「っ、待ってろっ、シャノンッ! 今っ、下ろしてやるからなっ!」


 アルヴァは短剣を口に咥え、腕を大きく振り下ろした。膝も曲げて、タイミング良く飛び上がる。

 両指を網目に食い込ませ、ぶら下がった。更に体を揺らし、両足で網を挟み込む。


 右手で短剣を持ち、刀身を網の隙間へ押し入れる。反動を付けながら、右へ左へ動かした。

 刃の血を移しつつ、縄の繊維を削り切っていく。だが力が足りないのか、中々作業は進まない。


 アルヴァはちらと男を窺った。未だ地面へ蹲ってはいるものの、先ほどとは体勢を変えている。苦しむ声も、小さくなっていた。

 短剣を掴む手に、焦りの汗が滲んでいく。


「っ、シャノン、シャノン。大声っ、出せるか? 隊長さんっ、呼べるか?」

「ぐす……っ、んっ。で、でぎ、るぅっ」

「じゃあっ、頼むっ。助けをっ、呼んでっ、く、れっ!」


 ようやく、網目を一つ裁った。腕を入れられる程度の穴が開く。その端を掴み、次の縄へ刃を当てた。


 シャノンは鼻を大きく啜り、胸を反らして息を吸う。


「隊長さぁぁぁーんっ! 駐在兵さぁぁぁぁーんっ! 助けてぇぇぇぇぇーっ!」


 鼻に掛かった涙声が、森の奥へ飛んでいく。それは辺りを揺らし、余韻を残して消えると、また小さな口から出ていった。木の葉のさざめきと混ざりながら、何度も何度も繰り返される。


 アルヴァは、体と共に腕を押しては引く。体重を掛け、少しでも早くシャノンを解放しようと短剣を握り込んだ。汗が米神を伝い、首の後ろから垂れ落ちる。


 二つ目の縄が切れ、穴は足が入るほどの大きさとなる。

 アルヴァは短剣を口に咥え、両手でその穴の端を掴むと、思い切り左右へ引っ張った。シャノンも縄を掴み、足も使って引き千切ろうとする。


 しかし、二人の力ではそれも叶わない。


「シャノンッ。そのまま引っ張っててっ」


 アルヴァは短剣を握り直し、ピンと張った状態の縄へ刃を押し付ける。先ほどよりも繊維の切れる音が大きくなり、ある程度切り込みを入れればシャノンの力でも千切ることが出来た。

