第28話 初めてのドライブ
「この後、予定ないよな?」
という鬼島の一言に頷いたら、いつの間にか車に乗せられていた。それも、シルバーのいかにも高そうないい車。私は車に詳しくないけれど、ベンツという文字が視界に入った。
(……えっと、これは鬼島さんの車なんだよね⁉)
今まで、車に乗っている鬼島なんて見たことがなかった。というか、車を持っていることすら知らなかった。だって、修習所まで徒歩だったし! 都会だから車よりも徒歩の方が楽だったのだろうか。それが、何故に今、私は車に乗せられている? この状況は一体どういうことなのだ。隣の運転席では、スーツ姿の鬼島がハンドルを握っている。絵になりすぎて、怖い。かっこよすぎて直視できない。どうしてくれる、この胸のときめきを!
テンパって挙動不審になっている私を見て、鬼島がくすりと笑った。眼鏡の奥で、黒い瞳が私を映している。それだけで、頬は熱を持ち、私は恥ずかしくなって俯いてしまう。
「茉里」
甘い声で名を呼ばれるものだから、尚更どきどきする。どういうつもりか聞き出したいのに、何も言えなくなってしまう。
「今夜は帰さないからな」
近くで気配が動いたかと思うと、頬に何かやわらかくて熱いものが触れた。鬼島からの数日ぶりの口づけなのに、色気もなくひゃっと情けない声を出してしまった。
(こここ、今夜は帰さないって……つ、つまり、そういうこと……⁉)
初めて鬼島の車に乗って向かうのが、まさかラブホテル……? いやいやいや、ちょっと待ってほしい。私は何の準備もしてきていない。そのまま家に帰って課題やら自習やらいろいろとする予定だった訳で。鬼島と二人でのんびりできたらなあなんて心の隅で淡い願いを抱いていたが、急にこんな展開になるなんて聞いていない!
混乱する頭を抱えている私をスルーして、鬼島が車を発進させた。見知った景色がどんどん遠ざかり、何故か鬼島は高速のインターに入った。
「……あの、鬼島さん?」
「……」
完全に聞こえていないふりをしている。その理由がなんとなく察せられたので、私は照れつつももう一度彼を呼んだ。
「正義さん」
「なんだ?」
声が、心なしか嬉しそうに聞こえた。私に名前を呼ばれただけで、鬼教官と恐れられる人が頬を緩める。本当にこの人は自分のことを好きでいてくれているんだな、と思うと嬉しくて、胸がきゅんとする。
「どこに向かっているんですか?」
「ん~……二人でゆっくりできるところ、かな」
そう言って、鬼島は運転しながら片手で私の頭を撫でた。その骨ばった手は硬くて、男らしい。そんな手が、壊れ物を扱うかのように慎重に、優しく私に触れてくる。
(し、心臓がもたないっっ!)
鬼島は静寂を好むのか、車内に音楽は流れていない。だから、エンジン音と、鬼島が私に触れる衣擦れの音だけが車内に響いている。そして、私のばっくんばっくんと暴れ回る心臓の音。鬼島の澄ました顔からは、何も読み取ることができないが、きっと気付いているだろう。私がもういっぱいいっぱいであることに。そのことに気付いていながら、彼は意地悪をするのだ。触れていたのは頭だけだったのに、時折髪をいじったり、手を握ってきたり。
本当は嬉しくてたまらないから抵抗なんてできるはずもなく、ただただ鬼島に触れられて顔を真っ赤にすることしかできなかった。
「茉里、疲れてるなら寝てもいいんだぞ?」
車を一時間ほど走らせた頃、鬼島が優しく声をかけてくれた。運転している鬼島に見惚れていて、ぼうっとしていた私が眠気を我慢していると勘違いしたらしい。会話は最小限で、わいわい盛り上がる、ということはなかったが、鬼島を間近で見ているだけで幸せだ。こんなに素敵な恋人がかっこよく運転しているのに、眠るなんてもったいないことはできない。私は首を横に振った。
「いえ。どこに行っているのか気になりますし! それに、運転している正義さんを見ていたいですから……」
後半は少し尻つぼみになりながらもそう言うと、鬼島が深刻そうな顔で口を開いた。
「運転中にあんまり可愛いことを言わないでくれ」
「え?」
「押し倒したくなるだろう」
「~~……っ!」
なんという殺し文句だろう。私は声にならない叫びを上げた。
私はいたって平凡な女だ。容姿端麗な鬼島の恋人として、隣に立てるような女性ではないことは百も承知だ。それでも、好きだという気持ちを止められなかった。片想いでもいい、と思っていたところで鬼島も自分を好きだということが分かった。両想いだと分かり、恋人になった今でも信じられない時がある。こうやって、真っ直ぐに鬼島が私を求めてくれる言葉をくれた時は尚更、夢ではないかと思う。しかし、何度ほっぺをつねっても、何度鏡を見ても自分の状況は変わっていない。鬼島は恋人で、私を愛してくれている。この幸せな状況は夢ではない。
(私、正義さんとキスするだけでも失神しそうだったのに、夜を共にするって……絶対死ぬ……!)
