五話 屋上の決闘!
俺と華子が病室に戻ると、いたのは実加子さんだけだった。
実加子さんがベッドの上から声をかけてくる。
「あれ? まだ帰ってなかったの?」
あんだけ酷い言葉を娘に投げ付けておいて、忘れたみたいにけろりとしている。
それが実加子さんという人なんだと再認識。
華子が黙ったままなので俺が代わりに話をする。
「兄貴とゲンさんは帰ったんですか?」
「うん、帰らせた。私も念のために一泊ってだけだしね」
「ああそうなんですか。それはまぁ、よかったです」
さてと、華子は相変わらず口を開かない。ここは俺の軽妙なトークで場を温めるところ?
……ムリムリ! 俺は不器用な童貞ですから!
と、華子が俺の前に出る。
「素直に謝れば、許してあげなくもないわ」
え? 一言目がそれなの?
言われた実加子さんは途端に視線が厳しくなる。
「なんで私があんたなんかに謝んなきゃなんないの?」
母親もすっかり喧嘩腰。
鈍感な童貞の俺でもこの空気はマズいと分かる。
「あ、あの、お二人さん? 穏便に行きましょうよ、穏便に。ね?」
俺が媚びた笑みを向けると、実加子さんは笑顔を返してくれた。
さすが大人。自分の感情くらい、余裕でコントロールできるよね?
「快人君の言うとおり。病室で大げんかやらかすわけにはいかないね」
「そのとおり、そのとおりですよ」
実加子さんが華子を見る。その視線は獰猛な肉食獣のもの。
「上に行こうぜ、華子。そこで白黒付けてやる」
びっ! と親指を天井に向ける。
対する華子も猛禽みたいな目で母親をにらむ。
「私はどこでもいいわよ。あんたの土下座が見られるならね!」
そして病衣のまま母親は病室を出ていき、自転車用のジャージを着た娘がその後に続いた。
俺もついてかないとダメなのかなぁ? すごい気が進まないんだけど……。
「快人、なにしてるの。早く来なさい?」
……華子に呼び付けられた。
しゃあねぇ、行くか……。
実加子さんが華子を連れ出したのは病棟の屋上だった。今はないが洗濯物なんかを干せるようになっている。
雨が上がったばかりの夕方。
薄暗いし、風が強いし、蒸し暑い。いるだけで気が滅入ってくる。
そんな中、腕組みをした母親と両手を腰に当てた娘が睨み合う。
俺は華子の後ろで様子をうかがった。
素朴な童貞たる俺にこの場を仕切る力なんてない。ヘタに介入したら母娘に喰い殺されかねなかった。
どうしよう?
まず実加子さんが口を開く。
「さて、まずは私のターンか」
「ちょっと待ちなさいよ!」
華子が厳しく遮る。
「なにさ?」
「なんであんたのターンなの? さっき酷いことを言われたのは私なんだから、まずは私に発言権があるのよ!」
「ああ? 今さっきケンカ売ってきたのはそっちだろ? あれでイラってきた私にまず攻撃する権利がある!」
ええ~!
会話の始め方でまず揉めるの? メンドくせぇ、なんてメンドくせぇ母娘なんだ!
そもそも実加子さんと会うのは、華子の母親への想いを伝えるためだよね?
なんで華子は最初から喧嘩腰なの?
実加子さんも大人げなく口喧嘩する気マンマンだし。
あーもー、どうすんの、これ?
とはいえ……このタチの悪い母娘の間に割って入るのはなぁ……。純朴な童貞には難易度高すぎるよ。
……そ、それでも、俺はやらねば! 俺がやらねば!
「あ、あの~、実加子さん? まず……まずは、娘さんのお話を聞いてあげるわけには……参りませんか?」
「ああ? あんた、部外者のくせに、母娘の会話に口挟むつもり?」
実加子さんがキツくにらんでくる。
童貞どころではない……にらまれた人間を軒並み死に追いやりそうな目だ。
「ぶ、ぶぶぶぶ、部外者っていうか……俺と華子は付き合ってるっていうか……」
「付き合ってる? ああ、そういう設定だったね。つまり……」
「つまり?」
「快人君は、私の、敵なんだ?」
液体窒素みたいな目で俺を見つめてくる。
死ぬ死ぬ……マジで死ぬ……。
「い、いやいやいや、敵ってわけじゃ……敵ってわけじゃないですよ?」
「快人」
華子が振り返って俺を見る。溶けた鉄みたいな灼熱の視線。
「まさか、私を、裏切る、つもりじゃあ、ないわよね?」
「う、裏切る? は、華子を裏切るなんて……そんなのあり得ないよ」
「じゃあ、私の味方よね?」
「う、うん……当然だろ? 俺はいつだって華子の味方だよ……」
だからって実加子さんの敵でもないけど。
「そ、よかった」
華子が優しく微笑む。
助かった。また変な誤解をされるところだった。
華子が母親に向かって大きく胸を反らす。
「聞いたでしょ? 快人は私の味方! つまり、あんたの敵なのよ!」
「えええええ!」
思わず声を出す俺。勝手に敵なんて設定押し付けないでくれる?
