごろしているか、暇つぶしに島をうろうろするかだ。


東京に帰りたい、家に帰りたい、という気持ちはある。


気持ちはあるが、強いものではない。


どちらかといえば、もういいか、という気持ちのほうが、わずかだが強くなっているようだ。


それほどこの島に魅力を感じているのか、といえば、そんなものはほとんど感じてはいない。


一人いる若く美しい女に興味があるかと言えば、あるにはあるが、それもうすいものである。


だいいち東京に帰れば若い女なんて、数だけなら一山いくらで売れるほどいるのだ。


自分の感情の変化が信じられない。


それほどまでにあきらめのいい男では、なかったはずなのだが。


自慢じゃないが今までの人生は、どちらかと言えばあきらめの悪い男で通してきた。


ところがこの島に着いてからは、何故だかはまるでわからないが、ありとあらゆるものに対して執着心と言うものがなくなってきているような気がする。




さらに何日かが過ぎた。


このままではいけないという気持ちも、どこかにある。


なにかをしなければいけないはずだ。


なんでもいいからなにか簡単で、難しくなく、努力することもなく、疲れることもなく、短時間で出来るものがいい。


しんどいことはしたくない。


そんなのごめんだ。


時間のかかることもしたくない。


そんな時間があれば、それだけもっと寝転がっていられるというものだ。


そのほうがいいにきまっている。


結局日が沈む前に、家の柱に一日一つの傷をつけることにした。


ここに来てからの日数だけでも把握しておこう、という想いからだ。


幸いにロープを切るためのナイフを持っている。


けっこう値のはるいいやつだ。


傷をつけたからといってなにかがどうにかなるわけでもないが、なにかをしなければという気持ちがどこかにあったことは確かだ。


なによりも一つ傷をつけるだけなら楽だし、あっと言う間に終わる。




その日の夕暮れ、さっそく家の裏にまわり、角の柱に傷をつけた。


横に一直線の傷。今日が一日目という意味だ。


――これでいい。今日が一日目。


はて? 今日は一日目だったのだろうか? 


