第18話 二度目の失恋
どうして、どうして。
涙が止まらなかった。あの日のことを、鬼島は覚えていてくれて、気遣ってくれて、それだけで十分ではないか。
「私、何を期待してたの……!」
泣きながら、自宅まで歩く。人通りは少ないから、誰も泣きじゃくる私のことなんて気にしない。ブラウスの袖で涙を拭えば、ブラックコーヒーの香りがした。鬼島の香りだ。抱きしめられたぬくもりを思いだし、私はまた嗚咽を漏らす。
いつの間に、こんなに好きになっていたのだろう。
好きだ、と気づいた瞬間に、好きな人に幸せを望まれた。でもその好きな人は、私の幸せを別のところで考えている。私が踏み込む隙なんて、与えてくれそうになかった。
(わかってる。鬼島さんは、私のことを心配してくれているって……)
昔は担当の裁判官で、今は私の教官だ。鬼島はいつも、私の側にいるようでいて、遠い場所にいる。手が届く場所にいるのに、その心には触れられないのだ。
「私のこと、どう思ってるの?」
「う~ん、とってもかわいそうな女の子に見える、かな」
返答など求めていない私の呟きに、返事をした者がいた。びっくりして顔を上げると、そこには吉本が立っていた。
「野々宮さん、ひどい顔してるよ。鬼島さんに泣かされちゃったの? かわいそうに」
「え、あの……どうして」
「あぁ、鬼島教官に用があってね。でも、こんな暗い夜道を泣いている女性に一人で歩かせる訳にはいかないね」
にっこり笑って、吉本は送っていくよと私の肩をそっと抱いた。半ば強引に吉本にエスコートされながら、私は通りを歩くことになってしまった。まだ頭は混乱していて、涙は止まらないしで、ふりほどく気力がなかったのだ。
「明日の修習、来れそう?」
アパートの前に着いて、吉本は心配そうに私の顔を覗きこむ。女性にもてるのがわかる程、きれいな顔をしている。雑誌やテレビで活躍しているモデルやアイドルにも引けをとらないほどだ。そんなきれいな顔が間近に迫っているのに、私の胸はどきどきしなかった。
(鬼島さんの方が……)
思わず浮かんだ、冷たく整った鬼島の顔。心配してくれていたのに、私はあんまりな態度だったかもしれない。鬼島にとっては過去の事例のひとつ、憐れな少女がまたさらに無理をしているように見えたのだろう。変なことなど言わず、大丈夫だと笑ってみせればよかったのだ。そうすれば、傷つかずにすんだかもしれない。
「困ったな。このまま君を一人にはしたくない」
鬼島のことを思い出して、またさらに涙が溢れてきた私の前で、吉本は深刻そうに言った。これ以上、吉本に迷惑をかけてはいけない、と私が慌てて涙を拭おうとすると、身体の自由が奪われた。
ぎゅっと、身体が吉本のぬくもりに包まれる。ひょろっとしていて軟弱そうなのに、吉本の腕は意外と男らしくて、中肉中背の平凡極まりない私の身体をすっぽり包みこんでいた。それでも、私の心臓は冷静だった。驚きはしたが、鬼島の時のように胸が苦しくはないし、身体が熱くなったりもしない。
そのせいで、余計に自分の気持ちに確信を持ってしまった。
(鬼島さんじゃないと、だめなんだ……)
動かない私が、吉本を受け入れていると思ったのか、またさらにぎゅうっと抱きしめられる。
「……あ、あの」
「ん?」
という甘い声が耳元で聞こえる。抱きしめられているから、距離が異様に近い。だんだんと冷静さを取り戻してきた私は、この状況にパニックになる。
「吉本教官、私はもう大丈夫です……から、離してくだ……」
「だめだよ。僕は女の子にはとことん甘く優しくすることにしてるんだ」
どうしたものだろうか。私が弱っていて泣いていたばかりに、吉本の庇護欲というか、フェミニスト精神を刺激してしまったらしい。
「鬼島さんは、目つきは厳しいし、女の子にも甘くない。でも、君には特別なのかと思ってたけど、それも違うみたいだ。だったら、僕がかわりに優しくしてあげる」
