愛しいあなたへ空から

ツヨシ

本編

突然彼から言われた別れの言葉。


あまりのことに頭が真っ白になった。


数日前にプロポーズされたばかりだと言うのに。


いったい何がどうなっているのか。


その日はまっとうな話し合いは行われなかった。


私の頭が完全に混乱していたからだ。


彼がなにを言ったのか、自分がなにを言ったのか、ほとんど覚えていない。

 



その後の記憶はあいまいだ。


職場でも家でも。


「風邪をひきました」


嘘を言って会社を休んだのは三日後のこと。


その間に彼に何度も電話したような気もするが、定かではない。

 



一週間が過ぎたころ、ようやく彼に会うことができた。


多少は気持ちもおさまり、記憶力も回復しつつある。


「どうしてなの?」


彼からの返事はかなり意外なものだった。


「麻子、俺、結婚するんだ。二週間後に」


二週間後に結婚式? ありえない。


私にプロポーズしたのがほんの十日ほど前。


それなのに二週間後に別の女と結婚すると言うの? 


どうすればそんなことが可能になるのか。


「つまり……」


彼の話はこうだ。


会社で常務の娘を薦められた。


一旦は断ったが、常務がどうしてもと譲らない。


とりあえず付き合っているうちにどんどん結婚話が進み、そして二週間後の結婚がきまってしまった、と。


私とは別れようとしたが、愛しているがためになかなか別れることができなかったのだと言う。


「だったら……」


あのプロポーズはなんなのかと聞けば、酔っていてそれはよく覚えていないと言った。


あの日、彼は確かに酔ってはいたが、多少酔ったくらいでいいかげんなことを言ったり、記憶をなくしてしまうような人ではないことは、この私がよく知っている。


しかし彼は、酔っていて覚えていないと、言い張るばかり。


「すでに結婚が決まっているんだ。式は二週間後だ。もう別れるしか他に方法はないんだよ」


ほとんど修羅場に近い話し合いだったが、私がなにをわめいても彼は途中からそれしか言わなくなった。


その言葉を何十回聞いただろうか。


数える気にもなれない。


ただ同じ言葉を幾度となく呪文のように聞いているうちに、私の中で何かが音をたてて切れた。


そして言った。


「わかったわ。もう別れましょう」


彼の顔に浮かぶ満面の笑み。


「ようやくわかってもらえたか。そうしてくれると助かる。それじゃあ彼女と会わないといけないので、もう行くよ」


そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。


私は独り残され、泣いた。



二週間後に結婚式と言うことは、考えるまでもなく私にプロポーズする前に式の日取りは決まっていたのに違いない。


それなのにプロポーズをしてその数日後に別れ話。


プロポーズも覚えていないと言い張り、そのまま。


いくら考えても結論は一つ。


少なくとも数ヶ月間は二股をかけていたはずだ。


それを結婚式の直前まで続けていたのだ。憎い。


――憎い憎い憎い憎い憎い。


心の底から湧き上がるどす黒い恨みつらみ。


人間がこれほどまでに濃密な憎しみを、こんなにも大量に生み出すことができる生き物だとは知らなかった。


それほどまでに憎しみは深く、怒りは激しい。


――絶対に許さない。


そう、許してなるものか。


本気で人を憎んだ女の執念がどれほどのものなのか、思い知らせてやる。


本気で憎めば死ぬ気で怨めば、なんだってできる。


できないことはなにも無い。


それに新妻に対する嫉妬も加われば、もはや不可能などなに一つない。


私はなんだってできるのだ。


――本気で憎めば、心のそこから怨めば、身を切り裂かれるほど嫉妬すれば、私は神にも悪魔にもなれるんだ。


彼を本気で憎むもの心の底から怨むのも、まるで息をするように簡単だ。


――私にできないことはない。できないことはない。できないことはない。できないことはない。できないことはない。できないことはない。できないことはない。できないことはない。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる。なんだってできる……




