「へへ……やっぱりなぁ」


 顔を覗かせたのは、見知らぬ男だった。顔も髪も汚れ、目元を嫌らしく歪ませている。


「ブラックのガキ、しかも女かぁ」


 品定めするような眼差しに、シャノンは震えた。後ずさる彼女を、アルヴァは素早く背に隠す。白い毛を逆立てて、腰に差した短剣へ手を掛けた。


「こっちも中々……いやぁ、ツイてるなぁ」


 そう言って、男は腕を伸ばす。

 アルヴァはシャノンを奥へ押しやり、自分も洞に張り付いた。


「あぁ? どこ行ったぁ?」


 二人を探して蠢く手を、シャノンは顔を青醒めさせながら凝視する。


「ア、アルヴァ……ッ」

「っ、大丈夫。大丈夫だからな。落ち着くんだ。いいな」


 シャノンにも自分にも言い聞かせ、アルヴァは唾を飲み込んだ。

 その間も、男の腕は辺りを探っている。

 洞の中からは、動きに合わせて揺れる男の頭が見えた。時折ジャンプしているのか、髪が上へ広がり、指がアルヴァのつま先を掠めていく。


「ったく、どこだよ……っとぉっ」


 洞の縁を掴み、男は一瞬、自分の体を浮き上がらせた。

 飛び出してきた顔に、二人の口からも悲鳴が飛び出す。


 シャノンは目に涙を浮かべて、アルヴァにしがみ付いた。アルヴァも尻尾を股に挟み、シャノンの体を抱き締める。


 洞の外から、誰かが幹をよじ登る音が聞こえた。

 このままでは、危険だ。


「っ、シャノン……ッ」


 アルヴァが、耳元で囁く。


「いいか。俺が合図をしたら、お前は外へ飛び出すんだ。それで隊長さんを呼んでこい。さっき巡回してたから、きっと近くにいる筈だ」

「……ア、アルヴァは……っ? アルヴァも、一緒……っ?」

「俺は、あいつを引き付けてるから、シャノン一人で逃げるんだ」

「っ、や、嫌だ……っ。アルヴァも一緒……っ」


 シャノンは、しがみ付く腕の力を強める。


「二人一緒じゃ、逃げ切れないかもしれない。でも一人が足止めすれば、もう一人がその間に逃げて、隊長さんのところへ辿り着ける」

「じゃあっ、じゃあ私が囮になるっ。だからアルヴァが逃げてっ」

「シャノンの方が俺よりも逃げ切れる確率が高い。向こうは空を飛べないんだ。木の上まで高く飛んで、枝の合間を縫って進めば、相手はきっと諦める」

「でもっ、そうしたら今度はっ、アルヴァが狙われちゃう……っ」


 想像したのか、シャノンは喉を引き攣らせ、語尾をか細く絞り上げた。

 そんな彼女の腕を、アルヴァは宥めるように擦る。


「心配するな、シャノン。俺には武器がある。もしもの時は、隊長さん直伝の剣さばきで応戦してやるさ。言ったろ? 人攫いなんてチョチョイのチョイだって」

「で、でも……ひぃっ!」


 洞の縁に、両手が掛かった。


 幹を蹴る音が、近付いてくる。汚い頭も、徐々に姿を現した。


「っ、いいな、シャノン。俺が『行け』って言ったら、すぐさまここから離れるんだぞ?」


 アルヴァは腰を浮かし、洞の出入り口へ向かおうとする。


 それを阻止する、細い腕。


「……シャノン」

「嫌ぁ……っ」

「大丈夫。お前は出来る。俺も出来る。そうだろ?」


 それでも、シャノンは頭を振る。


 アルヴァは眉を下げ、すぐに、つり上げた。

 己に回る腕を掴み、そっと、口を開く。


「……このままじゃマズいって、分かるだろ?」

「っ、ん……っ」

「じゃあ、出来るな?」


 黒い髪が、小刻みに震える。

 それから、指に籠った力を、ゆっくりと解いた。


 少し離れた体温。アルヴァは静かに膝を立て、出入り口の方を見据えた。


 男の肘が、洞の中へ入ってきた。

 嫌な笑みと、対面する。


「見ぃつけたぁ」


 男は洞の縁へ上半身を乗せ、這うようにアルヴァ達へ近付く。

