「……あ、そうだ」


 シガレットを唇に挟み、ベルはジャケットの外ポケットへ手を入れた。中を漁りつつ、キアランの前まで歩み寄ってくる。


「はい、これあげーる」


 格子の間から、ベルは拳を突き出した。

 開かれた掌から出てきたのは、カラフルな包装紙で包まれた飴。


「……ずず……何故、このようなものを?」

「疲れた時は甘いものがいいのよ。ちょっと集中力が落ちてきたなーって思ったら、それをパッと口に放り込みな。頭がシャキッとするし、吸いたい欲求も誤魔化せるし。正に一石二鳥」

「……自分は、ずず、煙草は、吸いません」

「あ、じゃあいつか吸う時の為に、これもあげる。ケースもジッポも結構いい奴だから」

「吸う予定も、ありません」

「いいからいいから」


 そう言って、ベルは無理矢理飴とシガレットケースとジッポをキアランへ押し付けた。


「後は、あ、中敷きね。これ凄いんだよ。一日歩きっぱなしでも全然足が疲れないの。私サイズだからちょっと小さいけど、ま、ないよりはマシだから使ってみな。それからこれ。大判のハンカチ。一枚持ってると便利だから。手を拭いても良し、首に巻いても良し。靴ずれ起こした時なんかも、これで応急処置出来るから。それと――」


 スーツのポケットというポケットから、ありとあらゆるものが出てくる。

 メモ帳、ちり紙、櫛、手鏡、香水、手袋、帽子、携帯用の裁縫セットに救急セットなどなど、仕事に関係のないものも積み上げられていき、キアランの手の上にはちょっとした山が誕生した。


「――えーと、予備のインクでしょー? それとー、あ、クッキーあった。これも追加してー」

「……ベルさん。もう、結構です。これ以上は、自分も持てません」

「あ、そう? まだ癒されたい時用のぬいぐるみとか残ってるよ?」

「お気持ちだけで、十分です」

「そっかー。結構可愛いのになー。ねー、ベティ?」


 手に持った豚のぬいぐるみの鼻を、ベルは勢い良く押し込んだ。

 第一関節までめり込む指から目を逸らし、キアランはローブの中へ貰ったものをしまっていく。些か重くなったローブを、心地悪そうに整えた。


「あ、キアラン」


 ベルはぬいぐるみをポケットに戻すと、懐へ手を入れる。


「後さ、最後にこれだけ貰ってくれない?」


 差し出されたのは、万年筆だった。

 それを見た途端、キアランの顔が明らかに不機嫌となる。


「ほら、こんな細いんだし、パンパンのポケットにもシュッと入り込めるって。今の時代、万年筆の一つや二つ、やっぱり持ってた方がいいと思うのよ。なんて言うか……そう。局長風に言えば、男の嗜みというものだよ、キアラン君?」

