第32話 気づかなかった思い

 目が覚めて、自分の腕の中で眠る茉里を見て、何とも言えない幸せな心地になった。頬にかかる黒髪を優しくはらい、そのこめかみに口づける。

 鬼島を好きだと言ってくれる、可愛い彼女。

 本当は、冷たいだけの自分の過去なんて話すつもりはなかった。しかし、あまりにも茉里が鬼島のことを完璧で立派な大人だと思っているから、胸が痛んだのだ。茉里に出会うまでの自分は本当に最低な人間だったのに、茉里から憧れの眼差しを向けられることが心苦しかった。


(俺はそんなに立派な人間じゃない……)


 だから、嫌われることを覚悟して、消したい過去を話した。

 もちろん、嫌われたとしても、一度茉里を手に入れたからには手放すつもりなんてこれっぽっちもなかったが。

「いつも、茉里は俺を受け入れてくれるんだな」

 あの時の鬼島の言葉を信じてここまで歩いてきてくれた。鬼島の過去を聞いても、好きだと笑ってくれた。



 茉里に出会って、今までしなかった努力をした。

 そして、鬼島にとってはあまりにも希薄だった家族という存在を意識するようになった。大学に入学し、独り暮らしを始めてから、鬼島は一度も実家に帰っていなかった。それまで、家族のことを気にしたこともなかった。しかし、茉里に出会って初めて、父と母、兄はどうしているのだろうか、と思うようになったのだ。

 ちょうど茉里が高校入学した年に、鬼島は数年ぶりに実家に帰った。昔は冷たい牢獄のように感じていた実家だったが、大人になった鬼島にとってその家はただの殺風景なさみしい家でしかなかった。物悲しい雰囲気を出していたのは、広すぎる家にたった二人で住んでいた両親だった。父は病に伏し、母がその看病で鬱病になっていたことを、鬼島はその時初めて知ったのだ。

 母が鬼島に父の病気のことを伝えなかったのは、忙しい息子に気苦労をかけたくない、という何とも母親らしい気遣いからだった。そのせいで、自分がすべてを引き受けることになるというのに。家を出て一度も連絡をしない薄情な息子であるのに、母はずっと心配してくれていたのだ。母はいつも父の言う通りに動き、自分の意思を押し出したことはなかった。

 しかし、もしかしたら鬼島が気付かなかっただけで、息子を愛してくれていたのだろうか。そんな思いがふと過ぎり、鬼島は初めて母を抱きしめた。憔悴しきったその身体は、あまりに弱々しく、簡単に折れてしまいそうだった。こんなにも母が弱っていたのかと、鬼島は心から驚いた。

 そして、意識が混濁し、会話も成り立たない父。絶対に逆らえない大きな存在だと思っていたのに、あまりに小さかった。

 ずっと、自分の意思を伝えることもなく、言われるままに、人形のように対応していた。それこそ、事務的に。それが、自分と父の関わり方だった。

しかし、茉里のように必死になって自分の思いを伝えていたら。父のことを知ろうとしていたら。そう思わずにはいられない。

 鬼島は母の代わりに父の看病を申し出て、最期まで父の側にいた。兄とは、連絡がつかなかった。

 そうして、何も話すことができないまま、父は亡くなった。涙は出なかった。それでも、どこか胸にぽっかりと穴が開いたような、不思議な心地になった。やはり、父を亡くして哀しかったのかもしれない。しかし、そんな自分の感情に向き合う暇もなく、葬儀の準備に追われた。ようやく落ち着き、遺品整理をはじめた頃には、哀しみなんて消え去っていた。


 ――正義。正しく、真っ直ぐな男になれ。


 父の書斎を片付けていた時に見つけた、色紙に書かれた自分の名。その日付は、鬼島の誕生日だった。達筆で書かれたその文字には、硬い印象を受けるが、そこにはたしかに生まれてくる息子への愛情が感じられた。

 他にも、兄や自分の写真や試験結果、学校で書いた作文、表彰状などが大切に保管されていた。いつも、厳格で、甘い言葉も優しい態度もなかった父だった。それでも、この書斎を見れば嫌でも分かる。父はたしかに自分を愛してくれていたのだと。父の愛は、あまりに分かりづらかった。死んではじめて分かるなんて、どこまで不器用なのか。

 母から渡された遺言状には、父がよく使っていた別荘を息子である自分に相続する旨が書かれていた……。



(あれから何年も、ここに来てはすぐに帰って、中に入ることができなかった)

 何度か、父に連れられて来たことがある。ここの桜が好きだった。父も、自分も。

 父が亡くなって、父のものだった別荘を自分が譲り受けた。別荘まで来ても、罪悪感にさいなまれて、中に入ることができなかった。親不孝な息子が、入ってもいいものか、と。父に本当に受け入れてもらえている訳ではないだろうに、とずっと思っていた。

 しかし、茉里と一緒なら、父の遺した別荘に受け入れてもらえる気がした。

茉里は、鬼島にとって特別なクライアントだったから。鬼島を信じて、この背を追って来てくれた人だから。そして、鬼島の心を奪った愛しい恋人だから。

 自分は変わったのだと、父に胸を張れる。大切な人ができたのだと、紹介したかった。


「父さん、茉里は俺の大切な人だ。父さんに似て、俺も不器用だけど、絶対に、幸せにしたいと思ってる。だから、見守っててくれ」

 鬼島がそう願うと、腕の中の茉里が身じろぎした。ん、と可愛らしい吐息を零した恋人に、鬼島は思わずキスをした。


 

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