2
「へへ……やっぱりなぁ」
顔を覗かせたのは、見知らぬ男だった。顔も髪も汚れ、目元を嫌らしく歪ませている。
「ブラックのガキ、しかも女かぁ」
品定めするような眼差しに、シャノンは震えた。後ずさる彼女を、アルヴァは素早く背に隠す。白い毛を逆立てて、腰に差した短剣へ手を掛けた。
「こっちも中々……いやぁ、ツイてるなぁ」
そう言って、男は腕を伸ばす。
アルヴァはシャノンを奥へ押しやり、自分も洞に張り付いた。
「あぁ? どこ行ったぁ?」
二人を探して蠢く手を、シャノンは顔を青醒めさせながら凝視する。
「ア、アルヴァ……ッ」
「っ、大丈夫。大丈夫だからな。落ち着くんだ。いいな」
シャノンにも自分にも言い聞かせ、アルヴァは唾を飲み込んだ。
その間も、男の腕は辺りを探っている。
洞の中からは、動きに合わせて揺れる男の頭が見えた。時折ジャンプしているのか、髪が上へ広がり、指がアルヴァのつま先を掠めていく。
「ったく、どこだよ……っとぉっ」
洞の縁を掴み、男は一瞬、自分の体を浮き上がらせた。
飛び出してきた顔に、二人の口からも悲鳴が飛び出す。
シャノンは目に涙を浮かべて、アルヴァにしがみ付いた。アルヴァも尻尾を股に挟み、シャノンの体を抱き締める。
洞の外から、誰かが幹をよじ登る音が聞こえた。
このままでは、危険だ。
「っ、シャノン……ッ」
アルヴァが、耳元で囁く。
「いいか。俺が合図をしたら、お前は外へ飛び出すんだ。それで隊長さんを呼んでこい。さっき巡回してたから、きっと近くにいる筈だ」
「……ア、アルヴァは……っ? アルヴァも、一緒……っ?」
「俺は、あいつを引き付けてるから、シャノン一人で逃げるんだ」
「っ、や、嫌だ……っ。アルヴァも一緒……っ」
シャノンは、しがみ付く腕の力を強める。
「二人一緒じゃ、逃げ切れないかもしれない。でも一人が足止めすれば、もう一人がその間に逃げて、隊長さんのところへ辿り着ける」
「じゃあっ、じゃあ私が囮になるっ。だからアルヴァが逃げてっ」
「シャノンの方が俺よりも逃げ切れる確率が高い。向こうは空を飛べないんだ。木の上まで高く飛んで、枝の合間を縫って進めば、相手はきっと諦める」
「でもっ、そうしたら今度はっ、アルヴァが狙われちゃう……っ」
想像したのか、シャノンは喉を引き攣らせ、語尾をか細く絞り上げた。
そんな彼女の腕を、アルヴァは宥めるように擦る。
「心配するな、シャノン。俺には武器がある。もしもの時は、隊長さん直伝の剣さばきで応戦してやるさ。言ったろ? 人攫いなんてチョチョイのチョイだって」
「で、でも……ひぃっ!」
洞の縁に、両手が掛かった。
幹を蹴る音が、近付いてくる。汚い頭も、徐々に姿を現した。
「っ、いいな、シャノン。俺が『行け』って言ったら、すぐさまここから離れるんだぞ?」
アルヴァは腰を浮かし、洞の出入り口へ向かおうとする。
それを阻止する、細い腕。
「……シャノン」
「嫌ぁ……っ」
「大丈夫。お前は出来る。俺も出来る。そうだろ?」
それでも、シャノンは頭を振る。
アルヴァは眉を下げ、すぐに、つり上げた。
己に回る腕を掴み、そっと、口を開く。
「……このままじゃマズいって、分かるだろ?」
「っ、ん……っ」
「じゃあ、出来るな?」
黒い髪が、小刻みに震える。
それから、指に籠った力を、ゆっくりと解いた。
少し離れた体温。アルヴァは静かに膝を立て、出入り口の方を見据えた。
男の肘が、洞の中へ入ってきた。
嫌な笑みと、対面する。
「見ぃつけたぁ」
男は洞の縁へ上半身を乗せ、這うようにアルヴァ達へ近付く。
木の皮が張り付く掌を、大きく広げて伸ばしてきた。
アルヴァはそれを睨み付け、後ろ手に腰から、素早く短剣を抜き取る。
「っ、ウォォォーンッ!」
そしてホワイトリー族特有の雄叫びを上げ、目一杯、振りかざした。