ここに来てから、もう何日も経っているような気もするが。


まあいいか。今日が何日目だったとしても、柱に初めて傷をつける今日が、一日目だ。


それに本当に今日が一日目で、何日も過ぎているような気がするのは、勘違い思い違いかもしれないし、どちらにしてもそんなことはどうでもいい。




次の日、縦に一本、傷をつけた。




五日目に、横に一本、傷をつけた。


これで〝正〟の字が一つ完成した。


――今日で、五日目。




朝起きると、老人が枕元に正座をしていた。


「やあ起きましたか。それじゃあ、今日から、いろいろと教えますから」


「教える?」


なんのことかわからない。


「いや、そろそろいいかと思いましてね。簡単ですよ。すぐに覚えますから」


「だから何を?」


「田畑を耕したり、牛や鶏の世話をしたり、魚釣りやそれらの料理法なんかです。塩の採集方法もありますね。あと衣類の洗濯の仕方なんかも」


「……」


「それらをすべて伝授したら、私のあなたに対する役目は終わりますよ、新しい人。これで私も肩の荷がおりるというものです。よろしいですね?」


「……そうですか」


いつまででも世話をしてくれるわけではないらしい。


もちろん了解した。




「今日のところはこの辺にしましょうか」


もうすぐ日が暮れる。


家の中には火がくべられているが、外にはない。


日が沈めば真っ暗だ。


もちろん作業はできない。


「先に家に帰っていてください。私もすぐに行きますから」


「わかりました」


家に着いた。


そのまま中に入らずに、裏へとまわる。


角の柱に、横棒一本を刻む。


これで〝正〟の字が一つできた。


――今日は、五日目だ。




教わることといっても、簡単に言えば作物の育て方と、動物の飼育の仕方。


この二つがメインだ。


それも市場に出すものではない。


自分で食べるものだ。


細かいことに気を使う必要はないらしい。


要は植物は枯れなければそれでいいし、動物は死ななければそれでいいのだ。


五日か十日か二十日かよくはわからないが、教わる期間は、それだけあればもう充分だ。


老人が嬉しそうに言った。


「今まで教えたことを守れば、それでいいですよ。忘れないようにしてくださいね」


どうやら特別集中講義は、ただ今をもって満了したらしい。


「わかりました。今までいろいろありがとうございます」




朝、老人に起こされた。


何日か前のように、足もとで正座をしている。


「今日が、私がここを出てゆく日となりました。……ほんとうは、もう少し後になる予定だったのですが、急にそういうことになってしまって……」


眼が真剣だ。


「引っ越すんですか? どこへ? それと、もっと後の予定だったとは、いったいどういう意味なんですか?」


老人は困ったような顔をした。


「いや私は、お迎えが来てからと思っていたんですが。実はその前に彼女がいなくなってしまって。それで代わりにあの場所に住むことになったんです。一軒の家に二人いるのも、お互いに不自由ですからね」


「いなくなった? ……彼女が?」


いったいどういうことだ? 広島に帰ったとでも言うのか。


「いなくなったって、どこに行ったんです?」


老人は先ほどよりもさらに困った顔をした。


「いや、それは、……彼女はとてつもなく恐ろしいところに、行ったんです」


――とてつもなく恐ろしいところ、だって? またわけがわからないことを言い出したぞ。


「とてつもなく恐ろしいところ、ですか。それはいったいどこにあるんですか?」


老人は困った表情が、顔に張り付いたままだ。


「いや、それは、……それはよくはわからないのです。どこにあるかは」


「……じゃあいったい、それはどんなところなんですか?」


「いや、それもよくはわかりませんね。私は行ったことがないですし。……絶対に行きたくはありませんが」


おもわず身を乗り出す。


その分だけ老人が後ろにさがった。


「どこにあるかも、わからない。どんなところかも、わからない。それなのに、とてつもなく恐ろしいところですか。どうしてそんなことがわかります? あと、彼女がそこに行ったという、なにか根拠がありますか?」


老人の表情が少し和らぐ。


「それなら、あります。すべて先人から聞きました」


――先人? ここに来て初めて聞いた言葉だ。


「先人とは、どの人ですか? あの中年の男の人とか」


「いや、もうここにはいません。行くべきところへ行きました」


「……行くべきところ? それが、とてつもなく恐ろしいところなんですか?」


「いえいえ、まるでちがいますよ。行くべきところは、とてもいいところです」


「……いいところって、どうしてそんなことがわかるんですか?」


「それも先人から聞きました」


「じゃあその先人とかいう人は、そこへ行って帰ってきたんですか?」


「いや、そこへ行って帰ってきた人はいません」


「じゃあなんでいいところだと、わかるんですか」


老人は堂々と胸を張った。


「先人から聞きました」


――また不毛な会話のスパイラルに入るのか?


「もうひとつ訊きますが、とてつもなく恐ろしいところとかいう場所から、行って帰ってきた人は、いるんですか?」


「いや、そんな人はいません」


――じゃあ、なぜ?


