第11話 冷静になると
修習初日に出て行ったままの状態で、部屋は私を迎え入れてくれた。
玄関のはぐっきー人形は相変わらず歯茎を剥き出しに笑っていて、私は力なく笑みを零す。玄関を入ってすぐ、短い廊下を抜けた部屋には法律関係の本が散らかっており、化粧品も出しっぱなしになっていた。独り暮らしにはちょうどいいワンフロアで、キッチンやお風呂、トイレも比較的きれいで私はとても気に入っている。しかし、とてもじゃないが人を呼べるような部屋ではなかった。私は、鬼島のようにきっちりと片付けができる人間ではないのだ。
分厚い六法全書につまずきつつ、私は部屋の奥に置いてあるベッドに腰掛けた。
「はあ……」
一日ぶりの我が家だ。ゆっくり落ち着けるはずなのに、全くそんな気分になれなかった。私はベッドに転がるはぐっきー人形を抱き上げ、再び溜息を吐く。
「結局、鬼島さ……教官は何がしたかったんだろう」
今の私にとって、鬼島は司法修習の教官だ。過去のこと、初日のできごとから、鬼島とは浅からぬ関係だが、けじめをつけるべきだ。
しかし、鬼島の行動が理解できなくて、私は頭を悩ませている。
「下僕って、あれ……本気じゃないよね?」
私の問いかけに、はぐっきーはにかっと歯茎を見せている。気持ち悪い。それでも何故か憎めない。腹の立つ顔をしているのに、何故か苛々を通り越して癒される。なんだか、はぐっきーが励ましてくれているような気がしてくる。
しかし、思い返せば私は鬼島に何一つ酷いことなどされていない……はずだ。
泥棒を捕まえてくれて、家に入れない私を泊めてくれて、課題のための資料まで用意してくれて、失くした鍵の手配までしてくれた。それに対して私が鬼島にしたことといえば、珈琲を淹れたこと、朝食を作ったことぐらいだ。しかも、世話になっておきながら、出て行く時には鬼島に怒鳴ってしまった。下僕として鬼島が私に要求したのは、珈琲を淹れることと、一日一回以上笑わせろ、ということ。
鬼島の目つきの悪さと口の悪さのせいで、警戒心や反発心ばかりが育ってしまったが、こうして冷静に考えると、私にとって不利なことは何もない。横暴だと思ったことはあるが、乱暴なことはされていないし、むしろ心配してくれていた。
「ど、どうしよう……!」
変態、鬼畜、ドS――と心の中で毒づいてしまったが、鬼島は決してそんな人間ではない。それは、鬼島を追いかけるようにして努力した自分が一番よく分かっていたはずだったのに。
口数が少ないはずの鬼島が私に対して饒舌だったのは、かなり気を遣っていたからではないのか。気遣いとは無縁のような冷たい空気を纏いながら、その実とんでもなく人を甘やかす。たちが悪いのは、甘やかされた本人が甘やかされていることに気付かないようにすることだ。
どうして鬼島が私にそこまでしてくれるのか。もしかして、十年前のことを覚えているのか。自分は鬼島にとって特別な存在ではないか。ぐるぐると答えの出ない問いが、私の心を締め付ける。
期待してはいけない。現実はいつも、思い通りにはいかないのだ。何一つ、私を救ってはくれなかった。だからこそ、自分の力で切り開いていける力を付けようと決意したのだ。誰かに甘えて泣くだけならば、あの日のまま止まっていればよかったのだ。しかし、ここまで進んできたのなら、もう昔の自分には戻れない――戻りたくない。
だから、鬼島の優しさに甘えてはいけない。
「明日、謝ろう」
そして、もう鬼島には必要以上に関わらないようにしよう。もし鬼島が過去のことを覚えていたとしても、合せる顔がない。それに、鬼島の優しさに触れると、今までの苦しみや悲しみをぶつけてしまいそうになる。鬼島にすがりついて、私を受け止めて欲しいと思ってしまう。優しい鬼島は、きっとすべてを受け止めてくれるだろう。しかし、それだけは絶対に駄目だ。鬼島には鬼島の世界があり、感情がある。私の世界に巻き込む訳にはいかない。
「勉強、勉強!」
鬼島に誇れる人間になるためにも、今は目の前のことに集中するべきだ。私は鬼島のことを考えないよう、頭を切り替えて課題に向き合った。
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