第40話 満月の下で

 レストランに足を踏み入れると、テーブルごとに薄い白色のカーテンで区切られていて、個々の空間で食事を楽しめるようになっていた。ホテル全体で白と青を基調としているのか、壁やカーテン、テーブルクロスは白色で、床は海を思わせる青色のタイルだった。店内に飾られたギリシャ彫刻や窓から見える夜景がさらに幻想的な雰囲気を作り出している。日本にいるのに日本じゃないみたいだ。


「すっごくお洒落だね。お部屋もきれいだったし、景色も最高だし……本当に、連れてきてくれてありがとう!」

 自分にはもったいないぐらいの贅沢だ。こんな素敵な場所に来られるなんて、想像もしていなかった。ついさっきまでは大型ショッピングモールではぐっきーのイベントに参加していたのが遠い昔のことのように思える。

「喜んでもらえてよかった。茉里と一緒に来たいと思ってたんだ。ちょうどショッピングモールからも近かったしな」

 そう言って、鬼島が私を見て優しく微笑む。あぁもう、どうしてこの人は私のことを愛しくてしかたないみたいな顔で見つめてくるんだろう。大事に想われていることが嬉しくて、胸がきゅうっと締め付けられる。大好きだ。愛している。言葉では足りないぐらい、鬼島のことを心から愛している。与えられるばかりで、私は何も返せていないのに。

(そうだ、このホテルのお金だって……どうしよう。そんなに持ってきてないよ!?)

 鬼島との初デート。私だってちゃんと張り切ってお金を下ろしていた。が、ホテルに泊まったり、こんな高級そうなレストランで食事をとるなんて思っていなかった。絶対に足りない気がする。鬼島が私にお金のことを一切言わないところからして、全額自分で出すつもりなのは間違いない。というか、ホテルを予約した時点で既に支払い済みかもしれない。そこまで考えて、私は心の中で悲鳴を上げた。

(正義さん、私に尽くしすぎじゃないっ!? 大丈夫なのかな、こんなに甘やかされて。大丈夫じゃない気がする……)

 私が内心で焦っている間に、目の前には本日のアンティパストが並べられていた。野菜の緑とトマトの赤、チーズの黄色が目を楽しませ、食欲を促してくる。地元の食材のみを使用した、地産地消がこのレストランの売りらしい。そして、いつの間にか赤ワインもグラスに注がれていた。その時にはもう、お金の心配がすっ飛んでいた。

 グラスを傾けた鬼島が、にっこりと笑って口を開く。

「まずは、事前修習お疲れ様。茉里、よく頑張ったな」

「ありがとう」

 ずっと憧れていた鬼島に頑張りを認められたことが、素直に嬉しい。私も、グラスを手にとる。

「茉里の頑張りに、乾杯」

 カン、とグラスが触れ合う。鬼島があまりに甘いので、なんだか気恥ずかしい。それを誤魔化すようにワインに口をつける。葡萄の濃厚な香りと風味が口いっぱいに広がった。

 美味しい料理に、美味しいお酒。大好きな人と過ごす幸せな時間。私にとって、かけがえのない宝物だ。

「……そういえば、実務修習の配属先だが、本当にあそこで良かったのか」

 コース料理も終わりに近づいてきた頃、鬼島が心配そうな顔をして問う。

「うん。私は大丈夫。ちゃんと、前に進みたいって思うから」

 私が実務修習先として希望したのは、鬼島と初めて出会った家庭裁判所。そこは、かつて私が両親と幸せな時間を過ごした場所で、幸せが壊れて母を失った場所でもある。

 あえて、私は自分のトラウマの原点を選んだ。母を失ったショックで心が弱くなってしまった私は、よく精神的な発作を起こして倒れていた。それでも、鬼島の姿を追って勉強するうちに過去のトラウマを考えないようにする術を覚えた。過去に蓋をして、今まで生きてきた。しかし、鬼島に出会い、恋を知って、愛し愛される幸せを知って、心が満たされた今なら大丈夫だと思えたのだ。怖くない訳ではない。昔の風景は、私の辛い記憶を容赦なく蘇らせるだろう。それでも、もう逃げたくない。

 自分の過去と向き合うための強さを、鬼島がくれた。

「裁判官として働くのに、しょっちゅう倒れたりしてたら駄目でしょう? 私、もっと強くなりたい。正義さんのように」

 真っ直ぐに鬼島を見つめて言うと、ふっと表情が緩んだ。

「本当に、茉里には敵わないな。どこまでも、俺の想像を超えていく」

「正義さんがいてくれるから、私は変われたんだよ」

「あぁ。本当に、茉里は変わった。どんどん魅力的になって、俺を虜にして離さない」

 急に色気たっぷりの視線を向けないでほしい。でも、鬼島から目が離せなくて、心臓がどくどくとうるさくわめく。お酒の効果もあってか、身体が熱くてたまらない。でもそれ以上に鬼島の視線が熱くて、ワインに酔っているのか、鬼島に酔っているのか分からなくなる。

