六話 敗北者は風邪を引く

 母は強し。

 というか、あの人のタチの悪さはハンパじゃないよ。

 実加子さんが去った後、華子はひたすらわめいて俺だけ先に帰した。心配だったけど、取り付く島もないって奴だ。仕方なかった。

 一応、後からメッセージを送ったら、ゲンさんの家にはちゃんと帰り着いたらしい。

 ともあれ次の日。

 朝ごはんを食べているところへ華子からメッセージ。


『今日、学校は休みなさい?』


 ……いきなりだな。おはようすらない。

 取りあえず返信。


『おはよう華子。なんで?』

『ゲンちゃんの家まで来なさい?』

『華子も学校サボるの?』

『私はサボりじゃないわ』

『?』

『風邪を引いたの。看病なさい?』


 そっか、風邪引いたのか、昨日雨で濡れたもんな。

 じゃあ看病しに行くか。

 ……看病?

 看病だって?

 極上の女の、恋人の、好きな女子の、看病!


「うおおおおお!」


 俺は雄叫びを上げながら家を出た。




 ゲンさんの家を訪ねる。

 インターホンを鳴らすとしばらくしてから華子の声。


『遅いわよ』


 いきなり悪態か。そんなに酷くもないのかな?

 華子が玄関扉を開けてくれる。

 長袖の地味なジャージ。髪は雑に三つ編みにして前へ垂らしている。おでこには冷却シート。口元にはマスク。

 目はうつろで隈もできていた。

 そして猫背。


「うわ、こんなだっさい華子、初めて見た」


 俺は正直な童貞なので、思ったことをそのまま口に出してしまう。今は口にしてはならないタイミングだった。

 華子が厳しくにらんで……あれ?


「いつもの眼力がないね?」

「病人にいつものパワーを求めないでよ。いいから早く入りなさい?」


 とにかく中へ。

 華子は本当に弱ってるようで、通路をふらふらと歩いている。

 ここは男を見せる時だよな!


「失礼するぜ、華子!」

「え? え?」


 華子の右脇に回った俺は、華子の膝の裏辺りに右腕を回した。そして左腕を華奢な背中に添える。

 ここで一気に右腕を持ち上げて!


「ムリムリムリ! 絶対ムリだって!」


 照れた華子が焦った声を出す。ぎゅっと両手で俺の頭にしがみついてきた。

 そうされると……華子の胸が俺の顔面に当たるんですが?

 ふわああああ!

 なんじゃ、この匂い! かつてない……かつてない、かぐわしさ!

 そして……そして!

 たったのAカップだけども確かに存在する柔らかい膨らみ! それを顔面に感じるぞぉ!

 もしかしてノーブラ? ノーブラなの?

 うおおおおお!

 俺はみなぎる情熱を駆って華子をお姫様抱っこ――

 お姫様……抱っこ……?


「ほら! あんたなんかにできるわけないのよ!」

「い、いやいや……もうちょっと……もうちょっとだから」


 こういうのは体勢の問題なんだ。うまく腰を入れて力学的にこう……。


「いいから離れなさい」

「もうちょっと……」

「ムリですから。十二キロの水を運ぶだけでヒイヒイ言ってる男に、お姫様抱っこなんて不可能ですから」

「……は、はい」


 すごすごと華子から離れる俺。実に無様。


「ったく、非力よね。ほんのちょっとでも期待した私がバカだったわ」

「あ、期待はしたんだ? やっぱ華子でもお姫様抱っこには憧れがあったり?」

「そ、そんな乙女チックなのに憧れたりはしないわよ」


 なぜか何度もまばたきしながら言う。


「そっか……喜んでくれると思ったのになぁ……」

「喜ばせたいなら失敗しない範囲で考えなさいよ」


 華子はもう俺なんて放っておいて先へと行く。

 でもやっぱりふらふらしている。これは見てられない。


「なぁ、華子。おんぶさせてくれよ」

「今度はおんぶ?」


 立ち止まった華子が振り返る。


「おんぶなら、おんぶなら大丈夫だから!」


 両手を合せて拝み倒す。

 華子がわざとらしく大きなため息をつく。


「仕方ないわね。こっち来なさい? おんぶさせたげる」

「よし、名誉挽回だ!」

「あんたに挽回する名誉なんてハナからないわよ」


 そう言いながらも、しゃがんだ俺の両肩に手を置いてくれる。


「あ、もっと、ぎゅっとしてくれていいんだよ?」

「こう?」

「違う違う! 握力で首をぎゅっとしないで!」


 両手で首を絞めたら普通に死ぬ!