 そうして協力しながら、二人は徐々に穴を大きくしていく。


「っ、とぉっ。どうだっ、こんなもんで出てこれそうかっ?」


 アルヴァは一旦地面へと下り、シャノンを見上げる。穴は大分広がり、彼女の片足はもう外へ投げ出されていた。


 シャノンは身を捩り、もう片方の足も出す。腰を押し込み、尻の一番太い箇所も通過させた。

 だが、腹と胸が出たところで、止まる。

 蝙蝠の羽が、引っ掛かってしまっている。どうにか抜け出そうともがくも、これ以上は無理なようだ。


 仕方ない。アルヴァは滴る汗を拭い、もう一度網にぶら下がろうと短剣を咥える。腕を振り下ろし、膝を曲げて、地面を蹴った。


 瞬間。


 アルヴァの体は、上ではなく、横へと、吹き飛んだ。


 視界が半回転し、ぶら下がったままのシャノンが離れていくのが見えた。


 木の幹へ背中をぶつけ、口から短剣が零れ落ちる。地面に不時着したアルヴァは、その場で這いつくばった。


 シャノンの悲鳴が聞こえる。


 何かが引き摺られる音も、聞こえてきた。


「はぁっ、はぁ……っ。くっそぉ……っ」


 いつの間にか、男が立ち上がっていた。片足を庇いつつ、激しい形相でアルヴァの元へ歩いてくる。

 手には剣ほどの長さの枝を握っており、まだ枯れていない葉の部分が、箒のように地面をなぞった。


「舐めてんじゃねぇぞ……っ、この野郎ぉ……っ!」


 ゆっくりと、枝を頭上へ掲げた。


「っ!」


 アルヴァは慌てて転がり、しなる枝と木の葉から逃げる。次いで顔を上げ、素早く辺りを見回した。


 ……あった。木の根元の陰だ。


 地面に落ちた短剣へ、四つん這いになりながら手を伸ばした。


「させるかぁっ!」


 柄に触れる直前、顔面に木の葉が叩き付けられる。一瞬怯んだ隙に、もう一発。腹這いになったところへ、更に一発。

 男は何度も腕も振り上げ、アルヴァの全身を徹底的に打っていった。


「止めてぇっ! うぅっ、このぉっ! このぉっ!」


 シャノンは足を振り上げ、男を蹴ろうと網を揺する。

 しかしその攻撃は、届かない。

 目の前で、どんどん白が汚れていく。


「止めてよぉっ! 止めてってばぁっ! ア、アルヴァが死んじゃうでしょぉっ! 止めてよぉっ! 大人しくするからぁっ! お願いっ、だからぁっ! うえっ、お、お願いぃ……っ!」


 黒い瞳を歪め、声を潰し、シャノンは心底縋った。


 しかし、願いは届かない。


 止まらない腕。動かない白。


 小さな体から溢れる慟哭が、辺り一面に、木霊する。


「はぁっ、はぁっ、はぁー……おい、どうだ、坊主。少しは、思い知ったか? あぁ?」


 男はアルヴァを見下ろすと、仕上げとばかりに持っていた枝を、彼の上へ叩き捨てた。


 うつ伏せに倒れるアルヴァは、全身を薄茶と少々の赤に染めている。力なく目を閉じる姿は、辛うじて動く胸を見なければ、死んでいると錯覚しそうであった。


 男は痛む足を引きずり、木の根元の陰に落ちた短剣を拾い上げる。些か赤黒く汚れた刀身に、また足の傷が疼いた。

 苦々しく顔を顰め、つとアルヴァを睨め付ける。


「……ホワイトのガキも、高く売れるってのになぁ」


 そう呟いて、アルヴァの背中に圧し掛かった。膝で背骨を押し、右手で肩を押さえる。

 短剣を持つ腕を、持ち上げた。


「や、止めてぇ……っ、うぐぅっ、やだよぉ……っ」


 後ろから、啜り泣きが響く。


「アルヴァ、殺すなら、わ、私も殺してぇ……っ、私も、一緒に死ぬぅ……!」

「そりゃあ駄目だよ、お嬢ちゃん。お前にはしっかり稼いで貰わなきゃ困るんだぁ」


 シャノンを振り返り、わざとらしく謝ってみせた。

 一段と盛り上がった悲壮感に、男は口元を歪める。


 その顔のまま、アルヴァへ視線を戻した。


「じゃあ、まぁ、そういうわけだ。あのお嬢ちゃんのことは俺に任せて、お前は安心して死にな」


 弧を描いた目がアルヴァを捉え、短剣の柄を、握り締める。


 と、男の口角が、僅かに下がった。


 目が、合ったのだ。


 先ほどまで下りていた瞼が薄っすらと開き、自分を、睨み付けている。

 指一本動かせない癖に、薄汚れた毛を、懸命に逆立てている。


 この状況で尚、目の前の子供は、挑み掛かってくるのだ。


「……お前さぁ、いい加減諦めろよ」


 思わず、男は口を開いた。


「そもそも俺とお前じゃあ、勝負にはならないんだって。こんだけ体格が違うんだから、それぐらい分かるだろ? お前らはガキなんだから、そうやって生意気な態度取ってるよりさ、ガキらしく泣いて、命乞いの一つでもしてたらいいんだよ。そうしたら俺だって、こんな真似はしねぇんだぞ? ほら、なんなら今泣いてみな。そんで可愛らしく謝ってみろ。な? そうしたら、命だけは助けてやるよ?」


 短剣を下ろし、刃をアルヴァの頬へ沿わせる。


「俺はな、根っからの悪人じゃねぇんだ。ただ和平のお蔭で仕事がなくなっちまったから、こうやってやりたくもねぇことやってんの。だからお前が誠意を見せてくれるなら、俺だって譲歩してやるっていうか、多少は融通を利かせてやるよ。少しでもいい飼い主を探してやる。なんなら、お前らセットで買ってくれる奴にしか売らねぇ。どうだ? 頭のいいお前なら、何が最善か、分かるだろう?」


