第4話 再会と崩壊
初日すべての授業を終えて、私の頭の中はパンパンだった。早く家に帰って復習して、課題に取りかかりたい。
「はぁ~もうヘトヘトですね」
配布された資料や課題をカバンに詰めていた私のもとに、志野がやってきた。
「うん。早く家に帰って課題終わらさなきゃ……」
「野々宮さんって真面目ですね。まぁ真面目じゃないと法律家目指そうなんて思わないですよね」
志野があっけらかんと笑う。
その笑みと言葉に、悪意は感じられなかった。
「そんなことないよ。私、物覚えがあんまりよくないから……」
「あ、じゃあ一緒に教官のところに行きません? 勉強のコツ教えてもらいましょ」
返事する間もなく、志野に手を引かれて私は教室を出た。難しい顔、疲れた顔、様々な表情で急ぎ帰っていく修習生とすれ違い、私も早く帰りたいと強く思う。
しかし志野の手を振りほどけないでいるのは、この先にはおそらく鬼島がいるからだ。
あの時の答えをまだ見つけられずにいる自分が、鬼島に会って何を話すと言うのか。
一歩一歩進む度に緊張でうまく歩けない。志野が引っ張ってくれなかったら、きっと立ち止まっていただろう。
そうして、いつのまにか教官室に来ていた。
「失礼します」
何の躊躇もなく入っていく志野に続いて、私も教官室に入る。室内には教官分のデスクと大量の資料の山が棚に押し込められていた。すべて丁寧にファイリングされており、年代や裁判所ごとに分けられている。資料棚のすぐ前のデスクで、いくつもの書類に目を通している鬼島が見えて、私の緊張はますます強くなった。ただ、志野について来ただけだ、そう言い聞かせて軽く深呼吸する。
「どうしたの? 何か質問かな?」
私たちに気づいた優男の吉本が笑顔で出迎えてくれる。志野は吉本に促されるままに室内にあったソファーに座った。平石と他の二人は不在のようで、今教官室にいるのは吉本と鬼島の二人だけだった。
「鬼島さんも話聞いてあげたらどうです?」
話しかけるなオーラ全開の鬼島に、吉本は軽く話しかける。
一応同僚にあたる吉本からの言葉に、鬼島はピクリと眉を動かしたが返事はなかった。
「うーん、なかなか面白い人だ」
吉本は機嫌を悪くするでもなく、笑って言った。あまり怒らない穏和な人なのかもしれない。
「そっちの子も、座りなよ」
「あ、はい……」
吉本と志野と私の三人で、初日の感想から真面目な法律の話まで、気がつけば一時間ほど話していた。と言っても、私は頷いたり聞いているだけで、ほとんどは志野と吉本が話していた。
「また何かあったらいつでも相談してね」
志野と二人で吉本に礼を言い、教官室を出た。
「あ~本当は鬼島さんと話したかったけど、やっぱり吉本さんもいいなぁ。野々宮さんはどう思いますか?」
「え、勉強の相談のことだよね……?」
志野の言葉の意味がよく分からない。
「それは口実に決まってるじゃないですか~。修習生でいるうちに結婚相手見つけないと、仕事始めたら難しいって聞きますからね」
つまりは、結婚相手にふさわしいのはどちらか、ということを聞いていたらしい。
志野は私よりも若いのにもう結婚のことを考えているのか。この若さで司法試験に合格したことといい、大量の課題を前に結婚のことを考えられることといい、志野はかなり頭がいいのだろう。
「私は……修習だけでいっぱいいっぱいだろうし、よく分からない、かな」
私の答えにあまり納得していないような表情を浮かべる志野だったが、それ以上は何も言わず、教室に戻った。
「じゃ、明日も頑張りましょうね~」
「うん、頑張ろう」
修習所の門で手を振って、私たちは反対方向に帰る。
初日、緊張することは多々あったが、きっと無事に終えられる。
前期の約二ヶ月間、現場に出るまでの知識を完璧に叩き込まなければ!
(でも、鬼島さんが教官だったのには驚いたなぁ)
ずっと、忘れられなかった人。
生きるための問いをくれた人。
いつか見返したい人。
こんなに早く再会するとは思わなかった。
しかし、せっかくまた会えたのだ。
優秀な成績を修めて、立派な裁判官になって、私はもう大丈夫だと胸を張って言えるようになりたい。
新たな決意を胸に、背筋を伸ばして歩いていると、誰かに後ろから体当たりされた。その衝撃で、私は前のめりに地面に倒れる。
「ぃったぁ……!」
一体何が起きたのか。
私は両手に力を入れて、身体を起こす。
目の前には全身黒でニット帽とマスクで顔を隠した、怪しい男がいた。それも私のカバンを漁っている。カバンの中から財布を見つけた男は、悪いな、と言って走り去ろうとする。
泥棒だ。
逃がしてなるものか!