「……結構です」

「そう言わずに。万年筆便利だよぉ? いちいちインク付けなくていいし、インク零して書き溜めた記録を全部パァにする心配もないし」

「問題はありません。自分は一度も零したことはありませんし、インク付けを面倒と思ったこともありません」

「いやーでもさぁ、万年筆の方が羽ペンより断然楽だよぉ?」

「楽だろうが嗜みだろうが、自分は、羽ペンが好きなのです。好きで使っているのですから、お気遣いは、無用です」


 珍しい語気の強さに、ベルは目を丸くした。咥えたシガレットの先から、灰が折れて黒い床へと落ちる。


「……そう言えば、こんなやり取り、前にもしたねぇ」


 しみじみとした口調で、口角を持ち上げる。シガレットを指で挟み、キアランから顔を背けて煙を吐いた。


「ま、あれだ。ぶっちゃけ私が持ってて欲しいだけだからさ。貰ってよ。別に使わなくていいから」


 そう言って、再度万年筆を差し出した。


 キアランは、じっと万年筆を見下ろし、それから、ベルを窺う。

 彼女は、促すように顎をしゃくった。ついでに腕も動かし、万年筆の先で黒いローブの表面を突く。


 キアランの視線が、ベルの手へ注がれる。少し傷の付いたキャップ部分を眺め、ふと、瞬きをした。


「…………では、ありがたく頂戴します」


 頭を下げ、彼女から万年筆を受け取る。


 するとベルが、不意に声を上げた。


「あれ? なんか……あれ? 今、ふっと頭を過ぎったんだけどさ」


 見開いた目を瞬かせて、首を傾げる。


「私、前もこうやって、キアランに羽ペンをプレゼントしなかったっけ?」

「…………しましたよ」

「あ、やっぱそうだ。で、その理由ってさ、確か、キアランが記録を書いている時の羽ペンの音が凄くかっこいいから、とか、そんなんじゃなかったっけ?」

「…………そうです。ベルさんは、自分の奏でる羽ペンの音が好きだからと言い、ある日突然、羽ペンを自分へ贈られました」


 そう答えたキアランは、無表情ながら落ち着かない様子だった。

 やけに多い瞬きに気付いたベルは、妙に楽しげな笑みを浮かべる。


「あれぇ? キアランったらぁ、もしかしてぇ、私が好きだって言ったからぁ、固くなに羽ペンを使い続けてるのぉ? いやーん、私、超愛されてるぅ」


 からかう気満々で、ベルはわざとらしく己の身をくねらせた。


 しかし。


「……そうですよ」

「…………え?」


 頻りに瞬きを繰り返しながら、キアランは、はっきりと言う。


「自分は、ベルさんが好きだとおっしゃったから、羽ペンを愛用しています」


 呆けた声が、黒い空間に転がった。

 ベルは口をぽかんと開けたまま、体を揺らし始めたキアランを凝視する。


「…………何ですか」

「え、あ、いや、なんて言うか……予想外な答えだったから、ちょっと、びっくりしちゃって」

「……そうですか」


 視線を落としたキアランは、少し唇を突き出し、黒い床をつま先でかいた。


「……キアラン、もしかして、拗ねてる?」

「えぇ」

「え、あ、拗ねてるんだ。そ、そっか、それは、ごめんね」

「いえ」


 ベルも視線を逸らし、フィルター部分を咥える。自分を落ち着かせるように煙を吸い、黒い天井を見つめた。


「……え、どうしたのキアラン? なんか、いつもと違うんだけど。もっとこう、違います、とか言って否定して欲しいんだけど。初なあなたはどこへいったの?」


 口早にベルがそう言うと、キアランの眉に、ほんの少し力が入った。


「……あなたが、素直なキアランが恋しいと言ったから、変えてみたのではありませんか」


 床を凝視しつつ、キアランは体を前後に揺らす。

 そのどこか不貞腐れているような態度に、ベルは目を見開いた。


「……もしかして、気にしてたの?」


 キアランは、何も答えない。


 だが、体の揺れに、首の揺れが追加された。


 まるで頷いているかのような動きに、ベルの目と口は、緩やかな弧を描いた。


「もーぅ。嘘だよ、うっそー♪ 私はどんなキアランも大好きだよー。素直じゃなかろうと生意気だろうと、私の可愛い後輩だよー」

「…………そうですか」

「あ、でも勿論素直な君も大歓迎さ。さぁっ、その迸るパッションと共に、この胸に飛び込んでいらっしゃいっ!」

「お断りします」

「あ、こういうのには付き合ってくれないんだ」

「自分にも出来る限界がありますので」

「そっかー。残念だわー」


 ベルは声を上げて笑い、シガレットへ唇を寄せる。ゆっくりと煙を吸い込み、ゆっくりと、吐き出した。


 ふと、静寂が訪れる。二人はお互い別の方向を向き、何も言わずに虚空を見つめている。

 しかし意識は、互いの方へと向けていた。


 白い煙が、徐々に黒を侵食していく。


「……二人を、よろしくね」


 ベルが、呟いた。


「私の分まで、見守ってあげて。それでもし、二つの魂が本当に身も心も結ばれたら、その時はお祝いとして、私の煙草に火を点けて」


 手首を動かし、指に挟んだシガレットを掲げる。


「そうしたら煙が私の元まで届いて、教えてくれるから。ね?」

「……煙にそんな機能はありませんよ」


 床から視線だけを上げたキアランに、ベルは苦笑いを零した。