しかし実加子さんは真に受けてしまった。俺を射る視線はどんどん絶対零度に近付いていく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、神在家のみなさん! そもそも、母娘が敵同士っていう設定がおかしいですよ! おかしいと思いません?」
俺は生存を賭けて力説する。
しかし母娘は揃って首を横に振った。
「こいつは敵だよ」
「こいつは敵よ」
あんたらホントは仲良いだろ! なんで息ぴったりなんだよ!
しかし俺がキレても仕方がない……というか生き延びる確率が低下するだけ。どうにかして、話を母娘関係改善の方向に持っていかないと……。
俺は勇気を振り絞って二人に語りかける。
「あのぉ……」
「快人君って、華子に童貞捧げるんだよね?」
「え? は、はぁ……」
実加子さんがいきなり全然関係ない話を振ってきた?
途端に華子が俺に向かって怒鳴り声を出す。
「なんでそんな話、こいつが知ってんのよ! 快人!」
言うのはマズかった? でも、馬鹿正直な童貞はついつい洗いざらい喋っちゃうんだよ。
実加子さんが深くうなずきながら語りかけてくる。
「苦労すると思うけど頑張りなよ。華子にとっても、だい~じなだい~じな一夜なんだからね?」
「お母さん、ヘンなこと言わないで! すっごいセクシャル・ハラスメントだから、それっ!」
実加子さんの発言の中に、おやっと思う点があった。
「華子にとっても大事な一夜? やっぱケーケンホーフでも毎回大事なんですか?」
「快人! やめ……」
華子が俺に迫ろうとするが、実加子さんに手を引かれて阻まれる。
実加子さんが俺に聞く。
「ケーケンホーフって、誰が?」
俺は誠実に知っていることを述べる。
「華子ですよ。華子ってば、自分でケーケンホーフだって言ってましたよ。何度も何度も繰り返し」
「なんでいちいち馬鹿正直に……」
俺に掴みかかろうとする華子だが、実加子さんに手を引かれて阻止される。
「へ~~~! 華子ってば、ケーケンホーフなんだ~~~!」
目をキラキラさせながら俺と華子を見比べる実加子さん。機嫌がよくなったみたいだし、ここに突破口が?
「そうです。ケーケンホーフなんですよ。だから俺が童貞を捧げる時も、ちゃ~んとリードしてくれるんです。できた娘さんですよ、まったく」
俺の言葉に実加子さんは何度もうなずいた。
「さっすが、華子さん。初エッチの時から自分がリードしちゃうんだ? 自分も……」
「わーわーわーっ!」
華子がえらい大きい声でわめく。
「お、おい、華子、声がでかすぎるって」
常識人の俺は思わずたしなめた。
「そうそう、騒ぎなさんな。フツーに考えたら、とっくにバレバレの話なんかでさ」
実加子さんも母親らしく華子をたしなめる。
華子がはっとした顔になった。
「快人! あんた、ホントはとっくに気付いてたのね!」
俺には華子の問いかけの意味が全く分からない。だから怖々と聞き返す。
「……な、なにが?」
「なにがって……」
華子が灼熱の太陽みたいな目でにらんできた。
そして怒声を放つ。
「私が処女だってことに決まってるでしょ!」
俺はその言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。思わず首を傾げてしまう。
「あれ? なにその反応?」
華子が焦ったみたいな声を出す。
そのすぐ後ろから実加子さんが呆れたように言った。
「あーあ、華子やっちゃった。快人君ってば、あんたが処女なんてこれっぽっちも思ってなかったみたいだよ?」
「うそっ! だってお母さん、とっくにバレバレだって……」
驚いた顔で母を見る娘。
「フツーならね。その子、フツーじゃないレベルの童貞だもの」
「ひ、引っかけたわねっ!」
「ていうか、別に処女だからって恥じることはないんだよ? 人生、セックスだけじゃないって」
「その上から目線が、すっごいムカつく~~~!」
母娘があれこれ話している間も、俺は華子の言葉を理解できずにいた。
華子が……処女? いやいや、だって……。
「華子、ケーケンホーフなんでしょ? ずっとそう言ってたじゃない」
華子が素早く俺の方を向く。相変わらず目には怒りの炎が宿っている。
「そんなの見栄に決まってるでしょ!」
「見栄?」
「ほんのちょっぴり見栄を張っちゃっただけじゃない! 悪い?」
ということは……え? ホントに?
「華子ってば、ホントに処女なの? 生娘? バージン? 未貫通?」
「もーっ! 分かったんなら黙ってろーっ!」
頭を抱えて華子がうずくまってしまう。
それを見て実加子さんはいっそうご機嫌になる。
「いや~、今回も私の圧勝だったね?」
娘の頭をポンポンと叩く。
それを必死に片手で追い払おうとする華子。
「黙れ黙れ黙れ! こんなやり方、卑怯もいいとこよ!」
「いやいや、自爆したのあんただし。ま、小娘ごときが私に勝とうなんて百万年早いってことだよ」
実加子さんは俺に軽やかに手を振りながら階段を下りていった。
……あれ、終わり?
華子の想いを伝えるって話には、たどり着くことさえできなかったの?
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