訊こうとして、やめた。


きりがない。


堂々巡りだ。


しかし最後の質問だけは、どうしてもしておこうと思った。


「それじゃあ訊きますが、彼女はとてつもなく恐ろしいところへ、どうやって行ったんですか?」


「それは、……かわいそうなことですが、とてつもなく恐ろしいものに、連れていかれてしまったんです」


「そのとてつもなく恐ろしいものとは、どんなやつですか?」


「いやわかりません。私は見たことがありません」


――いやな予感がする。


「じゃあ、誰か見た人がいるんですか?」


「そんな人はいません。いるとしたら、連れてゆかれた人だけです」


「じゃあなんでそれが、とてつもなく恐ろしいものだと、わかるんですか?」


老人は、きっぱりと言った。


「先人から聞きました」


質問、終わり。




老人は出て行った。


もとは広島に住んでいて前日までこの島で生活をしていたが、とてつもなく恐ろしいものに、とてつもなく恐ろしいところへ連れてゆかれた女性の住んでいたところへ。


引越しの手伝いをした。


荷物はさして多くなかったので、それほど時間はかからなかった。


一部は「これから必要になるでしょう」と、残しておいてくれた。


そのあとは、ぼうとしてすごした。もうすぐ日が暮れる。




仕事といっても鶏や牛の世話、畑仕事などのいわゆる農作業は、ゆっくりやっても一時間もあれば終わる。


それ以外はほとんどやることがない。


たまに近所を訪ねるくらいだ。


近所の男三人を。ほかに近所の住人はいない。


若い男と中年男は、話すこと自体あまり好きではないらしい。


特に中年男のほうは。


老人が一番話しやすい。とは言っても、そこにたいした話はない。


世間話にも満たないような無駄な話、無駄な時間。


日々はあまりにも平穏に、ただだらだらと過ぎてゆく。




時に、老人のほうから訪ねて来ることもある。


あとの二人は一度もないが。


老人から尋ねて来たときのほうが、多少なりとも話がはずむ。


もともと人好きな性格なのだろう。


話がしたくてたまらなくなる時があるようだ。


老人がここにいてくれて本当によかった。


暇つぶしにはもってこいの人材だ。




ところがある日老人を訪ねてみると、そこはものの見事にもぬけのからだった。


どこかへでかけたという感じではなく、荷物もなくなっているかきちんと片づけられていて、家は明らかに人が住んでいない状態となっていた。


――まさか、例のとてつもなく恐ろしいものに、とてつもなく恐ろしいところへ、連れていかれたのだろうか?


かなり、あせった。


このような感情の高ぶりは、久しくなかったことだ。


急ぎ、若い男のところへとむかった。




戸をたたくと、すぐに顔を出した。


このへんが中年男とはちがうところだ。


あいつはなかなか出てこない。


「どうした?」


「あの老人が見あたらなくなったんだ」


若い男は、なあんだ、という顔になった。


「ああ、もうここを出て行ったよ」


「出て行ったとは、それは行くべきところですか、とてつもなく恐ろしいところですか、どっちでなんですか?」


「行くべきところのほうさ」


少し安心した。


あの老人にはとてつもなく恐ろしいところには、行ってもらいたくはなかった。


「そうか、それはよかった。それで行くべきところとは、いったいどんなところなんですか?」


「あの人から、なにも聞いていないのかい?」


「聞いていません」


若い男はぼりぼり頭をかいた。


「おかしいなあ、あの人が新しい人を世話する番だったのに」


「順番があるんですか?」


「ある。あの人がいなくなって、今は俺だが」


「じゃあ、いろいろ教えてください」


「俺が教えるのは次の新しい人だけど」


――また次の人が来るのか?


「次の新しい人は、いつくるんですか?」


「それはわからない」


「じゃあそれまで、私に教えてください」


それを聞いたとたん男は、にまり、と笑った。


この男が笑うのははじめて見た。


少々薄気味が悪い。


「しゃあねえなあ。なんでもどうぞ。知ってることなら教える。知らないことは、教えられない」


「じゃあ、ここはどこなんですか?」


「ここは、むじん島さ」


「……とてつもなく恐ろしいところとは、どんなところなんですか?」


「知らない」


「……とてつもなく恐ろしいものとは?」


「知らない」


やはりなにを訊いても、だめか。


さして期待もせずに、惰性で次の質問にうつる。


「じゃあ、行くべきところとは、どんなところですか?」


「行くべきところとは、死んだ人の行くところさ」


――えっ!


予想もしなかった、意外な答え。


しばらく頭の中で繰り返す。


死んだ人とは? 


あの老人が死んだということか?


「あの人が死んだんですか?」


「ああ、ようやくな」


――ようやく? どういう意味だ? そのまま訊いてみる。


「ようやく死んだとは、どういう意味ですか?」


「ようやく死んだというのは、そのまんまの意味さ。本来ならとっくの昔に死んでいなきゃならなかったのに、死ねなかった。かといってだ、生きているわけでもないんだな、これが。そんな宙ぶらりんの状態から、ようやく死んで行くべきところ、つまり死者の国へと無事に旅立ったというわけだ」


「……死ねなかった、……でも生きているわけでもない、というのは、どういう意味なんですか?」


「人間は死んだら、死んだものの世界へ行く。しかしそうはならなかった者は、この世はもちろんのこと、あの世にも行けないんだ。本当に死ぬまではね。ここにいる人は、みんなそうさ。あの人もそうだし、俺もそうだし、あんたもそうだ」


「……そうなんですか?」


「ああ、そうだよ。生きている人間は、〝人〟と呼ばれる。死んだ人間は、〝死んだ人〟と呼ばれる。どっちにしても、〝人〟ということにはちがいない。ところが俺たちみたいにどちらでもない人間は、〝人〟ではない。〝人〟でない者はちゃんと死ぬまで、この島に留め置かれる。つまりここは、〝人〟でないものが住む島。だからこの島は〝無人島〟なんだ」