私は怒りと正義感とで足を動かし、大声で叫びながら男を追いかけた。
まさか女性の私が追いつけるとは思っていなかったのだろう、男は驚いたように目を見開いて「来るな!」と叫び、スピードを上げる。
最近の運動不足が祟ってか、私のスピードは徐々に落ちてくる。それに、パンプスで全速力はかなりきつい。
失速し始めた私を見て、泥棒がマスクごしに笑ったように見えた……その後ろには、あまりにも頼もしい姿があった。
「うわぁっ!」
男が悲鳴を上げたその一瞬、私は映画のワンシーンを見ているようだと思った。
男が運悪く逃げた方向は、私が通ってきた道で、修習所から出てきた鬼島がいた。
抵抗する暇も与えず、鬼島は一撃で男を組強いた。男は満身創痍といった風体だが、鬼島の衣服には乱れがない。
思わずその姿に見惚れていた私だが、はっと現実に返り慌てて駆け寄った。
「あのっ、ありがとうございます!」
「これはお前のか」
そう言って鬼島は私の財布を突き出した。
「はい!」
「警察を呼んだ。あと数分で来るだろう。簡単な事情聴取があるだろうから、このまま俺と待て」
「は、はい……」
このまま、とは鬼島が男に乗っかっている状態を見つめたまま、だろうか。
「何見てる」
殺人能力を持っていそうな鋭い視線に、私はすぐに目をそらした。
「あ、私盗られた場所にカバンを置いたままにしてたので、取ってきます」
そう言って、私は全速力で走る。
鬼島と話すことにこんなにも体力と精神力を消耗するとは思わなかった。
その後、鬼島の言う通り警察が来て簡単な事情聴取を受けた。男は警察に連れて行かれ、私は鬼島と二人きりになった。
「……あ」
落ち着いたことで、先程までの恐怖と不安が甦ってきて私はその場にへたりと座り込んだ。
「腰が抜けたか」
全く興味がないような声で鬼島が言った。
目の前で仮にも女子が脅えて腰を抜かしたというのに、何だその態度は。
元気づけるとか、優しくするとか、支えるとか、そういう気遣いはないものか。
それでも国家公務員か!
私は内心でかなり無茶苦茶なことを鬼島に要求した。もちろん、そんなことを知りもしない鬼島はさっさと帰ろうとカバンを片手に背中を向けた。
広くて大きなその背中はあの時よりもはるかに大きく頼もしく感じて、このままあの時のように置いていかれるのかと思うと胸が苦しくなった。
しかし、あの時と違ったのは、その背中が私の目の前に差し出されたことだ。
「……え?」
私にどうしろと?
その名の通り、鬼のような教官ーークラスではすでに『鬼教官』と呼ばれているーーの背中を、私にどうしろと?
私がどうしようもなく目をパチパチしていると、鬼島が苛立ったように私の両手を自分の肩に回した。
「家はどの辺だ」
これはどういう状況なのだろう。
いや、わかっている。自分が鬼島の背中におんぶされているのだということは分かっている。
しかしどうにも分からない。
気遣ってくれている……とは感じるが何故口調は怒っているのだ。
「え、と……桜井町ですけど」
「すぐそこだな」
「え、いや、いいです……! もう歩けます! 大丈夫ですから下ろしてください」
という私の返事は無視して、鬼島は大股で歩き出す。私を背に乗せたまま。
こんなことならダイエットしておけばよかった、という私の後悔は後に現実となる。
「あ、あのアパートです」
家に着いた頃には、辺りはもう真っ暗になっていた。時計を確認すると、十九時十分だった。
「今日は、本当にありがとうございました」
ようやく緊張する鬼島の背中から降り、私は深々と頭を下げた。
「今日、泥棒の被害があったとしても、課題の提出期限を延長するつもりはない」
まだショックが残っているというのに、鬼島は現実を突きつけてくる。しかし、鬼島の言葉は正論であり、数分後の私が直面する現実だ。鬼教官と言われる人相手に優しくされたいなどと思った私がバカだったのかもしれない。いくら私が憧れていて、目標としている人だからといって、相手には関係のないことなのだ。
面倒事に巻き込んでおいて家まで送り届けてくれただけでも有り難いことではないか。
私は何を期待していたのだろう。
志野とともに教官室に行った時は、誰に対しても冷たい態度をとっている鬼島を見て、心のどこかでほっとしていた。みんなには鬼教官だと思われていてほしかった。本当は心の優しい、自分の信念を持った強い人なのだと知っているのは、私だけでいい……そう思っていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
