第5話 下僕のお仕事?

 鬼島の家は、新築五階建てのマンションの1階だった。なんでも階段が面倒だと即決で1階に決めたんだとか。

 私は、鬼島の後ろについて歩きながら、彼の下僕になるということは一体どういうことなのかを必死で考えていた。


(下僕、下僕……ってことはやっぱり私の体目当て?)


 そう考えて、私はすぐに否定する。


(いやいや、体目当てなら私のように中肉中背の全く色気も女子力も見いだせない女に声をかけたりはしないはず……!!)


 だとすれば、肉体労働か、鬼島の趣味が悪すぎるか、ただの面白ろ半分か、私の聞き間違いか……。

 冗談であってほしいし、間違いであってほしい。

 しかし、行くところもないので家には置いてほしい。なんて都合のいい人間だろうか。法律を学ぶ者として、それなりの矜持は持っている。一方的に頼ることなどできない。そうなるとやはり、代価として今あるものーー自分を差し出す他ない。


 私が覚悟を決めた時、前を歩いていた鬼島が立ち止まった。声もかけずに急に止まったものだから、私は鬼島のすらりとした背にぶつかってしまった。


「あ、すみません……!」


 ギロリ、と眼鏡越しに睨まれた。怖くて目がそらせない。


「これからきっちり下僕としての立場を分からせてやる。入れ、俺の家だ」


 低い声でそう告げると、鬼島はさっさと中に入った。私もその後を慌てて追いかける。


「……え、と。お邪魔します」


 玄関に靴は並べられておらず、すべては汚れの見当たらない真っ白な靴箱に収められているようだった。あまりにきれいすぎる玄関に、私が戸惑っていると、鬼島は鋭い視線を私に向けて手荷物を奪った。


「さっさと靴を脱げ」


 私の荷物は鬼島と共に部屋の奥へと消えていき、玄関でずっと立ったままでいる訳にもいかず、私はこのきれいに整頓された玄関を乱さないよう神経を尖らせて靴を揃えた。しかし、清潔感漂うこの玄関に私の安物のパンプスは不釣り合いだった。


(やっぱり、いくら家に入れないとはいえ、教官の家にお世話になる訳には……)


 じっと自分の靴を見つめながら、私はこの状況が常識はずれで問題だらけであることに今更気づいた。本当にこのまま鬼島に世話になっていいのだろうか。下僕になる、とはどういうことなのか。私は何をすればいいのか。

 鬼島がどういうつもりで私を家に迎えたのかが分からない。


「おい、お前は玄関で寝泊まりするつもりか?」


 ぐるぐると考えていた私に、苛々した口調で鬼島が声をかけた。


「いえ、あの……本当に、いいんですか?」


「家に入れず金もない知り合いが目の前にいて、手を貸さないとなれば俺の信念に傷がつく。それに、もうお前は俺の下僕だ。口約束ではあるが、放棄するならそれは契約違反だ」


 抑揚のない硬く冷たい声でそんなことを言われては、私は何も言い返すことができない。


「すみません、お邪魔します」


 鬼島の意図が何も分からないまま、私は鬼の住み処に足を踏み入れた。



 ***



 一人暮らしなのに3LDKもある広い部屋に無駄なものはなく、白を基調としてシンプルに整えられていた。絶対に鬼島はA型である、と私はこの部屋を見て確信した。

 仕事部屋と紹介された部屋には、立ち入り禁止命令が下された。私にはリビングのソファーベッドを使わせてくれるという。

 そして今、私は鬼島の寝室でオレンジの光に照らされながら下僕の役目を果たそうとしていた。


「最悪だ……」


 私の味に満足できなかったのか、美しく整っていた鬼島の顔が歪む。


「す、すみません……」


「初めてか?」


 私は鬼島の視線に怯えながらこくん、と頷いた。


「仕方ない。一回で覚えろ」


「はい」


 私はこんなことをしている暇があるなら課題を終わらせたいと思いながら、逆らうこともできずに鬼島の手を凝視していた。


(なんで、なんで私がこんなことしなくちゃいけないのーー?!)


 時刻は二十二時半、私はキッチンに移動してどういう訳か鬼島に珈琲の淹れ方を教えられている。


 鬼島のいう下僕とは、雑用のことだった。風呂上がりの鬼島に寝室まで珈琲を淹れて来い、と言われた時には身体を捧げる覚悟をした。しかし、鬼島は珈琲を一口含んで苦い顔をした。ブラック珈琲しか飲まないと言っていた鬼島が、砂糖が入っていないからとの理由で顔を歪めたとは思わなかった。その理由は、十中八九私の淹れた珈琲が問題だった。

 私は珈琲など飲んだことがない。たまに紅茶は飲むが、それも簡単なティーパックだ。特にこだわりもない私は、なんでも美味しく飲めた。

 しかし、鬼島の珈琲は豆から出てきたのだ。当然、私は豆をひいたことはない。道具は出してくれたが、どう使うかが分からない。鬼島は私が珈琲を淹れることができる前提でさっさと寝室に引っ込んでしまうし、何とか私なりに考えて珈琲を淹れたのだが……鬼島の満足する味にはならなかったらしい。当然である。


 手動式のコーヒーミールを使って豆を挽く鬼島の手つきは手慣れていた。修習で見ていたスーツ姿の鬼島ではなく、灰色のスウェットを着ている鬼島を私は不思議な気持ちで見ていた。眼鏡の奥に見える目はじっと珈琲豆を見つめ、丁寧にハンドルを回す。

 そして、溜め息をついた。


「ったく、なんでこんな簡単なことができねぇんだ」


 という鬼島に、だったらはじめから自分で珈琲を淹れればよかったのに……と思うが、そんなことを言えるはずもなく、黙ってその工程を頭に叩き込む。


 まず、豆を挽く。鬼島は粗挽きが好みらしい。

 そして、ドリッパーをフィルターにセットし、約10gの挽いた珈琲豆を入れ、沸騰したお湯をそそいで蒸らす。サーバーのメモリに到達するまで何度か注湯を繰り返す。

 鬼島の淹れる珈琲の香りに、少しだけ私の緊張が緩んだ。


「この味を覚えておけ」


 そう言って目の前に出された珈琲は、私にも飲みやすいようにか砂糖とミルクも添えられていた。


「はい」


 初めて飲む珈琲は、緊張と不安とで深く味わうことができなかった。ただ、苦味だけが舌に残って、砂糖とミルクを大量に入れて飲み干した。

 珈琲を飲んだためか、様々なことがあった疲れで襲ってきた眠気が去って目が冴えてきた。



「明日の修習に遅刻するなよ」


 その言葉を最後に、鬼島は寝室ではなく仕事部屋に引っ込んでしまった。

 

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