第12話 駄々漏れ心境変化 

アパートを出ると、目の前は大通り。通りの中央には路面電車が走っている。


 路面電車が、どんな感じで走っているのか、見たことがないという方に説明するならば、大通りの中央分離帯付近の車線が線路……、と言えば、わかるだろうか。


当然、駅……電車の停留所なので電停……も、道路中央付近にあるので、横断歩道を渡る。



朝7時前。


 通勤時間にさしかかろうとしている時間帯ということもあり、それなりにひとは多かった。

俺が乗る電車は、南方面に行く江波えば行き。1両電車である。

電停には、西方面に行く、宮島口みやじまぐち行きの連結電車が停まっていた。

学生やサラリーマン、スーツ姿の女性など、様々な人たちが乗降している。


そういえば、ノゾミの通う鈴峯女学園がみねも、この路線の沿線だったな。


学校が始まると、この電停でお別れということになるだろう。

こんな衆人環視の場所でも、「いってらっしゃいのキス」は敢行されそうな気がする。

何としても、阻止しなければ。できるだろうか。


出掛けに、思いがけず、「いってらっしゃいのキス」に見舞われたこともあり、若干憂鬱になる。




 江波行きの電車がやってきた。少し人が多い。

電車の側面に座席が配置されている。

席に座ると向かい側の席のひとと、通路を挟んで顔を向け合う形になる。


空いたスペースを探していると、見知った顔を見つけた。

グレーのスーツ、タイトスカート、栗毛セミロングの女性。

彼女の方は、すでにこちらに気づいているようで、手を振っている。


「おはよう」

「おはようございます、部長」


その隣が空いていたので、座る。

彼女から、香水だろうか、甘い香りがしてくる。


「今日は……、何か良いことでもあったのですか?」

「まあな」


俺は、軽く返事をする。

その理由を話すには、少々の勇気が必要だ。

今朝の出来事。

30になった男としては、もう少し気持ちが落ち着いてから話したい、そんな気分だった。




★★★



 彼女は、佐伯さえき 由美ゆみ

俺の仕事の補佐をしてくれている。

電話の取次ぎや、資料の整理、予定の確認など、仕事の上で重要なパートナー。


 常に顔を合わせているからだろうか。

俺の表情を観察することを、日課にしているらしい。

毎日、頻度が多いときは毎度、観察した結果、気になったことや、直前に起こったことなど、推察を含めた感想を述べてくる。

それがまた、恐ろしいほど的確で、ほぼ間違っていないので、感心してしまう。

ただ、気持ちの奥底を見られているようで、恥ずかしくてしょうがない。

止めて欲しいと、何度かお願いしてみたものの、「部長の気持ちの変化は重要です」と言って、頑として聞き入れてくれなかった。


 4歳ほど年下なのだが、ここぞというときは、物怖じせずに、自己主張をしてくる。

そこら辺りは、重宝しているので、何も言わないが。



★★★



「……で、何があったのですか?」


 予想通り、彼女は理由を聞いてきた。これも毎日のことで驚くことではない。

ないのだが、今日の場合は、理由が理由だからな、どうしようか……。


「昨日、カープは勝っていますが……、そんな顔ではありませんね……」

そんな呟きが聞こえてくる。


「私のデータによると、朝からこんな顔は、レアケースに思えます」

……確かに、レアもレア、普通は起きないことだったけど……。

佐伯のその呟き、少し怖いです。


「あ、表情はそのままで……」


 気づけば、スマホをこちらに向けて、撮影してくる彼女の姿が映る。

俺の写真を撮ることに関しては、いつものことなので、驚きはしないが、この電車の中である。

知り合いがいると、面倒だ。

周りを気にするが、このひとの多さだと、知り合いがいるのかすら、気づけない。


「おいおい……」

「レアですから。しっかりデータに記録しないと」


彼女は気にも留めず、撮った画像を確認している。


「……やはり、いつもと違う表情ですね……」

彼女は、1人納得している。どこがどう違うのか、俺にはわからない。


「……で、何があったのですか?」


 スマホをカバンのポケットに仕舞い込み、再び聞いてくる。

目が輝いているように見える。


「……家に知り合いが泊まりに来た」


 面倒なのと、照れくささで、若干事実と異なることを言ってみる。

間違っては、いない。

ノゾミは大きな意味で言えば、知り合いだ。


「……うーん、ウソですね」

彼女は、俺の目を数秒間見つめた後、そんなことを言ってきた。


「……いや、ウソではないよ」

「……普通の、知り合いでは、ないですよね……」


 目を瞑り、右手の人差し指をおでこに当てて、考え込んでいる。

