第25話 ご主人様と下僕の関係

 私の頭は混乱していた。目の前に鬼島の顔がある。

 しかも今、鬼島は下僕と言わなかったか。私がぼうっとしているせいで聞き間違えたのかもしれない。ちらりと鬼島を見れば、ご主人様は意地の悪い笑みを浮かべていた。どうやら下僕発言は幻聴ではないらしい。つまり、あれやこれやがあったのに私はまだ鬼島の下僕だったようだ。

 目が覚めて、鬼島がいるのは二度目だ。しかし、前とは状況が違う。

 ここは修習所の保健室ではないし、倒れた理由も火事のフラッシュバックではない。何より、鬼島に手を握られていなかった。


(ななな、なんでこんなことになってるの⁉)


 少しずつ、倒れる前の記憶が戻ってくる。

 鬼島に彼女がいることにショックを受けた翌日、鬼島に冷たい態度をとられた。と言っても、鬼島はもともと冷酷非道な教官だと思われている。優しい鬼島の方が珍しいのだ。そうと分かっていたのに心が耐えられなくなったのは、鬼島がいつもより冷たいように感じたから。

 過去のトラウマではなく、鬼島のことでショックを受けて私は発作を起こした。

 それなのに、発作の原因である鬼島の顔が間近にある。私の心臓はずっとどきどきしている。

 端正な顔立ちが、私を見つめている。手をぎゅっと握ったまま。

 振りほどかなければ。そう思うのに、倒れたばかりで疲れている私は、何もできなかった。


(彼女がいるくせに、こんなことするなんて……鬼島さんはひどい人だ)


 私は鬼島を睨む。それでも、嬉しかった。手から伝わる鬼島の熱が、私の心に染みわたる。あんなに、鬼島に対して色々と思って悩んで、苦しかったのに、この手が触れているだけで、今はもうどうでもよくなってくる。


「ったく、ご主人様を前にして、何をそんな思い詰めたような顔してんだ。下僕のくせに俺の言うことなんか全く聞かねぇで、心配ばっかりかけやがる」


 黙り込む私に、鬼島は溜息を吐いて言った。その表情は淡々としていたが、その声にはどことなく熱がこもっていた。

 下僕の心配を、本気でしてくれるご主人様。こんなに下僕を甘やかしてどうするつもりなのだろうか。

 嬉しいが、素直には喜べない。


「心配をおかけして、申し訳ありませんでした。私はもう大丈夫ですから、鬼島教官は修習所に戻ってください」


 無理矢理つくった笑顔で、鬼島を拒絶する。しかし、彼の手を振りほどく気力はまだない。


「そうやって、大丈夫じゃない時に大丈夫だって無理するから倒れるんだ。もう心配かけないっていうなら、愚痴でも何でも俺に話してみろ」


 話せ、と言われても話せるはずがない。

 あなたを好きになって、彼女がいることを知ってショックを受けた……なんてことを言える訳がない。前は鬼島の保護下にあって、今は修習生で、仮にも下僕だと言われているのに。


「何も、ないです。ただ、疲れていただけで……」


 鬼島の視線から逃れるように私は俯いた。


「そうか。俺に言えないなら、こいつには言えるか?」


 鬼島はそう言って、鞄から何かを取り出した。

 その声に顔を上げて再び鬼島を見れば、その手にははぐっきーがいた。歯茎を剥き出しにして、はぐっきーはにっこり笑っている。

 あの時の、ショッピングモールで鬼島が買い求めていたものだ。しかし、これは彼女へのプレゼントのはず。

 私が固まっていると、目の前にはぐっきーの歯茎が突きだされた。


「ほら、これやるから話してみろ」


「え、でもこれは彼女さんへのプレゼントじゃ……」


「は? 何を勘違いしてんだ。彼女なんてここ数年いねぇよ」


 呆れたように鬼島が笑う。

 このはぐっきーは、彼女のための物ではない。では何故、鬼島は興味のないはぐっきーなんかを買ったのだろう。


(私に、くれるって言ったよね? もしかして……)


 こんなマイナーなゆるキャラのグッズを集める人間なんて、そうそういない。鬼島の周囲の人間関係を知っている訳ではないが、唯一はぐっきー好きで知っているのは私だ。


「これ、私のために……?」


「他にこんな気持ち悪いキャラクター好きな奴、誰がいるんだ」


「き、気持ち悪いなんて言わないでくださいっ! はぐっきーはキモかわいい奴なんです! それが癒しなんです!」


 本当に、私のために買ってくれたのだ。はぐっきーのぬいぐるみを買うなんて、恥ずかしかったはずなのに、私のために買ってくれた。嬉しくて、照れくさくて、私ははぐっきーを抱きしめた。

鬼島は恥を忍んではぐっきーを買ってくれたのだ。私も逃げてばかりではいられない。

前向きに頑張ると決めたではないか。

 私ははぐっきーから顔を上げ、鬼島を見つめた。


「どうして、私にここまでしてくれるんですか?」


 震える声で、私は問う。その答えを聞くのが怖くても、鬼島から目を逸らさないように耐える。


「好きだからな」


 教え子だから。過去に責任を感じているから。人として放っておけなかったから。鬼島の答えは、想定していたどの答えでもなかった。

 主語がないため、何が何だかよく分からない。私の頭はパニックになる。


「え。あの? 何がお好きなんですか?」


「お前だよ、野々宮」


 その言葉が耳に聞こえて、理解した瞬間、私の頭はまたさらに混乱した。


「……えぇっ⁉ 嘘ですよね。いやいやいや、またそうやって下僕をからかって。私は騙されませんからっ……て、うわぁぁぁっ」


 鬼島は私の手を急に引いて、その腕の中に私を収めた。


「少し黙れ」


 耳元で、鬼島の低い声がする。どきどきしすぎて、また発作ではないかと焦る。しかし胸がきゅうっとなるこの感覚は、あの発作の時とはまったく違う。


「なあ。俺は意外とロマンチストなんだ。告白はちゃんとした場所でちゃんとして、お前が逃げられないよう囲い込むつもりだったんだ。それなのに、野々宮が煽るような目で見つめて来るから、計画が滅茶苦茶だ」


 鬼島の声が届く度に、耳から全身がぞくぞくする。腕のぬくもりと、胸板の厚さと、鬼島の心臓の音が私を包み込む。

 これは、夢だろうか。

 でも、どんどん強くなる鬼島の抱擁が、夢ではないと教えてくれる。


「それで。ご主人様を籠絡した下僕の答えは?」


 どくん、と心臓が跳ねた。言っても、いいのだろうか。この気持ちを伝えてもいいのだろうか。鬼島は本当に私を好きなのだろうか。信じても、いいのだろうか。自分が本当に受け入れられるのか、怖くなる。好きだと言ってくれているのに、脅えてしまう。私の身体は緊張して、強張る。

 それでも、私は口を開いた。


「……す、好きです。鬼島さんのことが、好きなんです」


 私の答えを聞いて、鬼島は微笑んだ。

 はぐっきーを彼女にあげると言った、あの時の優しい笑顔で。

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