第12話 遠き日の記憶

 司法修習がはじまって、一週間はあっという間に過ぎた。その間、鬼島のことを警戒しつつ、礼を言うタイミングを伺っていたが、下僕だなんだと人を惑わせておいて鬼島と二人きりになる機会はなかった。


(これがいわゆる放置プレイ……?)


 私は心の中で首を傾げつつ、鬼島の授業を受けていた。じっと鬼島を見つめているが、彼はこちらを見ようとしない。授業中に発言を求められることはあっても、クラスのみんながいる前で鬼島と話すことはできない。授業が終わって追いかけようと思っても、大量の課題に埋もれていたり、志野や高岡と話をしていたりで捕まえることができないのだ。

 そして、今日こそは! と意気込んで私は鬼島を見つめている。


「……民事裁判で多いのは損害賠償請求だ。すべてが金で解決するとは思わないが、金で丸く収まることもある。両者にとって良い解決方法を導けるよう、裁判内容をすべて把握して、お前らの頭で考えることが必要だ」


 鬼島の授業は、いつも空気がピンと張りつめている。それは、鬼島が怖い、ということだけではなく、その言葉が飾り気のない鬼島の言葉そのものだからだろう。私も、鬼島を尊敬の眼差しで見つめていると、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。

 窓際の席の人たちがざわつく。


「あれ、火事じゃないか?」


「ホントだ……民家だな」


「うわ、もうかなり火がまわってるぞ」


 その声に、ほとんどの人間が窓辺に押し寄せていた。

 私は、自分の心臓の音が速まるのを感じていた。

 ちらり、と視線が窓辺に向く。

 クラスメイトの頭の隙間に、赤い炎が見えた。火が家をのみ込んでいる。その炎に立ち向かうよう、消防士たちが必死で消火活動に励んでいる。

 その光景を見て、私の心臓はびくりと跳ねた。ダメだ、これ以上炎を見ていては。そう思っても、視線は燃え盛る炎に釘付けになり、私の心臓は数秒時を止めた。


(あ。うそ、私、死ぬ……?) 


 心臓が一瞬止まったことに驚き、まだ自分が過去を乗り越えていないことに気づく。

 そして、思い出したように心臓が動き出す。慌てて全身に酸素を送り込もうとする心臓の動きについていけなかったのか、私の頭はぼうっとしていた。一瞬でも脳に酸素がいかなかったために、私の意識は徐々に薄れていった。

 床に倒れるはずだった体が、力強い腕に抱き止められる。それが心地よくて、私は安心して意識を手放した。


「……まだ火が怖いのか」


 意識を手放す直前に聞こえたのは、鬼島の苦しげな声だった。



 ***



 当たり前だった日常は、たった一枚の紙切れで崩れ去った。


「このクソ女っ!!!!」


 いつも優しかった、穏やかな父が鬼のような形相で母を殴り付けた。何度も、何度も罵倒しながら。


「……っ!」


 美しかった母の顔が赤黒く変色していくのを、私は見ていることしかできなかった。何故なら、私の体も父によって動けないほどに痛め付けられていたからだ。

 目を閉じることができなかった。

 一人っ子で少し寂しかったけれど、普通の幸せな家庭だった。仕事熱心な父がいて、家庭を守る専業主婦の母がいて、成績はそこそこでも家族が大好きな娘がいる、そんな家庭。

 どうして、こうなってしまったのだろう。

 はじまりは、父と私の容姿が全く似ていないこと。

 母には似ているとよく言われた。しかし、父には全然似ていなかった。


『もしかして、あんたの嫁さんが他の男と作った子どもなんじゃないか』


 誰かが酔った勢いで父に言った。

 父自身も、娘が自分に似ていないことを気にしていたから、その一言は父の逆鱗に触れた。だったら確かめてやる、とDNA鑑定をすると言い出したのだ。母は強く反対したが、その態度がまた父は気にくわなかった。やましいことがなければ、何も問題ないはずだ、と。

 そして、テレビドラマでしかお目にかかることができないと思っていた鑑定書が、父を鬼に変えてしまった。

 ーーーー私と父に、血のつながりはなかったのだ。


「俺は出ていく」


 母を殴り疲れ、父は家を出た。家を出る直前、父は憎々しげに私を睨んだ。悲しくて、涙がこぼれた。

 父が出ていってから、母も変わってしまった。


「お前のせいで! お前のせいであの人が出ていったのよ! お前なんか生まなければよかった!」


 きっと、これは夢だ。幸せだったあの日に戻れる。優しかった父と母にまた会える。そう信じて、私は日常的に繰り返される母からの暴力に耐えた。

 いつしか、近所の人たちに虐待が疑われるようになり、児童相談所の職員が家にやってきた。朦朧とする意識の中で、私は保護された。しかし、父に置いていかれた母を一人残してはいけない。私を虐待から救うために来た職員に抵抗したが、無駄に終わった。母と離れて少し大人しくなった私は、家庭裁判所につれていかれた。それは、私と母を引き離すための処置をとるためだった。


 その時、母子をどうするのか決断する判事が鬼島だった。


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