私が一方的に鬼島を意識していることは分かっていた。それなのに、礼を言いながら何故だか泣きたいような気持になった。
泣きたくなくて、私は鬼島の顔を見ることもなく背を向けてアパートへと走った。さっきまで腰を抜かしていたことなど、もう身体は忘れていた。きっともう鬼島はいないだろう。礼儀もなっていない変な女だと思われてしまっただろうか。
もう家に着いたのだ。課題に集中して今日のことは気にしないようにしよう。
そう頭と心を切り替えて、私はカバンの中で家の鍵を漁る。
しかし、はぐっきーのキーホルダー付きの鍵は、カバンの中に存在しなかった。
「え、嘘でしょ……まさか」
私は泥棒にカバンの中を乱された時のことを必死で思い出す。財布を見つけ、取り出した拍子に何かが転がったのを見たような気がする。まさか、その転がった物が鍵ではあるまいか。しかもあの場所は少し坂になっていて、近くには排水溝があった。もし排水溝に落ちていれば鍵はもうどこかに流されているだろう。
(え、これはやばくない?)
明日ももちろん修習がある。課題も大量にある。幸い、財布は戻ってきているのでお金はある。中身を確認すると、千二百十三円。銭湯に行けば、ネットカフェに行けない。つまりは泊まる場所がない。近所の人の部屋に泊めてもらうにしても、普段人付き合いが苦手なためにろくに話したことがない。関わりのない人間を一晩泊めてくれるようなお人好しはなかなかいないだろう。
私が一人、顔面蒼白になりながら頭の中でどうすべきか考えていると、後ろで足音がした。
「今度はどうした」
鬼島だった。まだ帰っていなかったらしい。きちんと私が家に入るのを見届けてから帰るつもりだったのだろうか。そうだったらいいのに……こんな状況にも関わらず少しだけ口元に笑みが浮かんだ。
「家の鍵を落としてしまったようで、家に入れません」
「は?」
その反応はごもっともだ。私自身、は? と言いたい。修習初日の帰り道、泥棒に遭い、鍵を落として家に入れないなんて、一日で不運が重なりすぎている。こんなに自分が不運体質だったとは思わなかった。しかし完全な不運でもない。泥棒は鬼島が捕まえてくれて財布は戻ってきたし、鬼島に家まで送ってもらえた。それもおんぶで。
「大家ならスペアキーぐらい持ってるだろ」
「それがその、大家さんは昨日から家族で温泉旅行に……」
「お前、不運だな」
鬼島の言葉に内心で頷きながら、自分でも悲しくなってきた。
なんというタイミングの悪さだろうか。
何故鍵をポケットに入れていなかったのか、今更後悔しても遅いが、考えずにはいられない。
「仕方ない。俺の家に来るか?」
「……はい?」
今、鬼島はなんと言った?
理解が追い付かない。声は裏返るし、今私は相当間抜けな顔をしているだろう。
「え、と……あの、どういう意味でしょう」
「泊まる場所がないんだろう? 俺の家を提供してやるよ。ただし……」
天の助けとも思えたその提案に、私は笑顔で飛びつこうとした。その言葉の先にどんなものが待っていようと、野宿よりかはましだ。それに、国家公務員という責任ある立場の人間の家だ。これほど安心できる場所はない。
私は言葉を聞く前に頷く準備をしていた。
「俺の下僕になれ」
鬼島が声を発したと同時に反射的に頷いた私は、後からその意味を理解した。
憧れの人に近づけて嬉しいような気もするが、私が望んでいたのはこういうことではない気がする。というか、絶対に違う。なんだ、下僕って。
私の返事を満足そうに聞いた鬼島は、珍しくにっこりと笑みを浮かべて私を見ていた。その笑顔が黒くて、危険なオーラを纏っていて、恐ろしい。逃げたいと思うのに足が動かないのは、泥棒のショックなのか、無意識に鬼島から離れたくないと思っているのか、はたまた蛇に睨まれた蛙のように怖くて動けないだけなのか。
しかし今確実に言えることは――――。
(知らない……こんな鬼島さん、私は知らないっっ!)
憧れの人物は、憧れるべきではない人間だったのかもしれないということだ。
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