「……」




若い男はもともと無愛想ではなかった。


慣れるまではしゃべらない、というタイプの男だったのだ。


いろいろと話を聞いたおかげで、俺がなぜこの島に流れ着いたのかも、ようやくわかった。


「死んだ人間は、死者の世界へ行くことになっている。普通は自然にそうなるんだが、それを邪魔するものがあるんだ。なんだと思う」


「……わかりません」


「それは自分自身さ。いろいろ条件があるみたいで、正直に言うとこまかいところまでは知らないんだが、簡単に言えば、死ぬ前に〝死にたくない、死にたくない〟と、強く長く思い続けて死んだ人は、死んでも死者の国には入れないんだ。その前に、本人がさんざん拒否しているからね」


「そうなんですか」


思い当たるふしはある。


最初に陸地が見えなくなってからずっと感じていたのは、死への恐怖だ。


このまま陸地にたどり着けなければ、当然死ぬ。


陸地を捜しながらヨットを操りながら、残り少ない水や食料を見つめながら、ずっと〝死にたくない〟と思い続けていた。


そのために俺は死者の国に入ることが出来なくなり、ここに流れ着き、留まることになったのだ。


そのほかにもわからないことはいくつもある。


「では、とてつもなく恐ろしいものとは?」


「それは本当に、わからない」


「とてつもなく恐ろしいところとは?」


「それも本当に、わからないんだ」


ただ先人から代々受け継がれてきた話なのだそうだ。


なにかは、どこかはわからないが、そういうもの、そういう場所があることは確かなのだと。


ではなぜ五人のうち、あの女性一人をさらっていったのか?


「それもわからない。ただ連れ去る時はいつも一人だそうだ。今までにも何人かが連れていかれている、という話だよ」


先人からの話なら誰も見てはいなくても、間違いのない話なのだろう。そんな気がしてきた。


まだ質問がある。


「じゃあどうしてここに、とてつもなく恐るべきもの、とかいうものがやってくるんですか?」


「それはここが、むじん島だからさ」


――無人島? それなら、さっき聞いたばかりだが。


疑問を読みとったのだろう。男が説明を加えた。


「むじん島には、実は二つの意味があるんだ。最初に言った、〝人〟の住んでいない島という意味の無人島。それともう一つ、〝神〟の住んでいない島、という意味の無神島。この二つの意味があるんだ」


「神、の住んでいない島……」


「そうだ。この島には神がいない」


男の話は、こうだ。生きている人間のイメージする神と実在の神の実態とは、けっこう開きがあるが、神がほぼ――男は「ほぼ」と言う言葉を強調した――全知全能であることと、神が〝人〟を一応――男は「一応」と言う言葉を、さらに強調した――守っている存在であることは、確かなようだ。


〝人〟であれば神は、生きている人も死んでいる人も、わけへだてはない。


というより神の眼から見れば、生きていようが死んでいようが、たいした差はないらしい。


ただ神が守っているのは、あくまで〝人〟なのだ。


ここには〝人〟がいない。


とてつもなく恐ろしいものはそれこそとてつもない力を持っているが、ほぼ全知全能の神には、さすがに勝てない。


したがってこの広大な世界で唯一〝神〟のいないこの島へ、やってくるのだそうだ。


そして一人の女がさらわれた。


まだ若くて美しい女が。


質問はまだ残っている。老人はどうして行くべきところへ行けたのか?


「それは簡単だ。本当に死ぬ準備ができたんだ。ただその基準はよくわからない。先人もわからない、と言っていたが。むこう、つまり死者の国にいる誰かが、決めているようだと。たぶんそれが正しいのだろう。おそらく生きることへの執着心が薄れた時だろうとは思うが。確信はもてないけどね」


ずっと沈みがちだった老人が、俺が来てから急に生き生きとしてきたのだそうだ。


「孫にそっくりだと、言っていた」


俺があの老人の孫に生きうつしだったと。


俺は会いたくてしかたがない孫の、身代わりだったのだろうか。


俺と触れあうことによって、老人の生への執着心が薄れたのだろうか。


若い男が言った。


「ここはいいところだよ。争いもないし、餓えもない。食べなくても飲まなくても生きていける。生きていけると言っても、もう生きてはいないんだけどね。死んでないだけで。……なんなら試してみたら。俺はもう長い間、飲み食いはしていないよ」