「キアランは現実的だねぇ」

「ベルさんはロマンチストですね」

「そうかな? でもほら、気持ちの問題だよ。そんな気がするの。だからお願い。キアランが煙草嫌いだって知ってるけどさ」

「嫌いではありません。苦手なだけです」

「あ、そうだったそうだった。でもさぁ、もうどっちでも良くない? どっちも似たようなもんじゃん」


 するとキアランは、眉を少し顰めて、不満げな眼差しを送る。


「……自分は苦手なだけなので、一応吸うことは出来ます」

「え、そうなの?」


 前のめりになって問い掛ければ、キアランは静かに頷いた。


「へぇー、そうなんだぁ。じゃあ試しに吸って見せてよ」

「お断りします」

「あ、さては見栄を張ったなぁ?」

「いいえ、見栄など張ってはいません。自分は本当に吸うことが出来ます。ですが苦手なので、ここぞという時以外は吸わないことにしているのです」

「ふーん。じゃあさ、二人の魂が結ばれたら、記念に一服して見せてよ」

「…………分かりました」


 無表情ながら、その全身は不本意であると雄弁に語った。

 左右に揺れるキアランを、ベルは楽しそうに眺め、フィルター部分を食んだ。


 彼女の呼吸に合わせ、シガレットはより短くなっていく。火は音を立てながら、どんどん指へと近付いてきた。

 煙が、深く、長く、吐き出される。辺りに漂うもやが動き、混ざり、回転した。


 不意に、シガレットの先端から、塵のようなものが上がる。


 白いもやに溶け込んでいくその様を、ベルは焼き付けるように眺めた。


「……キアラン」


 ベルは、格子の間から右手を差し出す。

 キアランは細い手を見つめ、それから、優しく握る。


「さっき言ったこと、頼むよ」

「……はい」


 顔を上げ、ベルを見つめる。

 彼女は、笑っていた。


「二人を、温かく見守っていてね」

「はい」

「プレゼントしたグッズ達も使ってね」

「はい」

「体は大切にするんだよ。疲れたらちゃんと休んでね」

「はい」


 ベルの指から、静かに、塵が舞い上がる。


 それでも彼女は、笑っていた。


 だからキアランも、無表情を保った。


「二人が結婚したら、祝福してあげてね」

「はい」

「式では、ちゃんと拍手とかするんだよ」

「はい」

「それで一段落してからでいいから、約束通り煙草を吸ってね」

「…………はい」

「あ、キアラン今、やっぱり嫌だなとか思ったでしょ?」

「……いいえ」

「嘘だ。絶対思った。あんな約束するんじゃなかったって後悔してるでしょ?」

「後悔はしていません」

「じゃあ嫌だとは思ったんだ」

「……そんなことは、ありません」

「私、素直なあんたが一番好きなんだけどなー」

「…………本当は、少し思いました」

「あ、やっぱり」


 いつもと変わらぬ態度で、ベルは、笑う。


 笑顔の下では、どんどん体が消えていく。


 キアランの喉が、つと、震えた。


 それでも、無表情を貫いた。


「キアラン」


 微笑みを浮かべ、ベルは、キアランを見つめる。


 キアランも、ベルを見つめる。


「笑って」


 その願いに、キアランは唇を固く結び、一つ、鼻を啜った。


 そして、頬の筋肉を、痙攣させる。


 口元や目の周りも不自然につり上がり、苦悶のような、小馬鹿にしたような、何とも言えぬ表情を生み出していく。


 それでも、ベルには届いたようだ。


 目元を柔らかく緩ませて、微かに、唇を揺らした。






 瞬間、彼女は、いなくなった。






 塵のようなものが、キアランの目の前を漂い、空中へ四散する。

 それも数拍すれば消え、後には白いもやだけが僅かに残った。


 キアランは、その場に立ち尽くす。誰もいなくなった黒い部屋を、静かに眺めた。机と椅子の位置が少しずれており、この場にいた人物の気配を滲ませている。


 視線を、己の手に落とす。掌に残る感触を、確かめるように握り直した。ゆっくりと拳を開き、親指で一撫でする。

 その手を、静かにローブの中へ入れた。漁るように腕を動かし、おもむろに抜き取る。


 シガレットケースとジッポライターが、出てきた。

 キアランはケースから一本取り出し、不慣れな手付きで火を点ける。

 苦手な臭いと煙が、辺りに漂い始めた。


 ケースとライターをしまい、キアランは指で摘んだシガレットを、じっと、眺める。フィルター部分から葉の部分、先端、立ち上る煙と順になぞり、何かを考えるように、止まった。しばしそのまま固まると、音もなく、瞬きをする。


 摘んでいたシガレットを、指の間に挟み直した。確認するように手を裏返して、それから、フィルター部分を口元へ持っていく。

 唇で食み、小さく、吸い込んだ。火が音を立てて、葉を焦がしていく。


 口からシガレットを離すと、キアランはすぐには煙を吐き出さなかった。

 目を瞑り、少しだけ、唇を揺らした。

 それから一拍置いて、白いもやを、細く吹く。


「……届きましたか?」


 立ち上る煙を追い掛け、キアランは天を仰ぐ。

 黒い床に、一つ、二つ、と、垂れた雫が跡を残した。

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