 嫌に柔らかい声で、正しく子供に言い聞かせる口調で、男はアルヴァへ囁き掛けた。


 狼の耳の先のみが、ひくりと反応する。

 瞼の隙間から、男を見据えた。


 一つ、睫毛を揺らし、そして、アルヴァは唇を震わせる。


「…………馬鹿に、するなよ……」


 吐息の中に、ほんの少しだけ、音が混ざった。


「……白き守護神は……何者からも逃げず……何者にも、屈しない……例え敵に負け、死すとしても……その誇りは、何者にも汚されることはなく……っ、その意志はっ、何者にも、踏みにじることは出来ない……っ」


 投げ出された指の先が、痙攣した。


「全ては皆を守るため……っ、我らは常に、立ち向かうのだ……っ。それがっ、白き守護神だ……っ。馬鹿にするなよ……っ!」


 噛み付くように男を睨み、吼える。

 喉の奥で唸りながら、毛を一層逆立てた。


 主張するように、薄汚れた白が、風にたなびく。


 その様を、男は憮然と眺めた。


「……はーぁ」


 男は上半身を離し、短剣の柄で頭をかいた。


「潔いと言うか何と言うか……普通はさぁ、泥水啜ってでも生きようとするもんだろ? 他人を売り飛ばしてでも生きたいと思うもんだろ? なのにお前は死を選ぶんだ? はぁー、ご立派だねぇ。俺とは大違いだわ。流石白き守護神ってところかねぇ」


 もう一度深く息を吐き、つと、真顔になる。


「理想と現実の差も知らない癖によぉ……本当、これだからガキは嫌いなんだ」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、短剣を振り上げた。


 シャノンの制止が、泣き声と共に轟き渡る。


 風も悲鳴をあげるように、強く、吹き抜けていった。


 靡く髪が、アルヴァの視界を遮断する。


 それでも、幼い白き守護神は、男から目を逸らさない。


 短剣が木漏れ日を反射し、赤く鈍い光を放つ。

 刃の切っ先がアルヴァを捉え、その首目掛けて、一直線に振り下ろされる。






 筈、だった。






 しかし、男の腕は、いつまで経っても下りてこない。

 天へ向かい、真っ直ぐ伸ばされているだけ。


「な、何だぁ……?」


 男は目を瞬かせて、己の手を見上げた。

 そこには、短剣以外、何もなかった。

 なのに、何故か、腕が動かせなかった。


 力を込めて引き寄せても、思い切り揺さぶっても、男の腕はびくともしない。反対の手で引っ張っても、空中に固定されたまま。まるで誰かに握られているような感覚さえ覚えた。