「そ、そんなことない……! それを言うなら、正義さんだって、私のことこんなに甘やかしてどうしてくれるの!」

「そんなの決まってるだろ」

 そう言って、ドSモードの表情で鬼島がにやりと笑う。

「茉里が俺以外を見ないようにするためだ」

 綺麗な顔で自信満々に言い放たれた言葉に、私はなんだか脱力する。この人は一体何を心配しているのだろう。

「……もう。今までもこれからも、正義さんしか見えないよ」

 他の人を見る余裕なんてない。私の心は鬼島にしか動かされないのだ。そう思って心のままに告げると、鬼島は嬉しそうに笑った。

「当然だ」

 と。

 その笑顔に、私もつられて笑った。


 すべてが美しく、美味しかったコース料理を食べ終えて、私たちはホテル内の探検に繰り出していた。ホテルの中庭には大きなプールがあり、これまたお洒落なバーやラウンジもあった。廊下に飾られる彫刻や絵画もじっくり見るとよく分からない場面を描いているものもあって、鬼島と一緒に楽しく拝見させてもらった。

「少し、外に出てみないか?」

 鬼島に誘われて、海側にある広いバルコニーに出た。夕暮れとは違った魅力が、夜の海にはあった。周囲が山に囲まれているため、人工的な灯りはなく、すべては月明かりに照らされていた。その様がとても幻想的で、美しかった。

「うわ~、すごくきれいっ! ねぇ見て正義さん、満月だよ!」

 自然が作り出す絶景に大興奮の私は、おもいきりはしゃいでしまう。子どもっぽいと思われるだろうか。でも、こんな素敵な場所に来たら興奮せずにはいられない。

「あぁ。本当に、すごくきれいだ」

 そう言った鬼島の視線は満月ではなく、私にそそがれていて。

 その真っ直ぐな目と目が合った瞬間に、鬼島が膝をついた。そして、私の方へ差し出した手には、黒いビロードの小さな箱が乗っていて。

 開かれた小箱の中には、月明かりを受けてきらきらと輝くダイヤモンドが美しい指輪。


「茉里、心から愛している。一生大事にすると誓うから、俺と夫婦になる契約を結んでほしい。結婚しよう」

 

 海の見える綺麗なバルコニーで、満月の下、愛する人からのプロポーズ。

 どこまで計算していたのか、この場所はホテルの野外チャペル会場だった。バルコニーの柵には十字架の装飾と小さな鐘楼がある。まるで映画のワンシーンのような光景に、私はこの状況が理解できずに固まっていた。

 何も言えないでいる私に焦れたのか、鬼島は立ち上がって私を見下ろす。

「茉里?」

「本当に……? これ、夢じゃない?」

 非現実な空間にいるせいで、自分の都合の良い夢ではないかと思えてくる。嬉しすぎてふわふわした心地になって、現実味がない。

「夢じゃない。これから先ずっと、俺を茉里の側にいさせてくれ」

 ぎゅっと抱きしめられて、愛しい人のぬくもりに包まれて、夢ではないのだと実感する。

 途端、目からは大量の涙が溢れてきた。

「う、うぅぇっ、正義さん、だ、だいすきぃぃ……!」

 号泣しながら抱きしめ返すと、鬼島が離れていってしまった。何故。涙目でぽかんと見つめていると、呆れたような顔で溜息を吐かれた。

「ちゃんと返事してくれよ。ま、肯定以外の返答は受け付けないが」

「もう! どれだけ俺様なんですか! ……でも、そういうところも含めて、正義さんのこと、愛してます。私、色々とめんどくさいと思うんですけど、正義さんと家族になりたい……よ、よろしくお願いします」

 幸せだった家庭は、母の大きな嘘一つで崩れ去った。幸せが一瞬で絶望に変わることを私は知っている。家族の脆さを知っている。それでも、一緒に生きていきたいと思える人ができた。すべてをさらけ出しても、受け入れてくれる人ができた。そして、私も、その人のすべてを受け入れたいと思えた。どんなことがあっても、支え合って生きていきたいと思う。幸せの儚さを知っているからこそ、この幸せを守るために強くなりたい。ずっと、この想いを大切にしていきたい。


「茉里、俺と一緒に幸せになろう」


 そう言って、鬼島は私の左手薬指に指輪をはめる。サイズがぴったりだ。いつの間に測っていたのやら。自分の左手に輝く指輪をみて、にんまりと緩む頬を抑えられない。


「はい。私、正義さんと幸せになります」


 満面の笑みを返すと、とろけるような甘いキスが落ちてきた。


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