それは最初から気付いていた。


この男のところだけ、田畑の作物は立ち枯れていて雑草まみれ。


おまけに小屋はあるが動物達はいない。


かくいうこの俺も最近では、食事を忘れることが多くなった。


腹がすかないからだ。


「じゃあ、なぜ作物を育て家畜を飼って、食事を取れるようにできているんですか、ここは。あの人に農作業の仕方まで教えてもらいましたが」


「それはただの習慣だろう、たぶん。それ以外は、考えられないな。死んでも、いや、まだ死んでないけど、とにかくすぐに昔の習慣を忘れるというわけではないようだ。死者の国に行く基準は明確ではないと、さっき言ったけど、一つだけわかっていることがある。それは死者の国に行く人は、自然に食事を取らなくなった人ばかりだ。意識的ではなくてね。それが唯一の目安だな。あの人も女が住んでいたところに越してきてからは、いっさい食事を取らなくなったみたいだったし。生への執着は食事への執着と重なる部分が多いみたいだな」


そこまで話したところで、日が暮れた。




数日後に若い人がいなくなった。


中年の男がめんどくさそうに語ったところによれば、行くべきところ、つまり死者の国へ行ったらしい。


食事もずっと取っていなかったそうだし、準備ができたのだろう。


数日後――なのだろうか? よく、わからない――に、新しい人がきた。


中年の太った女で、どうやらもとは高知の人らしい。


その数日後に中学生ぐらいの男の子がやってきた。


この子は山梨の出のようだ。


その数日後には――いつもいつも数日後だ。なぜだろう? ――初老の秋田出身の婦人がやって来て、その数日後に、新しい人がさらに三人やって来た。


出身は訊いたはずだが、忘れた。


それと入れ替わるように、先の三人が行くべきところへ行った。


そして数日後に、最初からいていつまででも居座り続けていた中年男が、ようやくのこと旅立った。


とてつもなくおそろしいものは、あれからやってこない。


もともとそうめったに来るものではないらしい。


あの女は運が悪かったのだ、と旅立った若い男は言っていた。


ただずっとこないわけではない、とも言っていた。


かならずいつかはやってくる、と。


ただいつやってくるのかは誰にもわからないのだ。


そして数日後に一度に四人の新しい人がやって来て、しばらく後、前からいた三人のうち二人と一番新しい四人のうち二人の合計四人が、死者の国へと旅立った。


もうここに戻ってくることはないだろう。


それなのにこの俺は、まだこのむじん島に、いる。


生への執着が強いのだろうか? 


いやとてもそうは思えない。


この期におよんで生に執着しているはずがない。


食事もずっと取っていない。


だとすれば、なぜいつまでもここに留まっているのだろうか? 


考えられることは生への執着ではなく、この島に執着心がある場合だ。


が、それもそれほど、強いとは思えないのだ。


働きたがらない頭を使っていろいろと考え、最後の可能性として思いついたことは、人知れず去って行った先人たちと違ってこの俺が、この島に存在していた証をなにか残しているという可能性だ。


が、それも覚えがない。


そこまで考えて、めんどくさくなった。


ここに来てから考えることが、本当にめんどくさい。




ここ数日は一番新しい人に農作業の仕方を教えている。


出身はもう忘れたが、ここに来る前は女子大生だったという、小柄でかわいらしい女の子だ。


以前の俺なら胸がときめいたことだろうが、今はそんな感情は完全に消え去っている。


教えるのはこの人が初めてではない。


とはいっても何人目なのかはもはやわからないし、どうでもいいことだ。


「どうも、ありがとうございます」


小さな頭をちょこんとさげた後、新しい人は、自分のねぐらへと帰って行った。


もう日が暮れる。


いつものように家の裏にまわって、柱に傷をつける。


横に一直線に。


これで、〝正〟の字が一つできた。


それを見ながら、思う。


――あせることはないさ。この島に来てからまだ五日目なのだから。




      終

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むじん島 ツヨシ @kunkunkonkon

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