頭を優しく撫でられる。嫌ではない。しかし、その言葉に甘えるほど、私は馬鹿ではない。
「無理です。吉本教官では、鬼島教官の代わりにはなれません」
強く否定すると、ようやく吉本の腕がゆるんだ。
「鬼島教官のこと、好きなんだね」
「はい」
私は迷いなく答えた。鬼島に受け入れてもらえなくても、この気持ちは本物だ。ずっと、心の支えにしてきたのだ。憧れだった。いつか会って礼を言いたいと思っていた。しかし、実際に会ってみると、感謝だけではなく、鬼島という一人の男性を好きだという恋愛感情まで抱くようになってしまった。
「もし、僕が野々宮さんに興味があるって言っても、僕の入る余地はないの?」
「ありません」
「そっか。僕、かなり女性にはモテるんだけどなあ」
はっきり断ると、吉本はへらりと笑う。これまた、女性が放っておかないだろう甘い笑顔だ。しかし、私はそんな吉本を真っ直ぐ見て言った。
「知っています」
「野々宮さん、おもしろいね。本気になりそうだ」
絶対にふざけている。うんざりして、私は吉本を下から睨み付けた。
「生徒をからかうのは、やめてください」
「うん、そうだね。今日のところはもう帰るよ。本当に大丈夫? もし寂しかったら、朝まで一緒にいてあげるけど」
「セクハラですよ」
「手厳しいね。じゃあね、無理はしないで」
ひらり、と手を振って、吉本は去って行った。吉本の姿が消えてから、私は重大な事実に気が付いた。
「あ、送ってもらったお礼言えてない!」
仮にも教官に家まで送ってもらったのに、お礼のひとつも言えていない。それどころか、つっけんどんな物言いをぶつけてしまった。それは、吉本の態度も態度なので仕方ない。しかし、お礼を言えていないのは自分の失態だ。
「明日、言えばいいよね」
とにかく、今日は色々と疲れた。早く寝たい。泣きすぎて真っ赤に腫れている目も冷やさなければ。明日ぶさいくな顔で人前に出ることになってしまう。
「……それにしても、また、失恋かぁ」
高校時代、私ははじめて失恋を経験した。
秀才だとうたわれていた、眼鏡の似合うクールな先輩。どことなく、雰囲気が鬼島に似ていたから、自然と目で追っていた。いつの間にか、鬼島と重ねてその先輩を好きになっていた。先輩を追いかけて、茶道部に入った。しかし、近づくこともできずに私は先輩の卒業を見送ることになってしまった。卒業式の日、おもいきって告白をすれば、彼女がいるんだ、とふられた。彼女がいるかどうかも調べずに、ただただ先輩を好きだと思っていた恋愛初心者だった私は、その言葉にかなりショックを受けたのだ。
それ以来、恋は封印していた。
だって、恋はきっと勉強の邪魔になるものでもあるから。そうやって、自分に言い聞かせていたあの日を、ふと思い出した。
(なんだ、結局私って、あの頃からずっと鬼島さんのことが好きだったんだ)
先輩に、ふられていたよかったのかもしれない。私が恋していたのは先輩ではなく、先輩に重なる鬼島さんの面影だったのだから。
鬼島には先輩の時のように告白もしていないが、もし告白したとしても鬼島の恋人になれる訳がない。そもそも、鬼島に恋人がいない保証もない。先輩の時のような過ちは起こしたくない。しかし、告白する予定もないのだ。無駄に傷つくよりは、何も知らない方がいいかもしれない。
鬼島の本質は厳しさではなく優しさなのだ。そのことに気づけば、どんな女性も放っておかないだろう。
鬼島の好きな人はどんな人なのだろう。少なくとも、私のようなめんどくさい女ではないだろう。
「あ~もう、やめやめ……どんどん空しくなる」
氷アイマスクを目にあててベッドに横たわると、すぐに私の身体は眠りについた。
夢の中でも、私は懲りずに鬼島を追いかけていた。
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