第2話 憧れの存在

 司法修習所には、全国から集められた修習生が集う。ここに来る者たちはみな、司法試験の合格者ーー裁判官、弁護士、検察官を目指す者たちである。

 この修習所から、すべてが始まるのだ。


(修習を無事終えて、私は裁判官になってみせる……!)


 しーん、と静まり返る教室の隅で私は拳を握る。

 集まった修習生は、いくつかのクラスに分けられた。今から優秀な教官たちによる指導が行われるという緊張の中で、誰一人として口を開く者はなかった。

 白い壁に囲まれた教室内には、人数分の机と椅子が用意されており、小学校や中学校の頃を思い出させた。広くもなく、狭くもない教室に集められているのは、三十人前後の男女。男性の割合の方が多いが、極端に女性が少ないという訳でもなく、私は少し安心した。

 もし何かあった時、女性の方が話しかけやすい。しかし、ここで友人を作るつもりはなかった。ここにいる者たちはみな同志であり、ライバルだ。


 それに、友人を作る努力は高校でやめた。

 興味のない話に合わせ、笑顔を作ることに疲れてしまったのだ。しかし、人を裁く者として、人間を理解しておく必要がある。人付き合いが面倒な私が、手っ取り早く人間観察できる方法は、アルバイトだった。修習生になれば修習専念義務があり、裁判官になっても副業は許されない。大学では勉強漬けになり、アルバイトをする時間はない。そうなれば、アルバイト経験ができるのは高校生の三年間だけだ。私は接客のアルバイトをしながら高校の勉強と独学で司法試験の勉強をしていた。

 それもこれも、すべては裁判官になるため。

 修習生として、私がするべきことは国民のために法律のすべてを頭に叩き込むことだ。


 私の席は、真ん中の一番後ろだった。

 教室全体が見渡せる、私にとっては落ち着ける場所。

 若い者からいい歳をした者まで、全員が席に着き、息を殺して固まっている。

 みながみな背筋を伸ばして緊張している中に、五人の男が教室に入ってきた。このクラスを教える教官たちだ。修習の科目は民事裁判、民事弁護、刑事裁判、検察、刑事弁護の5科目で、それぞれに教官がつく。


「おはよう。まずはじめに、君たち司法修習生に言っておくことがある」


 と、最初に入ってきた最年長の教官が口を開いた。おそらく、四十代後半だろう。全員の視線が、その教官に注がれた。白髪混じりだが整えられた髪、黒いスーツの襟には実務家であることを証明するバッジが光り、その刻まれた皺には威厳すら感じる。

 私たち修習生のバッジは、筆記体大文字の「J」が図案化されたものだ。ラインが全て繋がるように描かれ、それぞれの囲みが検察官・裁判官・弁護士を表す赤・青・白の3色で塗り潰されている。修習生にとっての誇りでもある。しかし、本物のバッジと比べてしまえば、その価値はやはり違う。


「知っていることと思うが、君たち修習生は修習に専念すべき義務と秘密を保持する法的義務がある。君たちには、ここでの学びと実務修習の学びの中で、法のプロフェッショナルとしての高い倫理観と職業意識を身につけてほしい」


 その言葉で、緊張状態だった教室の空気がさらに引き締まった。


 そして、担当科目と名を名乗り、教官が一人ひとり自己紹介をしていく。


「私は刑事裁判担当の平石ひらいし。このクラスの責任者です」


 先ほど挨拶した最年長者はやはり責任者のようだった。私は最重要人物だと頭に書き込む。


「どうも、検察担当の吉本よしもとです。修習生の皆さん、司法試験合格おめでとうございます。将来みなさんと社会のために働けることを楽しみに教えていきたいと思います」


 比較的若い三十代中頃の男がにっこりと挨拶した。パーマがかった黒髪は、清潔感を損なうことなく、優男風の吉本によく似合っていた。そして、そのやわらかな笑顔によって少しばかり場の空気が和んだ。

 しかし次の瞬間、再び場の空気は固まった。


「民事裁判担当の鬼島きじまだ。お前らに一言だけ言っておく。これからお前らは国民の血税で学び、生活する。その責任を理解できない馬鹿は即刻出て行ってもらう。俺はお前らのためではなく、国民のために働く」


 冷たくそう言い放ったのは、五人の中で最も若い男だった。短い黒髪できれいに整った顔つきだが、眼鏡越しに見える目は鋭い。すらりとした長身で、纏う冷たいオーラさえなければ、間違いなくモテる男だ。しかし、あまりにも悪いその目付きによって、誰もが萎縮していた。きらきらした瞳でかっこいい! などと黄色い悲鳴を上げようものなら一睨みで殺されそうだ。

 


 しかし、私は別の意味で衝撃を受けていた。

 この冷ややかな声、目付きの悪さ、鬼島という名前……間違いない。

 あの時の裁判官だ。


『君は、何を信じる?』


 この一言で、私は自分が何も信じられない人間になってしまったのだと気づいた。心には、深く棘が刺さった。真実は、現実はいつも心をズタズタにする。

 私はそんな自分が嫌だった。強くなりたかった。

 だから、法律という武器を持ちたかった。

 そのきっかけになった人物が、今目の前にいる。

 これからは、あの人から学ぶことができる。


 みなが脅えている中、私たけが目を輝かせて鬼島を見ていた。

 一見冷たくて怖い人に見えるが、心まで冷たくはないと私は知っている。

 あの言葉も、私にとっては必要な言葉だったから。


(鬼島さんにそのつもりがなかったとしても、私にとっては憧れの裁判官です……!)



 しかしその憧れは、すぐに消え去ることになる。

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