第26話 下僕から恋人に
正直、何かの間違いじゃないかと思う。
あの鬼島が私を好きだなんて、あり得ない。これは私の妄想なのではないだろうか。
そう何度も思ったが、何度目をこすっても、目の前には鬼島がいる。眼鏡をかけていない、素顔の鬼島が。あまりにかっこよすぎて、輝いて見える。
「どうした? 俺の個別指導が物足りないのか」
何度も何度も見返す私に、鬼島が鋭い視線を向けてくる。その低い声に内心ときめきつつも、鬼島の機嫌を損ねたくなくて必死に言葉を探す。
「いえっ、あの、そういう訳じゃないんです!」
私は意識を取り戻してすぐに退院した。そして、その足で修習所に向かおうとしていたのを鬼島に阻止され、無理矢理彼のマンションに連れ込まれた。両想いになったその日にそういう関係になるのだろうか、と私はどきまぎしていた。しかし、無駄毛処理の心配を本気でしていた私の前に出されたのは、六法全書と過去問題集。
『修習所に行くのは認めないが、お前が無理をしない程度に勉強に付き合ってやる。感謝しろ』
と言われ、恋人になった感動もちゃんと味わえぬままに私の脳は法律で埋まっていったのだ。元はと言えば私のせいで鬼島は修習所を休んだ。そして、そんな私のために個別授業をしてくれている。
それなのに、鬼島に見惚れて集中できないなんて、許されることではない! 私は気持ちを切り替えて、文章を読む。しかし、近くで鬼島の気配を感じ、病院で好きだと言ってくれた声、まだ残る抱擁の感触を思い出せば頭の中は鬼島のことだけになる。
(だ、駄目! 全然、何も考えられないっ!)
今日は無理な気がする。いくら法律を読んでも、内容がまったく頭に入らない。勉強に身が入らない、なんて鬼島には怖くて言えない。しかし、このまま続けても意味がない。
私は勇気を振り絞って鬼島を見つめ、口を開く。
「鬼島さんに教えていただけるのは大変嬉しいのですが、やはりまだ……」
心の整理がつかない、と言おうとしたのに鬼島に遮られた。
「気分が悪いのか? そういうことは遠慮せずに早く言え。ソファで横になるか?」
鬼島が真剣な顔で私を見つめる。鬼島の前で二度も倒れてしまっているから、必要以上に心配をかけているのかもしれない。
「あの、体調は大丈夫です」
「本当か? お前はすぐ無理をする」
深刻な表情で私を心配してくれる鬼島がおかしくなって、私は笑った。
「鬼島さん、意外と心配症なんですね」
「お前に関しては、だがな」
不意打ちだ。はっきりと特別扱いされていることが分かって、緩む頬を抑えられない。顔はきっと赤くなっている。
「鬼島さん、病院で言ったこと、本当なんですよね? 夢じゃ、ありませんよね? 信じても……」
嬉しくて、胸が熱くなって、それでもまだ夢じゃないかと思う心に、たしかなものを与えて欲しかった。
だから、震える声で、私は鬼島に問う。しかしまた、鬼島は最後まで私の言葉を聞いてくれない。
信じてもいいですか? という問いは、鬼島の唇に塞がれてしまった。
「お前の心と身体すべてで、俺を信じろ」
強引で、俺様すぎるキスと言葉。それでも、どうしてだろう。この人になら、すべて任せてもいいと安心できるのは。
ファーストキスなんですけどっ! とか、ムードもなにもないじゃないか! とか、ロマンチストなんて絶対嘘でしょう! とか、言ってやりたいことは山ほどある。
それでも、私は鬼島の下僕で、もう彼の虜だから、何も言えずに二度目のキスを受け入れていた。
「愛してる」
何度も何度も唇を重ね合わす。その合間に、鬼島がこぼした愛の言葉。
ちゅっと音を立てて離れていく唇が、どうしようもなく愛おしい。言葉だけじゃなく、キスでも鬼島は私に伝えようとしてくれている。
(私、本当に鬼島さんに愛されてるんだ)
あの日から、もう誰にも愛されないのだと思い込んでいた。それでも、誰かにちゃんと愛されたいと思っていた。
好きな人に好きだと言ってもらえる幸せが、愛する人に愛を与えられる幸せが、まさか自分にもあるとは思わなかった。
「鬼島さん、大好きです」
幸せ過ぎて、涙が流れた。やわらかな唇の感触が、私を甘やかす。言葉にしたくてもできなかった言葉を、解きほぐしていく。
「ずっと、鬼島さんのことばかり考えてました。私が好きだと思うのは、迷惑なんじゃないかとか、鬼島さんは私に興味ないんだとか……鬼島さんに拒絶されたらって考えると苦しくて、気が付いたら目の前が真っ暗になってたんです。私、まだこんなに弱いんです。でも、もっと強くなります。鬼島さんの隣にいられるように」
