裁かれたい系男子に夢中

奏 舞音

第1話 夢への第一歩

 この世界には、どうしても受け入れられない現実がある。

 人間だからこそ、目の前の現実に左右される。

 ロボットならば、何があったとしても決められたプログラムをただこなしていくだけでいい。

 人間は、感情という問題を抱えた欠陥品だ。

 人や物に執着し、己の欲を満たす。

 人は人を愛し、同時に殺す生き物だ。

 それは、全て人間の持つ感情故……。

 そして、その欠陥を補うために理性という鎖が欲望を縛り付ける。


 人間社会での鎖は、法律――――。

 感情が暴走しないように、社会の秩序を乱さないように、"法律"という鎖で人間という獣を縛り付ける。

 しかし法律は万全ではない。

 何故なら法律もまた人間が作ったものだからだ。


「君は、何を信じる?」


 確かなものは何もない。

 社会の基盤である法律でさえ、不確かなものだ。

 信じられるものなど、何もない。

 黒い、泥だらけになった心に、その問いは重く沈んでいった。


 ――私の、信じるものは…………



 今まで信じていたものが崩れ去り、その問いに答えることができなかった私はただ呆然と涙を流した。




   ◇◆◇×.×.×.×.×.×.×.×.×.×.×.×◇◆◇ 




『朝ぐっきー! 起きるぐき!』


 5時に設定したアラーム音がうるさく部屋に響く。

 一部の人間に熱狂的な人気を誇るゆるキャラ<はぐっきー>の特製目覚ましで朝を迎えるのが、いつからか私の日課となっていた。

 はぐっきーは、歯茎が異様に飛び出たゴリラのようなブタのようなよく分からないキャラクターで、ご当地キャラという訳でもなく、なんのために誰の利益のために生まれたのか分からない存在だ。それでも何故かこうしてグッズが出ている。

 歯茎が飛び出るほどの満面の笑みは、見ていて可愛いというよりも恐怖を覚える。ゆるキャラのくせに歯茎だけはリアルで、誰がこんなキャラクターのグッズなんか買うものか! と初めて見た瞬間は思ったものだが、高校時代片想いしていた先輩にフラれた日このはぐっきーの気持ちの悪い笑顔を見て笑うことができたのだ。その日、血迷って買ってしまったはぐっきー特製目覚まし時計は、毎日きっかりと私のために働いてくれる。


「……おはよ、はぐっきー」


 一人暮らしの私は、毎日はぐっきーに朝の挨拶をする。モーニングコールする彼氏が欲しいものだが、そんな存在生まれてから二十五年、一度も居たことのない寂しい女なのだ。

 野々宮ののみや茉里まり、それがはぐっきーに起こされる寂しい独身女性の名だ。


 親戚のおばさん達は口を揃えてこう言った。


「茉理ちゃん可愛いからすぐ彼氏できそうなのに~もったいない。大学でいい人いないの?」


 余計なお世話だ。可愛いのに、と付ければなんでも許されると思っているのか。

 大学でいい人など見つけられるはずがないだろう。みんな自分の勉強に必死で色恋などに割く時間はないのだ。恋愛を楽しむ余裕があるのは天才的な頭脳を持つ者か、勉強を諦めて遊ぶ連中だけだ。私は平凡な頭脳を持つ平凡な女だが、努力だけは惜しまない。奨学金という名の借金にまみれながら通う大学で、勉強以外にすることなど私には見つからなかった。当然、遊ぶ友達もいなかった。私は遊ぶために大学に来たのではない。


 あの日の答えを見つけるために大学に来たのだ。

 

 若者の楽しみすべてを捨てて、私は司法試験の勉強に時間を費やした。最速で裁判官になりたい、と大学卒業後は、司法試験受験資格を得るために予備試験を受けた。予備試験には合格したが、司法試験一回目は落ちた。一発合格はできなくても、きっといつかは……そう思って努力を続けた。

 そしてついに今年、平凡な頭脳の私が司法試験に合格した。


「さぁ、今日から夢の第一歩が始まるわ!」


 今日から一年間の司法修習が始まる。

 答えを見つけるために私が目指したのは、裁判官。

 裁判官になるためには、司法試験に合格し、司法修習を終えなければならない。司法修習でも考試という試験があり、それをパスしなければ修習を終えることはできない。

 司法試験に合格したからといって、すぐに夢の舞台に立てる訳ではないのだ。

 しかし、ようやくその第一歩を踏み出すことができた。

 私は顔を洗い、念入りに歯を磨き、スウェットからスーツに着替る。そして、鎖骨まで伸びた、染めたことのない天然な黒髪をピシッと一つに結ぶ。鏡から見返す私の茶色がかった瞳は光がなくて、どんよりしている。こんな幸薄そうな顔をしていては評価を落とされるかもしれない。

 私は買ったばかりの化粧品を取り出して、慣れない化粧をする。少しでも明るく、少しでも可愛くなれるように。

 大学に行く時、化粧なんて一度もしたことはなかった。しかし、社会人たるもの化粧をしないなど裸で街を歩くのと同じだと親戚のおばさんに言われ、私は初めて化粧品を買った。何がなんだか分からないので、きれいに化粧を施した店員の女性にやり方を教えてもらい、自分でも出来る限りの練習をした。そして、今まで何故化粧をしていなかったのか自問自答した。ファンデーションでコンプレックスのそばかすは隠せるし、徹夜続きでできた目の下のくまもコンシーラーで隠すことができる。自信のない素顔をさらけ出して歩いていた過去の自分が恥ずかしい。もっと早くに化粧を覚えるべきだった。


 そんな後悔を思い出し、拳を握っているとまたもやはぐっきーが喚きだした。



「あ、もう七時前!」


 出発時間に時間を合わせておいてよかった。私は昨日の夜のうちに準備していたカバンを手に全身鏡の前に立ち、最終チェックをする。

 きれいにアイロンがけされたワイシャツ、シワひとつないスーツ、ケバくない薄化粧、挨拶用の笑顔……。

 戦闘準備は万端だ。

 今までの努力を司法修習でずっこけて無駄にする訳にはいかない。

 

 私は新品の黒パンプスを履き、玄関に置いてあるはぐっきー人形に手を合わせた。


「どうか、どうか無事に司法修習が終わりますように!」


 私に拝まれたはぐっきーは相変わらず歯茎を飛び立たせて気味悪く笑っていた。

 その気持ち悪い笑顔に見送られ、私は司法研修所へと向かった。


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