 木の皮が張り付く掌を、大きく広げて伸ばしてきた。


 アルヴァはそれを睨み付け、後ろ手に腰から、素早く短剣を抜き取る。


「っ、ウォォォーンッ!」


 そしてホワイトリー族特有の雄叫びを上げ、目一杯、振りかざした。


 貫通する感触と、男の濁声が、洞に轟く。


 初めて体験する肉の固さに、アルヴァは思わず目を瞑った。

 だがすぐに瞼をこじ開け、男の手から短剣を抜き取る。


 同時に、視界から男が消え去った。


「シャノンッ、行けぇっ!」


 隣から、黒い影が飛び出した。木漏れ日の下へ身を投げ出し、その背に生える蝙蝠の羽を、大きく大きく広げてみせる。


 シャノンはアルヴァに言われた通り、木の上を目指した。

 相手の届かない場所へ高く飛び、枝の隙間を縫いながら、巡回しているであろう駐在兵達を急いで見つけるのだ。それが自分の役目であると、何度も自分に言い聞かせる。

 振り返りたい気持ちを堪え、シャノンは鼻を啜りながら、懸命に羽を羽ばたかせた。


 瞬間、細い糸が、足に引っ掛かる。


 木の陰から、折れた枝が発射された。

 剣ほどの長さのそれは、まだ枯れていない葉をたなびかせて、シャノンへ向かいやってくる。


「っ、きゃあ……っ!」


 横からの突撃に、小さな体はよろめいた。近くの幹へとぶつかり、バランスを失った彼女は墜落してしまう。


 地面に落ちた直後。今度は網に包み込まれ、一気に引っ張り上げられる。

 シャノンは倒れた体勢のまま、吊るし上げられてしまった。


「シャノンッ!」


 もがくシャノンに、アルヴァは思わず洞から身を乗り出した。


 するとその胸倉を、下から鷲掴まれる。


 しまった、と思った時には既に宙を舞い、地面へ叩き付けられていた。


 シャノンの悲鳴が、この場を劈く。


「てめぇ……っ、よくも刺してくれたなぁ。あぁ?」


 男はアルヴァの頭を踏み、短剣を奪った。

 右手からは血を流し、憎々しげに彼を見下ろしている。


「あーぁ、ザックリやりやがって……くそ、これだからガキは嫌いなんだっ、よっ!」

「ぐっ、うぅ……っ」


 男は足に体重を掛け、うつ伏せとなるアルヴァの顔を、何度も地面に擦り付ける。

 苦しげな呻きと汚れていく白い毛を、至極どうでもよさそうに眺めた。


「アルヴァッ、アルヴァーッ!」


 網を揺らして、シャノンは必死にアルヴァを呼ぶ。その目には涙が浮かび、落ちた際にぶつけたのか、左の頬が少し赤く膨らんでいた。


「ちっ、うるせぇなぁ……」


 男は振り返るや、低い声でシャノンを見上げる。


「おい、お嬢ちゃん。あんまり騒ぐんじゃねぇよ」

「ア、アルヴァをっ、踏まないでっ! 足を退かしてっ!」

「騒ぐなっつってんだろ? 聞こえねぇのか、あぁ?」

「っ、ひ、人攫いの指図なんかっ、誰が受けるかぁっ! うぅ……っ、アルヴァを、離せっ! 離せぇっ!」


 小さな牙を剥き出しにして、シャノンは身を捩った。体勢を整え、網目を握り締めてはまた吼える。


「……はーぁ」


 男は面倒臭げに頭をかくと、おもむろにしゃがみ込んだ。己のブーツに爪を立てるアルヴァを一瞥し、狼の白い耳を、傷付いた右手で摘む。


「おい、お嬢ちゃん。これが見えるかぁ?」


 男が、アルヴァの耳に短剣を沿える。

 途端、シャノンの声は、喉に張り付いた。


「元気がいいのは構わねぇが、もうちょいお淑やかにしろよ。な? じゃなきゃ、こいつの耳が今すぐ欠けることになるぞ。それでもいいのかぁ?」

「だ、駄目……っ」

「なら口を閉じな。こいつを『売り物』にされたくねぇならな」


 シャノンは手で口を押さえ、何度も首を縦に振る。その拍子に黒い髪が揺れ、目尻からは、涙が零れた。


「いい子だ」