お前はどこかの探偵か?カンだけはいいんだよな、佐伯って。


「うーん、前に南方みなかたさんが泊まったときとは、違うから、男じゃないですね……」

そんなことを呟いている。南方さんとは、俺の同期のことだ。


「……私を泊めてくれたときとも、少し違う……」


 1度、佐伯を泊めたこともあった。

それは、うちで何人かと飲んだときだった。

彼女は泥酔して寝込んでしまい、仕方ないので泊めた。

布団を並べて寝たが、その夜は何もなかった。


「……と、いうことは、女性……、それも想いびとを泊めたんですね」


 彼女の中で、結論が出たらしい。

なんという洞察力というか、推理力というか……。

なんの根拠で、そこにたどり着くのか、全くわからない。


「……でも、当分、お付き合いされている女性ひと、いなかったはず……ですよね……?」


 確かに、前の彼女と別れて、1年くらいは経っている。

昨日のことが無ければ、「彼女」と呼んでいい女性ひとができるのはまだ先だっただろう。

しかも「彼女」を飛び越えて、「許嫁」もしくは、「未来の嫁」……。


「……でも、ただの想いびとでは、ない気がするのですが」

まだ考え続けているらしい。鋭いな。


「部長が、まさか……そんなわけ……うーん……」


 そう唸った後、無口になった。考えを巡らせ始めたらしい。、

彼女は、気になる物事を考え始めると、行動が止まってしまう。

特に、俺のことになると、ますます顕著になる。



 そうこうしているうちに、電車は終点の江波に到着した。

無口になった彼女を促し、電車を降りる。

ここからバスに乗り換えて、会社に向かう。


 バスが到着しても、まだ考えを巡らせている彼女。

無言で俺の隣に座っている。

まるで生きる屍のように、ただ存在だけ、している。

この状態になったら、普通に声をかけただけでは、元に戻らない。



★★★



 過去にこのような状態になった彼女にイタズラを仕掛けたことがある。

どこまでしたら、正気に戻るのか。


手を触る、肩を揉む……。反応なし。

耳に息を吹きかける……、これも反応なし。


 仕方ないので、勇気を持って胸を揉んでみた。

決して、揉みたかったからではない、実験だ。

そして、仕事中ではない、セクシャルハラスメントではない。同意はないが。


でも、何も反応を見せない。


 こうなると、意地になる。男は探求心を持つ生き物だ。

正面に回り、彼女のブラウスのボタンに手を伸ばした……。


「えっ?優……部長?」


ボタンを2つ外したときに戸惑いを見せる佐伯。

いつも「部長」と呼ぶ彼女が、俺の名前を言いかけるなんて、動揺が見られる。

さすがに怒られるかな……、そう思って謝罪と言い訳をしようかと思っていたら、思いがけない一言を告げられた。


「……止めるんですか?ぜひ、……続けて下さい」


 そして再び無言状態に戻ろうとする。

先程と違うのは、少し頬を赤く染めているところか。

これは、もう普通の状態に戻ってるだろう……。


パチン


デコピンをしてやった。


「いったーい!」

おでこをさすりながら、批判の目を向けてくる。


「おい、気づいてたろ?」

「気づいてましたけどー、デコピンは酷いですー」

口をとがらせて文句を言ってくる。


「部長になら、脱がされても文句言いません……」

「いやいや、物凄く動揺してただろうが」


「それは……。悔しいけど、否定できません……」

彼女はそう言うと、俯いた。まだ顔は赤い。


「どんな地雷だよー、部下の着衣を脱がす、どんな冗談だ」

自分自身の顔が引きつっているのがわかる。


「どこで気づいたんだ?」

「はい、胸を揉まれたところ、ですかね……」

そこかよー、気まずいなぁ……。


「そうなのか、全然わからなかったよ」

「何も反応しなかったら、続けてくれるかなーと思いまして」


「続けたところで……何もないだろうに」

「そんなことないですよ、私のあられのない姿が見られるじゃないですか」


俺は大きく息を吐いた。俺にとっては最悪のシナリオだ。


「じゃあさ、なぜ、戸惑いの声を出したんだ?」

「私にも羞恥心があったようで、耐えられなかったみたいです」


いや、耐えられなくてよかったよ。

あそこで声を上げられなかったら、如何なく、男の探求心を発揮していただろう。


「それまでは、俺の反応見て楽しんでいた、ということか?」

「ハイ」


いい笑顔である。

その笑顔に怒りがこみ上げてきたので、デコピンの形を作る。


「あ……、それは痛いので、やめて下さい」

彼女は泣きそうになりながら、右手でおでこを守っていた。



★★★



そんなこともあって、彼女が考え込んで静止したときは、胸を揉む。