貫通する感触と、男の濁声が、洞に轟く。
初めて体験する肉の固さに、アルヴァは思わず目を瞑った。
だがすぐに瞼をこじ開け、男の手から短剣を抜き取る。
同時に、視界から男が消え去った。
「シャノンッ、行けぇっ!」
隣から、黒い影が飛び出した。木漏れ日の下へ身を投げ出し、その背に生える蝙蝠の羽を、大きく大きく広げてみせる。
シャノンはアルヴァに言われた通り、木の上を目指した。
相手の届かない場所へ高く飛び、枝の隙間を縫いながら、巡回しているであろう駐在兵達を急いで見つけるのだ。それが自分の役目であると、何度も自分に言い聞かせる。
振り返りたい気持ちを堪え、シャノンは鼻を啜りながら、懸命に羽を羽ばたかせた。
瞬間、細い糸が、足に引っ掛かる。
木の陰から、折れた枝が発射された。
剣ほどの長さのそれは、まだ枯れていない葉をたなびかせて、シャノンへ向かいやってくる。
「っ、きゃあ……っ!」
横からの突撃に、小さな体はよろめいた。近くの幹へとぶつかり、バランスを失った彼女は墜落してしまう。
地面に落ちた直後。今度は網に包み込まれ、一気に引っ張り上げられる。
シャノンは倒れた体勢のまま、吊るし上げられてしまった。
「シャノンッ!」
もがくシャノンに、アルヴァは思わず洞から身を乗り出した。
するとその胸倉を、下から鷲掴まれる。
しまった、と思った時には既に宙を舞い、地面へ叩き付けられていた。
シャノンの悲鳴が、この場を劈く。
「てめぇ……っ、よくも刺してくれたなぁ。あぁ?」
男はアルヴァの頭を踏み、短剣を奪った。
右手からは血を流し、憎々しげに彼を見下ろしている。
「あーぁ、ザックリやりやがって……くそ、これだからガキは嫌いなんだっ、よっ!」
「ぐっ、うぅ……っ」
男は足に体重を掛け、うつ伏せとなるアルヴァの顔を、何度も地面に擦り付ける。
苦しげな呻きと汚れていく白い毛を、至極どうでもよさそうに眺めた。
「アルヴァッ、アルヴァーッ!」
網を揺らして、シャノンは必死にアルヴァを呼ぶ。その目には涙が浮かび、落ちた際にぶつけたのか、左の頬が少し赤く膨らんでいた。
「ちっ、うるせぇなぁ……」
男は振り返るや、低い声でシャノンを見上げる。
「おい、お嬢ちゃん。あんまり騒ぐんじゃねぇよ」
「ア、アルヴァをっ、踏まないでっ! 足を退かしてっ!」
「騒ぐなっつってんだろ? 聞こえねぇのか、あぁ?」
「っ、ひ、人攫いの指図なんかっ、誰が受けるかぁっ! うぅ……っ、アルヴァを、離せっ! 離せぇっ!」
小さな牙を剥き出しにして、シャノンは身を捩った。体勢を整え、網目を握り締めてはまた吼える。
「……はーぁ」
男は面倒臭げに頭をかくと、おもむろにしゃがみ込んだ。己のブーツに爪を立てるアルヴァを一瞥し、狼の白い耳を、傷付いた右手で摘む。
「おい、お嬢ちゃん。これが見えるかぁ?」
男が、アルヴァの耳に短剣を沿える。
途端、シャノンの声は、喉に張り付いた。
「元気がいいのは構わねぇが、もうちょいお淑やかにしろよ。な? じゃなきゃ、こいつの耳が今すぐ欠けることになるぞ。それでもいいのかぁ?」
「だ、駄目……っ」
「なら口を閉じな。こいつを『売り物』にされたくねぇならな」
シャノンは手で口を押さえ、何度も首を縦に振る。その拍子に黒い髪が揺れ、目尻からは、涙が零れた。
「いい子だ」
男は口元を歪め、アルヴァの耳から手を離す。そのまま右手を腰に滑らせ、下げていたロープを掴んだ。一旦短剣をベルトに挟み、アルヴァを縛り上げようとする。
「ぐぅ、うぅっ、うぅぅ……っ」
全身をくねらせて抵抗するアルヴァ。手や足を掴まれる度、全力で振り払った。時には蹴りつけ、時には引っ掻き、どうにか逃れようと鼻息を荒くする。
喉からはひっきりなしに唸りが漏れ、顔と髪は、どんどん土に塗れていった。
「シャ、シャノン、叫べぇ……っ。隊長さんをっ、呼ぶんだぁ……っ!」