何の問題もなく結婚式を迎えることができたことは、俺にとっては幸運な事ではあったが同時に不思議な事でもあった。


――よく麻子がすんなり身を引いたものだ。


情が深く我の強い女だと思っていたが。


――でもいい女だったな。


付き合って間もなく肉体関係となり、その肉体に魅了された。


今までに十人以上の女を抱いてきたが、それまでの女とはまるで違っていた。


もっと性格のしおらしい女、明るい女、従順な女もいたが、俺は誰とも長続きはしなかった。


長く続いたのは麻子一人だけだ。


それもその肉体によって。


女を肉だけで計る男はバカだと思っていたのに、そんな俺が麻子の肉に溺れたのだ。


何事もなければ、結婚するかどうかは別として、そのまま関係が続いていたのに違いない。


しかしある日、職場に新しい女がやってきた。


若村ゆり子と言う名だ。


見た目はけっこう好みだった。


しかも聞けば常務の娘だと言う。


常務といえば、次期社長候補の筆頭である。


俺は一か八かに賭けてみることにした。


会社にいる間中、ゆり子に好感を持たれるように考えて、常にそう行動した。


しばらくして彼女の目に好意のまなざしを見た時は、思わず小躍りしそうになったくらいだ。


おまけにやり手で自尊心の高い父親とは違い、おとなしくて気弱な性格。


いわゆる押しに弱いタイプの女だ。


俺は強引に交際を申し込み、強引に肉体関係を結び、強引にプロポーズを受けさせた。


父である常務にもなんとか承諾をもらい、晴れて結婚が決まった。


俺はこれでも若手では出世頭なのだ。


だから常務も会社と娘の幸せを同時に考えて、結婚を了解してくれたのだろう。


常務が社長に就任すれば、俺は会社では向かうところ敵なしとなるだろう。


そうなれば麻子の存在は邪魔になる。


さっさと別れなければならないところなのだが、甘い肉に縛られて、なかなか別れ話を切り出せないでいた。


おまけに今日こそはなにが何でも言ってやると決めた日に、麻子の肉の上で踊っている最中に結婚を迫られた。


一瞬たりとも肉から離れたくなかった俺は、つい承諾してしまったのだ。


その後の数日間は地獄だった。


ほとんど仕事でミスをした事のなかった俺が、ミスの連発。


一度も喧嘩したことがなかったゆり子とも、ささいなことで言い争ってしまった。


追い詰められ、意を決してようやく切り出した別れ話。


その後は激しい暴風雨になると予想していたのだが、驚いたことに暴風雨は短期間でおさまり、気がつけば完全な凪状態となっていた。


――結婚が決まっていたことで、あきらめがついたのか?


麻子の気性を考えれば想像できない話ではあるが、その考えしか浮かんでこない。


とにかく最大のピンチはまぬがれたようだ。




式の当日、念のため麻子が紛れ込んでいないかあたりを見回したが、麻子の姿はどこにも見当たらなかった。


式は結婚式場内にある教会風の建物で行われ、牧師の格好をしているが牧師ではない白人男性の進行でとどこおりなく終わった。


教会風建物を出ると、親族友人知人同僚が左右に列に並んで道を造っていた。


その中央を進むと、みないっせいに米を投げ始めた。


降り注ぐライスシャワーの中を二人で進む。


結婚式のハイライトだ。


が、その時、何かが頭に当たった。


――雨?


感触としては雨だった。


ゆり子が空を見上げている。


俺も空を見た。


空はめったにお目にかかれないほどに見事に真っ青で、文字通り雲一つない。


それなのに雨がぽつりぽつりと降っている。


―狐の嫁入りか? それにしても雲が全く見当たらないが。


それにこの雨、なんだかねばねばしている。


ほとんどの人がまだ空を見上げている中、女が一人、金切り声を上げた。


それをきっかけに、みなが気づいた。


もちろん俺もゆり子も。


その雨は、真っ赤な雨だったのだ。


「血だ!」


常務の声だ。


俺は常務ではなく、ゆり子を見た。


純白のウエディングドレス。


それが上部を中心に赤く染まっていた。


人々がいっせいに逃げ出す。


俺はとっさにゆり子の手を取り、引っ張った。


しかしゆり子は恐怖のためかその全身が銅像のように固まり、その場を動こうとしない。


「ゆり子!」


新妻の名を呼んだ。


その直後、何かが聞こえてきた。


人間の声のようなそうではないような何かが。


かなり遠くから。


それも頭の上から。


見上げれば、空に小さな塊が浮かんでいた。


しかし逆光のため、それがなんであるのかがよくわからず、おまけにほぼ真上にあるがために、その距離感をつかめないでいた。


それでもその塊を目で追っていると、目の前にいたゆり子が突然消えた。


いや、消えたのではない。


地面に仰向けに倒れていたのだ。


頭を打ったのか後頭部から血が大量に流れ出し、すでに赤く染まりつつある花模様の石畳をさらに染めてゆく。


血の強い臭いが俺の鼻をついた。


そしてゆり子の身体の上には、何かが覆いかぶさっていた。


それは空高くからゆり子めがけて真っ直ぐ落ちてきたもの。


その全身を真っ赤に染めた麻子だった。




      終      

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