……わけにいかないので、耳元でこんな言葉を囁く。


「デコピンするぞ」

「……やめてください……」


彼女は小さく答えて、右手でおでこを守る。


「お、戻ってきたか」

「本当に、デコピンは勘弁してください、トラウマものですよ」


まだおでこを守っている。警戒しすぎだろう。


バスが工場の門の前に到着する。



 俺の勤めている会社は、広島市の南岸埋め立て地にある。

歴史に出て来る長崎の出島のように橋で1か所だけつながっていて、そこに門がある。

有名大企業の敷地で、この中では関係会社が軒を連ねている感じだ。


 関係会社の1つに勤めている俺は、佐伯と連れ立って、事務所棟に向かう。

事務所棟には、関連会社の事務所の他、ロッカー室、食堂がある。

有名大企業の工場で働いているほとんどのひとが、ここで着替えて工場に向かい、昼休みには食事を取る。




 事務所棟に着いて、彼女と別れた。

それぞれ着替えに入るためである。

別れる寸前まで、何があったのかと聞いてきたが、はぐらかし続けた。

ロッカーで手早く着替える。


「今日も由美ちゃんと出勤かー。愛されとるなー」


そんな声をかけてくる男がいる。隣のロッカーの南方みなかた 次郎じろうだ。


「愛される、かぁ……」

「どうした?何、黄昏てんの?」


「いやー、愛されるっていいよなぁ……」

「まあ、確かに、嫁さんや娘に愛されるのはいいけど、どした?」


 俺の様子に、次郎は驚いた顔をしている。

話をしながら着替え終わり、帽子を被る。

全身青の作業服。この工場では、男も女もこの格好と定められている。

ヘルメットを手に、次郎と一緒に工場へ向かう。


 いつもの場所でいつも通り、朝礼を行う。進行は佐伯だ。

ラジオ体操第一を行い、今日の連絡事項を皆に伝えるため、朝礼台の上に立つ。


「おはようございます」


眼前には、我が社の社員、100名余り。視線がこちらに集まってくるのがわかる。

挨拶の後、連絡事項を読み上げていく。


「怪我をしたら家族が悲む。今日も手元に注意して、指さし確認で行こう!」

……と、連絡事項の最後を締めくくった後、不用意にも口をついて出てしまった。


「……俺にも、守るべき家族ができちゃったのでね」


「家族」という言葉に触発されたのかもしれない。

不味いと思ったが、後の祭りだった。社員たちは、騒然としている。


「おい、佐々木部長って、独り身だったよな」

「そのはずの部長が、家族ができたっていうことは……」

「最後の独身貴族の牙城が……崩れてしまった……」

「……とうとう、佐伯を孕ませたのか」

「我らのアイドル由美ちゃんが、部長のセクハラに屈したのか」


 おいー、一部違うぞー、俺に対する皆の印象って何なんだよ。

本当にコイツらは、と苦笑してしまう。

孕まされたとか、屈したのとか言われている、佐伯自身は、憑き物が取れたかのような、良い笑顔をしている。

俺の表情についての悩みが、解決したことによる笑顔なのだろう。

けれど、それは周りに誤解を生むぞ。確実に。

俺は頭を抱えた。


「で、真実は?」


そんな俺に、マイクを向けた仕草をして聞いてくる。

次郎だ。そんなことを俺にできるヤツって、コイツしかいない。


「……言わなきゃダメか?」

「ああ、永遠の独り身として、工場中から羨望のまなざしを集めているお前の責務だ」


マジかよ……。羨望を集めてるのかよ、おかしいだろ。

しかし、有ること無いこと噂されるのも困る。

仕方ないか。


「家族ができたというのは、結婚で間違いないな?」

俺は無言でうなずく。確認した次郎は、生温かい目を向けてくる。

先行く者の余裕か。

同じ年で同期のコイツに負けたようで、少し悔しい。


「我らが佐々木部長!なーんーと、結婚したようです!」

「「「「おーーーーーー!!!!!」」」」

そんな次郎の声に、社員から叫び声。

そこら辺りの他の会社の面々からも注目されてしまったようだ。


「そんな佐々木 優、そのひとに、いくつか質問を投げようと思います!」

「「「「「わーーーーーー!!!!」」」」


皆、叫びながら、拍手している。おい、佐伯、お前もか。


「では、質問その1」


 次郎はノリノリである。朝礼を終えた、他の会社の連中も集まってきた。

よく見たら、工場長など、この工場のお偉方まで寄ってきている。

後で間違いなく、弄られる。

勘弁してほしい。



★★★


 俺への質問タイムという名の、晒しの場。

男女比9:1の、花がないこの工場には、華やいだ話題には乏しい。

結婚についての弁明会が、今こうして始まってしまった。

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