目玉を限界まで上げ、囚われているシャノンを見据える。
小さな声だったが、シャノンには届いたようだ。
しかし彼女は、口を覆いながら首を振った。怯えた顔で、しゃくり上げている。
「っ、このまま黙っててもっ、結局耳を切られるんだぞ……っ。だったら騒いでっ、抵抗しろっ。例え切られたと、してもっ、くぅ……っ、隊長さんがきてくれればっ、助かるからぁ……っ!」
「このっ、静かにしろってっ」
「隊長さんはぁっ、つ、強いんだ……っ。絶対っ、助けてくれるっ。そうだろぉっ、シャノン……ッ!」
精一杯がなり、アルヴァは己の手首に纏わり付く体温を、渾身の力で引き剥がした。
つと、男の右手にアルヴァの爪が刺さる。
一度短剣で貫いた箇所だったらしく、短い濁声が上がった。
同時に、舌打ちも上がる。
「大人しくしろってっ、言ってんだろうがぁっ」
薄汚れた白い髪を鷲掴み、思い切り引っ張り上げる。痛みに呻きは大きくなるも、アルヴァの抵抗は衰えない。
男はもう一つ舌打ちをし、アルヴァを押さえ付けている足を、頭から肩甲骨の間へとズラす。
そして間髪入れず、持ち上げたアルヴァの額を、地面へ叩き付けた。
くぐもった悲鳴が、この場に二つ、生まれる。
男は一旦足を退け、髪を掴んだままアルヴァの体をひっくり返す。顔を歪めるアルヴァの頬を殴り付け、腹へブーツを振り下ろした。
「がぁ……っ!」
「ったく、あんまり手間掛けさせんなよぉ。俺だってあんま傷付けたくないんだからさぁ」
「ぐっ、うぐぅ……っ」
「ま、でも痕にはならなそうだな。値切られずに済みそうだ」
アルヴァの髪から手を離し、仰向けに倒れるアルヴァを見下ろす。
口からは荒い息と涎を垂れ流し、ところどころ肌の色を赤黒くしている。先ほどまで果敢に挑んできた手は、もう抗う気力もないのか、ブーツを触っているだけ。
だが、目は決して逸らさない。
毛を逆立て、唸りながら男を睨み続けている。
こんな子供でも、白き守護神なんだな。
半ば感心しつつ、男はロープ片手にしゃがみ込む。
近付いた男に、アルヴァは僅かに身じろいだ。
だがすぐに動かなくなった。
地面に落ちた掌が、土を削りながら悔しげに握り込まれる。
男は口元を歪め、青いブレスレットが巻かれた腕へ、手を伸ばした。
男の視線が、アルヴァの手首へ向く。
瞬間。狼の耳が、揺れた。
今だ。
心の中でそう叫び、目一杯腹へ力を入れる。
「……っ、ウォォ……ッ!」
ホワイトリー族特有の雄叫びを上げ、アルヴァは、握った土を、男の顔へ叩き付けた。
男は濁声を上げ、後ろへのけ反る。ロープを落とし、目を両手で覆った。
緩んだ足を、アルヴァは払い除ける。
すぐさま起き上がり、男の顎目掛けて頭から体当たりをかました。
突然の攻撃に、男はバランスを崩し、倒れる。
痛みに混乱する彼のベルトから、アルヴァは短剣を奪い返した。肩で息をしつつ、両手で柄を握り締める。
「ウオォォォーンッ!」
胸の前で短剣を構え、男へ向かい突撃する。
狙うは、太腿。
少しでも機動力が削げるよう、二人一緒に逃げられるよう、全体重を乗せて、男の足へ圧し掛かった。
濁声が、轟き渡る。
「っ、くぅ……っ」
アルヴァは急いで短剣を抜き、男から距離を取る。地面を転がる相手を警戒しながら、横へゆっくり移動していく。
「い、あぁっ、ぐぅっ。こ、このぉ……っ」
涙を流して唸る男。その顔は怒りと苦悶に溢れてはいるも、立ち上がる気配は見せない。
アルヴァは素早く身を翻し、シャノンの元へ走っていく。
「シャノンッ!」
見上げれば、顔中を涙で濡らしたシャノンと目が合う。
途端、彼女は声を上げて泣き出した。男の呻きよりも大きく、ひたすらアルヴァの名前を呼んだ。
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