 どうにか死線を越える前に華子は手を緩めた。


「あんた、やっぱりただの下心でしょ?」

「ち、違うって、危ないから……」

「どうだか」


 そう言いながらも俺に体重を預けてくる。

 ……密着はしてこないけど。

 さて、それではよっこら……。


「ちょっと! お尻触んないでよ!」

「い、いや……おんぶするんだから、お尻持たないと?」


 下心なんてほんの四割くらいだし。

 想像してたほど柔らかくないけど、手のひら全体に感じる弾力はたまらんものがある。はあああ……


「ちょっと! 今、揉んだでしょ? 絶対に揉んだっ!」

「い、いや、持ち上げるのに力を込めた?」


 ついうっかり煩悩のおもむくまま手のひらに力を入れてしまった。

 いやいや、でも揉んだってほどじゃあ……。


「お尻は触んないで。太ももにしなさいよ」

「あ、太ももならいいんだ?」


 そっちはそっちで触ってみたい。いつも眺めるだけだったおみ足の弾力やいかに?


「喜んで触らせるわけじゃないわ。下心は絶対に禁止だから。心を平らかにして触れなさい?」

「了解です」


 とにかくオッケーが出た。

 名残を惜しみつつお尻から手を離し、新天地の太ももへ。

 お、おふぅ……おふ?


「なによ、ヘンな首の傾げ方して?」

「……なんか、想像してたほど柔らかくないんだけど?」


 思ったままの感想を述べる純朴な童貞たる俺。

 なにも言わず首を絞めてくる華子。


「ゴメンゴメン! 下心は捨てます! 捨てます!」

「あんた、絶対一回死んだ方がいいって」

「マジで……マジでヤバい……ごめんなさい、華子、様……」


 ようやく首を解放してくれる。はぁ……はぁ……凶暴な女だ。

 柔らかくもない太もものせいで死ぬなんて、死んでも死にきれない。


「女子の身体を柔らかくないとか言わないでよ。単に自転車乗ってるせいだから」

「ああ、なるほど」

「いい加減寝たいんだけど。ほら、早く運んでよ」


 ああ、忘れかけてたけど華子は病人だった。早く部屋まで運んであげないと。

 俺は煩悩を捨て、華子を背負って立ち上がった。


「おお、立てた立てた」


 華子が驚いたみたいな声を出す。いくらなんでも舐めすぎでしょ?


「よし、私の部屋までゴーよ、快人。すぐそこに見えてるけどね」


 それでも心配なんだよ。

 下心なんてほんのおまけ程度だから。多分……。




 ようやく華子の部屋へ。

 ベッドの前で華子が宣言する。


「はい、とーちゃーく! さっさと下ろすように」

「はいはい……」


 もうちょっと感謝とかあってもいいと思うんだけど……。

 名残惜しいながらもお姫様を下ろす。

 華子はすぐにベッドの上に寝転がった。


「上出来よ、快人」


 どうも笑ってるっぽい? マスクで分かりづらいけど。


「思ったより大変だったけどね」

「もうちょっと身体鍛えなさいよ」

「ていうか、華子が重いんじゃないかな? 何キロあるの?」


 ベッド脇に腰を下ろしながら聞く。華子はなにも言ってこない。

 あ、女子に体重聞くのは……童貞でも知ってるタブーだよね?


「そ、そういえば華子は背が高かったよね? 重いのも仕方ないって。気にすることないと思うよ?」

「……私の体重は、常にベストだから」


 声が低いのは風邪で喉が荒れてるから? それだけではないだろう……。

 華子がマスクの向こうでため息をつく。


「ホント、快人ってば……」

「どうしようもない童貞だよね?」

「え、ああ……そうね」


 ん? いつもなら童貞童貞と罵ってくるのに?

 ああ、そうか。


「もしかして華子、処女ってバレちゃったから、俺のこと童貞って罵倒するの気が引けるようになったり?」


 華子が無言で枕元のペットボトルを振りかぶった。


「投げないで投げないで! 二リットルはダメッ!」


 俺の哀願が通じたのか、華子はペットボトルを下ろしてくれる。

 ふぅ……また命の危機が去ったか……。


「……あんたなんか呼ぶんじゃなかったわ。よけいに熱が酷くなった気がする」

「ゴ、ゴメン。別にイラつかせたくてイラつかせてるわけじゃないんだよ?」

「分かってるわよ。でも罰は必要ね」

「罰? 罰ですか?」


 タチの悪い女の考える罰? 想像すらできなくて震えてしまう。

 華子がタオルケットを被って寝る体勢になった。

 そして俺の方へ片手を伸ばす。


「罰として、私が寝付くまで手を握ってるように」

「う、うん……」


 俺は言われたとおりに女の子の華奢な手を握った。

 うれしそうに目を細めた華子が、ぎゅっと手を握り返してくる。そしてゆっくりとまぶたを閉じた。

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