 得体の知れない何かに、男は言葉もなく、茫然と口を開けた。瞬きも忘れ、額の端から一筋の汗を垂れ流す。汗は頬を伝い、顎を越えて、喉仏をなぞっていく。


 その喉が、突如大きく震えた。


 短剣が、地面へと落ちていく。


 男が手を離したから、ではない。


 男の手が、『なくなった』からだ。


「あ……あ、あぁ……っ」


 塵のようなものを舞い上がらせながら、解けていく糸のように、指先から順に消えていく。不自然に途切れた腕の向こう側には、木漏れ日と、風に揺れる木の葉が見えた。


 濁声が、爆発する。


「あぁ、や、止めろぉっ、離せっ、離せよっ、ぐぅぅ……っ、は、離してくれ、頼む、頼むからぁっ。頼むよぉぉぉーっ!」


 アルヴァの背から腰を上げ、身を捩って逃げようとする。しかし誰かに掴まれている感覚は消えず、焦りと恐怖は増すばかり。


 ふと、バランスを崩した。受け身を取ることもままならず、男はその場に倒れ込む。

 足首からも、塵のようなものが舞い上がる。

 体はどんどん解けていき、どんどん、なくなっていく。


 男は地面を転がりながら、誰とも分からぬ者に許しを請うた。

 これまで自分が行った所業、それしか生きる術がなかったこと、これからは改心し、二度と犯罪には手を染めぬという誓いを、繰り返し天へ言い募った。






 そしてそのまま、この世から、消え去った。






 沈黙が、辺りに過ぎる。信じられない出来事を前に、シャノンも、アルヴァも、目を見開いて固まった。


 木の葉だけが、風にそよいで静かに囁く。


 優しいざわめきは、やがて一つの足音を連れてきた。

 蹴散らすような激しさに、狼の耳がピクリと揺れる。


「アルヴァーッ! シャノーンッ! どこだぁーっ!」


 聞き慣れた頼もしい声に、シャノンの顔がみるみる歪んでいく。


「っ、た、隊長さぁーんっ、隊長さぁーんっ! ここだよぉーっ!」


 網を揺すって、必死にがなる。

 すると足音がこちらへ矛先を向け、数拍後、待ち侘びた人物がようやく現れた。


 汗に塗れた顔を見るや、黒い瞳は、また涙を生み始める。


「だ、だいぢょうざぁーん……っ! うぐぅっ、うぐあぁぁぁぁーんっ!」


 大口を開けて泣くシャノンの元へ、隊長は走り寄る。腰に差した剣を抜き、一振りで網を切り裂いた。

 落ちてきたシャノンを受け止めれば、鍛え上げられた体に両手足が巻き付いてくる。彼女が顔を埋める肩口からは、ひっきりなしに唸りと叫びが上がった。


 隊長は片腕でシャノンを抱えたまま、アルヴァの元へ急ぐ。うつ伏せる彼の姿を見るや、盛大に顔を歪めた。傍へしゃがみ、汚れ切った体を、そっと撫でる。


「アルヴァ、大丈夫か?」

「た、隊ちょ、さん……」

「ごめんな、くるのが遅くなっちまって。シャノンも、怖い目に合わせてごめん」


 苦しげな声に、シャノンは大きく頭を振った。アルヴァも、自分達の向こう見ずな行動のせいだと分かっていたから、申し訳なくて小さく首を揺らした。


 二人の返事に、隊長は苦く微笑む。眉も下がり、その拍子に右眉の上にある古傷が、僅かに引っ張られた。

 額を縦断する痕の上を、汗が次から次へと伝い流れていく。


「……アルヴァ」


 彼の傷に響かないよう、隊長は固い掌を、ゆっくり動かす。


「よく持ち堪えてくれたな。流石は白き守護神だ」


 ありがとう、と続いた言葉に、アルヴァの喉から、細く高い音が鳴った。


 ごめんなさい、と何度も呟き、アルヴァは、ようやく安堵の嗚咽を吐き出せた。


 辺りに、二つの泣き声が響く。

 慰めるかのように、木の葉と風が、さざめいた。


「ジェイ隊長っ!」


 隊長がきた方向から、駐在兵が現れる。アルヴァとシャノンの無事に胸を撫で下ろし、すぐさま険しい顔付きとなった。


「この辺りには、いないようです」

「そうか……他の場所では?」

「それらしき男は、今のところまだ」

「分かった。じゃあお前達は、引き続き人攫いの捜索に当たってくれ。俺はこいつらを送り届けてから合流する。何かあったら、俺の指示を待たずにそれぞれで判断すること。いいな」

「はっ」


 駐在兵は踵を返し、森の中へと走っていく。隊長もアルヴァを抱え、片腕に一人ずつ乗せたまま、足早に駐在所へ向かった。


 三人が離れていき、森で一番大きな木の周りには、誰もいなくなった。


 いや、正確には、まだ三人残っている。


 一人は、人攫いの男の記録係。

 もう一人は、シャノンを担当しているキアラン。


 そして、最後の一人は。


「…………ベルさん……」


 人攫いの記録係に取り押さえられた、ベルだった。

 腕を捻り上げられながら、先ほどまでアルヴァが倒れていた場所で膝を付いている。


 その顔からは、感情を読み取ることが出来ない。


 足元に落ちた本の表紙が、風に吹かれて、静かに閉じる。

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