「そのままでいてくれ。弱くてもいいんだ。俺は鬼のように強いからな」
私の涙を指ですくって、鬼島が笑った。その言葉に、私も笑う。
「鬼教官ですもんね」
「なんだと?」
つい先ほどまでの甘い雰囲気が、何故かピキっと音を立てて崩れた。鬼島は文字通り、鬼の形相で私を睨む。
「わああっ、自分で鬼って言ったくせに!」
「自分で言うのと他人に言われるのとは違うからな。それに、普通恋人に鬼だと思われたくないだろ」
またさらりと嬉しいことを言ってくれる。気持ちを伝えたから、セーブする気もないのか、かなりの頻度で甘い言葉が含まれている。
「ほ、本当に、私、鬼島さんの恋人になったんですね……?」
緊張で舌がうまく回らない。どもりながらも、私は最終確認をする。
「あぁ。今日から野々宮茉里は俺の恋人だ。はぐっきーに誓う」
途中までは感動して聞いていたが、最後にはぐっきーのぬいぐるみを出された時にはギャグとしか思えなかった。にかぁっとはぐっきーは歯茎むき出しで、心なしか嬉しそうに笑っている。
「ふ、ふざけないでください!」
「いたって真面目だが? どう見ても可愛くないが、お前が好きなキャラクターだからな。証人には適任だろう」
真面目に考えすぎて、頭のネジがぶっ飛んでしまったのだろうか。まともな人間なら、はぐっきーを証人に使わないはずだ。でも、恋人だと宣言してくれたのはとてつもなく嬉しかったので、私はもう何も突っ込まない。
「茉里」
ふいに名前を呼ばれて、私はどきっとする。苗字ではない、下の名前をはじめて呼ばれた。それだけで、心臓がまた暴れ出す。
「は、はい。なんでしょう……?」
「そこは俺の下の名を呼ぶところだろ」
「あ、そ、そうですよね! えっと……」
言葉に詰まる私を見て、鬼島の眼光が鋭くなる。
「まさか、愛する男の名を知らない、なんてはずないよな?」
そんなまさか、あるはずない。私は必死に首を横に振った。しかし、実は読み方が分からないのだ。
[鬼島 正義]
せいぎ、まさよし。どっちだろうか。
普通に考えれば正義(まさよし)だが、正義感たっぷりの裁判官だから、正義(せいぎ)かもしれない。
まさか下の名を呼ぶ時が来るとは思わなかったため、保留にしていたのだ。
しかしこのまま鬼島の殺傷能力のありそうな眼力に耐えられる自信はない。私は賭けで、とりあえず呼んでみることにした。
「えっと……正義(せいぎ)、さん?」
遠慮がちに名を呼んだ私に一瞬絶句し、鬼島は冷たい笑みを貼りつけた。
しまった。間違えた。そう思った時にはもう遅かった。私はソファに押し倒され、鬼島の手に両手を拘束される。
「恋人の名も言えないようでは、まともな裁判官にはなれないだろうな」
「え、と。すみませんっ! 正(まさ)義(よし)さん!」
離してくれ、と視線を向けるが、鬼島はまったく取り合ってくれない。そして、とんでもないことを言い出した。
「俺の名をしっかりと身体に刻み込め」
そう言って、鬼島は私の鎖骨に口づけた。そして、吸い上げる。鬼島に吸われた部分だけ、赤く染まっている。いわゆるキスマークだ。
「や、やめて、くださいっ」
このまま鬼島が何をするつもりか察した私は、早々に白旗を上げた。しかし、それが通じるかどうかはまた別の話だ。
「正義さん、だろ?」
「正義さん、やめてください!」
「名前を間違えた仕置きだ」
「へ、変態っ!」
と悪態をついてみても、鬼島の嗜虐心を煽るだけだった。
鬼島がキスマークをつける度、ひゃあっという私の色気のない悲鳴が上がる。鎖骨だけでなく、唇にも、キスが落ちてくる。だんだんと拒否する意味もわからなくなって、私はぎこちなくも応えていた。
そうして夢中になってくると、ぴたりとキスを止められた。
そして、ふわふわと暖かい心地にいた私を、いっきに凍らせる爆弾を落として鬼島は私の上から降りた。
「茉里、明日は模擬試験だ」
その一言で、私は夢うつつを抜け出した。
鬼島はやっぱり鬼だ。散々甘やかしておいて、痛い現実を容赦なく突きつけてくる。身体はまだ鬼島からもらったキスのせいで熱いというのに、頭だけは冷えている。
「勉強する気になったか」
「えぇえぇ、なりましたとも。ま・さ・よ・し・さんのおかげで!」
私は、半ばやけくそ気味に答えた。
しかし、そんな私を見つめる鬼島の眼差しがあまりに優しくて、やはりまだ勉強だけに集中は無理かもしれないなあ、と思ったのだ。
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