あぁどうしてここにはぐっきーがいないのか。私は現実逃避対象であるはぐっきーを思い浮かべた。はぐっきーの剥き出しの歯茎を思い出せば、少しは火照った身体は冷めてきた。
「……私のどこが、いいんでしょうか?」
鬼島に好かれている、と分かっても、どこが好きなのかいまいちよく分からない。だって、私は私自身を好きになれないから。どうしたって、弱くて、脆い部分と過去の後悔をひきずってしまう。押し倒したくなるような女性としての魅力も、あるとは思えない。いつもとは違う場所で、違う空気感のせいか、私は普段なら絶対に聞けないようなことを口にしていた。
「どこ、と言われてもなぁ……」
鬼島はそれきりじっと黙り込んだ。
ひとつぐらい、即答してくれてもいいではないか。
仮にも恋人なのに。それとも、私の良いところなんて、ひとつもないのだろうか。どうして好きになってくれたのだろう。
悶々と考えていた私の耳に、鬼島の溜息が聞こえてきた。
気付けば、車はいつの間にか高速を降りて、下道を走っていた。
そして、鬼島は路肩に車を止めて、私に向き合った。
「引くなよ?」
という何やら重い言葉の後に続いたのは、私が想像もしていなかった内容だった。
「一生懸命頑張る姿は応援したくなるし、本当は泣き虫なのに強がっているところはいじらしくて可愛いし、素直に下僕を受け入れたことには驚かされたし、はぐっきーとかいう妙なキャラクターグッズを大事にしてるところも、ちょっと触れただけで顔を真っ赤にするところとか、今だって、そんな上目使いで見つめてきて、俺の理性を崩壊させようとしてるところとか?……とにかく、俺は茉里の全部が好きなんだよ」
私は、完全に言葉を失っていた。
ひとつもないのではないか、と心配したのが馬鹿らしいほどに、鬼島は私を見ていてくれていた。
それどころか、全部が好きだなどと贅沢な答えをくれた。
言葉ではどうとでもいえる。
しかし、鬼島の言葉は本気だと信じられる。私の一番辛い時期を知っていて、ずっと見守ってくれていた人だから。
恋人同士になるなんて思ってもみなかったけれど、大好きで、信頼できる人。何も信じられなくなった私が、この人なら大丈夫だと思えた人。
鬼島の言葉で、私は自信を持つことができる。あの時からずっと、鬼島の言葉が私を導いてくれている。目標としていた鬼島が、今自分の恋人として側にいて、私の全部を好きだと受け止めてくれている。
幸せだ。このまま、この幸せが続けばいいのに。心からそう願う。
かつて、幸せだった自分の家庭は崩壊した。いつか鬼島との幸せも壊れる日が来るかもしれない。優しい彼の顔が、いつかの父のように恐ろしいものに変わる時がくるかもしれない。そう思うと、怖かった。
「茉里、泣かないでくれ」
そう言われ、私は自分が泣いていたことに気付く。
そんなに気持ち悪かったか? と地味に傷ついている鬼島の腕が私の身体を包み込む。車内ということもあって、かなりきつい体勢ではあるが、私は鬼島に身を委ねていた。鬼島の体温が、その優しい腕が、嫌な想像を消してくれる。
「……私も、正義さんの全部が好きです」
まだ、私は鬼島のことをほとんど知らない。それでも、好きだ。だから、知りたい。
「私に、正義さんのことをもっと教えてください」
勇気を出して、私は自分からぎゅっとしがみつく。
「ちょうどいい。俺のことを知ってほしくて、ここに来たんだ」
そう言った鬼島の視線の先には、桜が舞い散る山があった。そして、鬼島が見ていたのは山の中腹にある木造建ての建物。
「俺の父が遺した別荘だ」
鬼島が私を連れてきてくれた場所は、彼にとってとても思い出深い、大切な場所だった。
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