第10話 解決策は簡単に
鬼島に腕を引かれ、たどり着いた先は私のアパートだった。
てっきり、また鬼島の家に連れて行かれると思っていた私は、状況がよく呑み込めない。家に帰ったとしても、鍵がないから入れないのに。
私の住んでいるアパートは二階建てで、壁の色は元は白だが今は灰色がかっており、パッと見かなりすたれた印象を与える。見た目はぼろアパートだが、部屋はそれなりにきれいに整っている……はずだ。
一階の左から二番目の部屋の前に、青い作業着を着た四十代前後の男が立っていた。その部屋のプレートには、手書きで「野々宮」と書かれている。私の部屋である。
(誰だろう……?)
私が内心で首を傾げた時、その男が私たちの足音に反応して近寄ってきた。
「……あ、鬼島様でしょうか?」
男は、一瞬鬼島の迫力にひるむ表情をしながらも、覚悟を決めて口を開いた。男の言葉に、鬼島が頷く。それと同時に、鬼島は掴んでいた私の腕を離した。さっきまであったぬくもりが急になくなって、少し心細い気持ちになりながら、私は鬼島の手が触れていた場所を左手でさする。
「私は梨本鍵屋の梨本です」
青い作業着の男が頭を軽く下げながら、鬼島に名刺を渡す。
「この部屋の鍵で間違いないですか?」
梨本と名乗った男は、私の部屋の前まで行き、鬼島に確認した。私はどういうことか説明を求めるように鬼島を見上げるが、鬼島は梨本に視線を向けている。
「はい。どうですか?」
「これぐらいなら三十分ほどでできるかと」
「助かります。家に入れずに困っていたものですから」
「では、すぐにお作りしますね」
そう言って、梨本は駐車場に止めていた車に乗り込み、去って行った。
目の前で繰り広げられる会話に、なんとなく私は事情を察することができた。
「あの、鬼島教官……これは、やはり、私の家の鍵を……?」
鬼島の鋭い眼光に怯えながらも、言葉を紡ぐ。
「あぁ、そうだが?」
「あ、ありがとうございますっ! まさか鍵を作れるなんて、思いつかなかったです」
大家さんに連絡してスペアキーをもらうか、なくした鍵を見つけるか、しか選択肢がないと思っていた。まさか、鍵を作ることができるとは。
家に入れるという安堵から、私は鬼島の呆れるような視線にも気づかずに喜んでいた。
「お前は馬鹿か」
吐き捨てるような鬼島の声が聞こえたかと思うと、頭に衝撃が襲った。私の頭の上には鬼島の手の平が縦に置かれている。
(え、これは……チョップ?)
目をぱちくりさせている私を見下ろして、鬼島は口を開いた。
「こんなアパートの鍵ぐらい、鍵屋に頼めばすぐに作れる。それをお前は鍵がないからと言ってあの公園でずっと座っているつもりだったのか?」
「え、いや、それは……」
「若い女性が一人であんな人気のない公園にいるということがどういうことか、お前は分かっているのか。泥棒に襲われた次の日に、無防備すぎる。というか、自己防衛能力が低すぎる」
ため息とともに紡がれる鬼島の言葉に、私は反論できずに押し黙る。
「本当に、裁判官になる気があるのか?」
裁判官になるために、勉強漬けの日々を乗り越えて司法試験に合格した。今までの努力が実を結んだ瞬間だった。その日々を頑張れたのは、鬼島の言葉が心に残っていたからだ。それなのに、その鬼島に本気を疑われた。そんな自分が情けなくて、私は唇を噛む。
しかし、この言葉に反論できなければ、私は本当に裁判官になどなれないだろう。
「私は、絶対に裁判官になってみせます!」
きっ…と鬼島を睨みつけるようにして見上げ、腹から声を出した。
「だったら、法律以外のことに目を向けろ」
「え?」
「俺たち実務家は法律の専門家だ。だがな、法律だけでは現場で役に立たない。俺たちが相手にするのは法律ではなく、一般市民たちだ。そして、彼らの生活の中でどう法律を活用するか、だ」
ポカンとする私を冷ややかながらも教育者としての熱意をもって見つめながら、鬼島が話す。
「少なくとも鍵をなくしたからと言って、公園で項垂れるような裁判官には何も任せられないな。俺たちは、人の人生を左右することになる。もっと柔軟な思考を持て」
下僕だなんだとふざけた変態言葉を放っていた時とは違う、真剣で真っ直ぐな言葉に、私はやはり鬼島は尊敬できる人物だと思えた。
裁判官という仕事に誇りを持ち、人のために全力を尽くす――それが鬼島という人間の本質だ。
そんな鬼島の姿を見て、私は自分の甘さを思い知る。
もっと、努力が必要だ。
勉強意欲が沸いてきた時、近くで車のエンジン音が聞こえ、先程の梨本の車が停車するのが見えた。
「鬼島様、できました」
車から降りた梨本の手には、ピカピカの鍵があった。鍵を受け取り、鬼島は梨本にお金を渡した。
その様子を見て、私は慌てて鬼島に財布をつき出す。
「あの、いくらでしたか?!」
「別にいい。ツケにしとくぞ」
「え、いや、それは……」
鬼島に借りを作りたくない。というか、下僕だなんだと言いながら、下僕のために金を払うなど……どんなご主人様だ! 下僕に甘すぎやしないか。
というか、ツケにしたらツケにしたで、何かとんでもないことを要求されそうで怖い。今済ませておきたい。
しかし本心は、鬼島にこれ以上優しくされると必死で作り上げてきた強い自分が崩れていきそうで怖かった。
「下僕のお守りもすんだし、俺は帰る。戸締まりはしっかりしとけよ」
財布を出して待っている私のことは無視して、鬼島は去っていく。追いかけようとしたが、振り返った鬼島に睨まれ、足がすくんだ。
「私、お守りが必要なほど子どもじゃないのに……」
鬼島の姿が見えなくなってから、私は呟いた。
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