第17話 望むものはただひとつ
「お前のことを、忘れたことはなかった」
すまない、という苦しそうな鬼島の声が耳に届いて、私は冷静さを取り戻した。
身体を包むぬくもりを自覚すると、唐突に恥ずかしくなった。いい歳をして子どものように泣きわめいて、取り乱すなど。羞恥に顔は真っ赤になり、自分を抱きしめる鬼島の腕の力強さにドキドキし、冷えていた身体はいっきに熱くなった。そんな私の気も知らないで、鬼島は私を抱きしめたまま話し始める。
「俺を見ても嫌な顔をしなかったから、忘れているのかと思った。お前にとって俺は、母親を奪った敵だったから」
確かに、あの時は鬼島のことを憎いと思ったこともあった。しかし、今は鬼島が母親のことも救おうとしてくれていたのだと知っている。
「そんなこと……っ!」
私は鬼島の腕の中でおもいきり首を横に振る。
「俺は、お前が笑っていてくれればそれでよかった。それなのに、どうしてこの世界に入った……?」
本当に私のことを覚えていて、心配してくれていたのだということが分かり、私の心にはぽっとあたたかな火が灯る。しかし、私は鬼島の問いを聞いて、むぅっと口を尖らせた。
「私が裁判官を目指してはいけませんか」
少しだけ、挑戦的な言葉になってしまった。鬼島の腕に身を任せているくせに、私は鬼島に反抗している。そのせいか、鬼島は身体を離し、その鋭い双眸で私を睨んだ。
「嫌でも、お前は過去を思い出すだろう。俺は、お前には幸せになってほしい」
「なんですか、それ。私は信じるものを見つけたくて、鬼島さんを追ってきたんです。一生懸命、生きてきたんです。私自身の幸せなんて、別にもう……」
むにゅっと頬をつままれた。私の両頬をつまんでいる鬼島は、真剣な顔をしている。これは冗談ではないのだろう。
「人は、誰でも幸せになる権利を持っている」
「ふぉ、ふぉれはしょうれすけどっ!」
「俺は、お前の幸せを望んでいる」
頬をつままれたままでも言い返していた私だが、鬼島の真っ直ぐな言葉に、何も言い返せなくなってしまった。
この人は、どうしてこんなにも私の心を動かすのだろうか。
(……あぁ、好きだ)
自分の心の声に、私は驚く。いやいやいや、だめ。鬼島は、私の恩人で、目標で、憧れの人だ。恋愛感情など、抱いてはいけない。
(何故?)
自分自身に言い聞かせていると、恋心を自覚しはじめたもう一人の私が問う。鬼島からすれば私は数ある事例のひとつで、それでもちゃんと覚えていてくれて、心配してくれていたのは裁判官としての責任感からで、私個人に興味や関心がある訳ではないから。報われるはずはない。
だから、これ以上この気持ちを育ててはいけない。
(でも、好きなんだもの)
さらさらの黒髪がきれいで、氷のような眼差しの奥にはちゃんとあたたかさがある。目つきも口も悪くて、強引で、突拍子のないことを言い出したりするけど、鬼島が責任感強く、とても優しいことを私は知っている。下僕だなんだと言われた時も、びっくりはしたけど、決して不快ではなかった。
好きな人に、幸せを望まれている。
それはとても幸せなように思うのに、喜べない。
だって、私の幸せは鬼島の側にいることだと気づいてしまったから。鬼島は、私がすべてを覚えていることを知って、抱きしめてくれた。けれど、いい顔はしていない。哀しそうな目をしている。
それは、きっと鬼島の存在が私を苦しめると思っているから。
「……家まで送る」
頬から鬼島の手が離れたかと思うと、あたたかなぬくもりも去ってしまった。鬼島は私を振り返る。その目は、帰れ、と言っていた。
私が過去を乗り越えられたのは、鬼島のおかげだ。それなのに、その想いすら鬼島は受け取ってくれないというのか。だったら尚更、私の恋心なんて疎まれるに決まっている。
「一人で帰れます」
私は静かにそう言って、鬼島の横を通り過ぎた。鬼島の顔を見ることなく。
しかし、鬼島の誤解だけは解いておかなければならない。
「鬼島さん、私はもう過去にとらわれている訳ではありません。だから、今幸せですよ」
――だって、あなたに会えたから。
信じて歩いたその先に、鬼島を見つけることができたから。あの頃と変わらない、厳しくもあたたかな瞳で、そこに立っていてくれたから。
私は、一度も振り返ることなく鬼島のアパートを後にした。
***
野々宮が去っていくのを見つめて、何度も足を踏み出しかけた。
追いかけて、何になるというのだ。鬼島の頭の中はひどく混乱していた。
『私はずっと、鬼島さんだけを信じて生きてきたんです! もう忘れている鬼島さんには迷惑なだけかもしれないですけど、私は鬼島さんがいてくれたから前に進むことができたんです』
この言葉が、頭の中で反芻する。
少女を導く光になろう、と自分に厳しく正しくあろうとした。傷ついてボロボロだった少女は、その道しるべに鬼島を選んでいた。そのことが嬉しくもあり、同時に不安でもあった。
自分は本当に少女に信じてもらえるほどの人間なのだろうか、と。
もう、野々宮は少女ではない。大人の女性だ。だからこそ戸惑う。
成長した彼女に対し、自分は保護者的な立場から関わることはできないのだ。彼女の選択に、文句を言うことなどできはしない。それなのに、この世界に入ったことを責めるような言い方をしてしまった。
「俺を、信じてくれていたのか……」
信じられる人間になりたくて、鬼島は変わろうと努力した。
野々宮に出会うまでは、本気で法律の仕事に向き合っていなかった。いや、人に対して誠実ではなかったかもしれない。だが、野々宮に出会ってはじめて、法律やルールだけではなく、人間の感情と向き合うべきだと気づかされた。もっと早くそのことに気付いていれば、別の結末が待っていたかもしれない。人を信じたいと強く感じたと同時に、信じて欲しいと願っていた。
だから、彼女が自分を信じて生きていたことに、言いようのない喜びが胸の内にあった。しかし、それは自分の我儘で、自己満足だ。彼女に感謝されるべきではないだろう。
鬼島は感謝よりも、彼女に求めているものがある。
それは、彼女の幸せだ。
本気で、彼女には幸せになってもらいたい。
そうすれば、自分の道が誤りではなかったと思えるからか?
いや、彼女の笑顔が、ただ純粋に見たいからだ。
だから、誰か優しくて純粋な男が、彼女を愛し、幸せにしてやってほしい。
もう過去にとらわれてはいない、今は幸せだ、そう言った野々宮の声は、震えていた。
「幸せって、なんだろうな」
本当は、自分の側に置いておきたい、という欲求を無視して、鬼島は野々宮が置いて行ったマグカップを優しく撫でた。
「少なくとも俺では、あいつを幸せにはできないだろうな」
下僕だなんだとふざけたことを言って怒らせるばかりだった。散々な言い方をして傷つけたあげく、悲しまさせ、泣かせた。
純粋で、優しく愛することなど、鬼島にはできそうもない。この感情のままに強く求めれば、彼女を怖がらせてしまうだろう。
しかし、もう野々宮が自分に近づいて来ることはないだろう。鬼島はそう確信していた。
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