第29話 ときめきと不安

 夜の空には、にっこりと微笑んでいるかのような三日月が浮かんでいる。都会の喧騒から外れた穏やかで静かな山中に、その別荘はあった。濃い茶色の屋根と、薄茶色の壁。月明かりに照らされた桜の花びらが散って、落ち着いた別荘の雰囲気をさらに美しく魅せている。


「夜桜、綺麗ですね」


 私は、車を停めて歩いてきた鬼島を振り返る。

 すると、私が想像もしていなかったくらいに、鬼島の顔は幸せそうに緩んでいた。私は珍しいその表情に見惚れてしまう。


「あぁ。ここの桜は毎年見事な花を咲かせる」


 そう言って、鬼島は私の肩を抱き寄せた。

 急なことにびっくりして、私はひゃうっと妙な声を上げてしまった。私の反応にくすっと笑い、鬼島は「入ろうか」と別荘に向かって歩き出す。

 少し肌寒い夜風に当たっていたはずなのに、鬼島が抱く肩からぬくもりが全身に広がっていく。特に熱いのは頬だ。きっと、真っ赤になっているに違いない。


(えっと、これは私も肩に手を回した方がいいの……!?)


 背の高い鬼島の肩に手を伸ばせば、低身長の私はおかしな体勢になるだろう。ちょうどよく届くのは、鬼島の腰あたり。これはやはり私も鬼島の腰に手を回すべきなのか。

 しかし手を回すどころか、肩に感じる鬼島の手に緊張しすぎて動けない。鬼島の優しいエスコートによってかろうじて歩いている私の足は、今にももつれそうだ。

 たった数歩の玄関までの距離を、私はドキドキしながら歩いていた。



 外から見ても立派な別荘だと感じていたが、中もすごかった。木のあたたかみを感じられる素朴な内観ではあったが、天井にはカフェでしか見たことがないプロペラのようなものが回っているし、ソファや机、壁に飾られた絵画など、一般家庭では見られないような高級そうなものばかり。というか、そもそも一般家庭の人間は別荘など持っていないだろうが。

 ふかふかのソファに座らされて、呆然と室内を観察していた私の前に、鬼島の整った顔が急に現れた。


「そんなに珍しいか?」


 ふっと鼻で笑われてしまった。


「珍しいに決まってます! なんでこんな別荘なんて持っているんですか! 鬼島さんって、本物のお金持ちなんですか……?」


 緊張して、私の声は震えていた。

 国家公務員である裁判官は、安定もしているし、給料もいい。しかし、それだけ責任感のある仕事だ。そして、鬼島は自分のための贅沢にお金を使う人ではないと思う。鬼島の家を見ても、必要最低限のものだけで無駄なものは何一つない。

 だから、父から譲られたという鬼島の別荘がこれだけ立派だということは、鬼島の家がお金持ちなのだろう。このことを志野が知ったら、玉の輿だと騒ぐに違いない。

 しかし、私は怖くなったのだ。お金持ちということは、きっと大きな家だ。そんな家の息子が私のような何の取りえもない小娘と付き合っていると知ったら、絶対反対される。ただ、鬼島と一緒にいるだけで幸せだと思っていた。未来のことは考えないようにしていた。いつか来る別れを、考えたくなかったから。それでも、こうして目の前に自分とは住む世界が違うと見せつけられたら、不安になる。

 どうして、鬼島は私をこの場所に連れて来たのだろう。鬼島のことを知りたいと強く思った。それは本心だ。しかし、知りたい反面知りたくないという思いもある。自分で自分の気持ちがよく分からない。


「私、正義さんと一緒にいてもいいんですよね……?」


 自分を見つめる黒い瞳が好きだ。怖いぐらい整った顔も、私を抱きしめてくれる腕も、鬼島の優しいぬくもりが大好きだ。鬼島も私を愛してくれていると分かっているのに、どうしてこんなにも不安になるのだろう。

 愛し合っていたはずの両親が自分のせいで壊れてしまったからだろうか。たった一つの秘密が暴かれただけで崩れてしまう、脆い関係が夫婦であると知ってしまったからだろうか。

 今まで、誰かと付き合ったこともなく、誰とも付き合う気がなかった。

 だから、どうすればいいのか分からない。

 恋人になったら、不安なんてなくなるのだと思っていたのに、どういうことだろう。私は鬼島を好きで、鬼島は私を好き。

 それなのに、どうして怖くなるのだろう。


「俺から離れていいはずがないだろ」


 不安に揺れる私の心ごと、鬼島はぎゅっと抱きしめた。


「茉里、お前をここに連れて来たのは、俺という人間を知って欲しかったからだ」


 鬼島が私の耳元で囁いた。そういえば、この別荘を指した時も同じようなことを言っていた。鬼島の腕の中はとても心地よくて、安心しきった私はいつもの調子を取り戻してきた。せっかく久しぶりに鬼島と二人きりという喜ぶべき状況なのに、私は後ろ向きなことばかり考えていた。


「鬼島さんが鬼教官と呼ばれるほどドSで、下僕発言する変態だっていうことは知ってますよ?」


「おいおい、そんな変態を好きになった下僕野郎はどこのどいつだ?」


 むにむに、と両頬を鬼島につままれる。


「ふぁたひでふっ!」


 私です、と素直に答えたというのに、鬼島は手を離してくれない。


「あ? なんだ?」


 鬼島は、なんだか楽しそうだ。完全に私は玩具にされている。


「しっかし茉里のほっぺは柔らかいなあ?」


「やめてくだひゃいっ」


 むにぃぃっと頬を伸ばされて、私は抗議の声を上げるが聞いてもらえない。


「茉里が可愛いのが悪い」


 とんでもなく甘い声を出して、鬼島は私のおでこにキスを落とした。かあっと真っ赤になる顔は、私の気持ちを雄弁に語っていた。


「さてと、先に飯でも食うか」


 そう言うと、鬼島は私の頬から手を離し、立ち上がった。

 私の頬が赤く染まっているのは、つままれたせいだけではないだろう。


「……待ってくださいっ!」


 しばし放心状態に陥っていたが、鬼島一人に晩御飯の準備をさせる訳にはいかない。私も慌てて彼の背を追いかけた。

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