 男は口元を歪め、アルヴァの耳から手を離す。そのまま右手を腰に滑らせ、下げていたロープを掴んだ。一旦短剣をベルトに挟み、アルヴァを縛り上げようとする。


「ぐぅ、うぅっ、うぅぅ……っ」


 全身をくねらせて抵抗するアルヴァ。手や足を掴まれる度、全力で振り払った。時には蹴りつけ、時には引っ掻き、どうにか逃れようと鼻息を荒くする。

 喉からはひっきりなしに唸りが漏れ、顔と髪は、どんどん土に塗れていった。


「シャ、シャノン、叫べぇ……っ。隊長さんをっ、呼ぶんだぁ……っ!」


 目玉を限界まで上げ、囚われているシャノンを見据える。

 小さな声だったが、シャノンには届いたようだ。

 しかし彼女は、口を覆いながら首を振った。怯えた顔で、しゃくり上げている。


「っ、このまま黙っててもっ、結局耳を切られるんだぞ……っ。だったら騒いでっ、抵抗しろっ。例え切られたと、してもっ、くぅ……っ、隊長さんがきてくれればっ、助かるからぁ……っ!」

「このっ、静かにしろってっ」

「隊長さんはぁっ、つ、強いんだ……っ。絶対っ、助けてくれるっ。そうだろぉっ、シャノン……ッ!」


 精一杯がなり、アルヴァは己の手首に纏わり付く体温を、渾身の力で引き剥がした。


 つと、男の右手にアルヴァの爪が刺さる。

 一度短剣で貫いた箇所だったらしく、短い濁声が上がった。


 同時に、舌打ちも上がる。


「大人しくしろってっ、言ってんだろうがぁっ」


 薄汚れた白い髪を鷲掴み、思い切り引っ張り上げる。痛みに呻きは大きくなるも、アルヴァの抵抗は衰えない。


 男はもう一つ舌打ちをし、アルヴァを押さえ付けている足を、頭から肩甲骨の間へとズラす。


 そして間髪入れず、持ち上げたアルヴァの額を、地面へ叩き付けた。

 くぐもった悲鳴が、この場に二つ、生まれる。


 男は一旦足を退け、髪を掴んだままアルヴァの体をひっくり返す。顔を歪めるアルヴァの頬を殴り付け、腹へブーツを振り下ろした。


「がぁ……っ!」

「ったく、あんまり手間掛けさせんなよぉ。俺だってあんま傷付けたくないんだからさぁ」

「ぐっ、うぐぅ……っ」

「ま、でも痕にはならなそうだな。値切られずに済みそうだ」


 アルヴァの髪から手を離し、仰向けに倒れるアルヴァを見下ろす。

 口からは荒い息と涎を垂れ流し、ところどころ肌の色を赤黒くしている。先ほどまで果敢に挑んできた手は、もう抗う気力もないのか、ブーツを触っているだけ。


 だが、目は決して逸らさない。

 毛を逆立て、唸りながら男を睨み続けている。


 こんな子供でも、白き守護神なんだな。

 半ば感心しつつ、男はロープ片手にしゃがみ込む。


 近付いた男に、アルヴァは僅かに身じろいだ。

 だがすぐに動かなくなった。

 地面に落ちた掌が、土を削りながら悔しげに握り込まれる。


 男は口元を歪め、青いブレスレットが巻かれた腕へ、手を伸ばした。

 男の視線が、アルヴァの手首へ向く。


 瞬間。狼の耳が、揺れた。


 今だ。

 心の中でそう叫び、目一杯腹へ力を入れる。


「……っ、ウォォ……ッ!」


 ホワイトリー族特有の雄叫びを上げ、アルヴァは、握った土を、男の顔へ叩き付けた。


 男は濁声を上げ、後ろへのけ反る。ロープを落とし、目を両手で覆った。


 緩んだ足を、アルヴァは払い除ける。

 すぐさま起き上がり、男の顎目掛けて頭から体当たりをかました。


 突然の攻撃に、男はバランスを崩し、倒れる。

 痛みに混乱する彼のベルトから、アルヴァは短剣を奪い返した。肩で息をしつつ、両手で柄を握り締める。


「ウオォォォーンッ!」


 胸の前で短剣を構え、男へ向かい突撃する。

 狙うは、太腿。

 少しでも機動力が削げるよう、二人一緒に逃げられるよう、全体重を乗せて、男の足へ圧し掛かった。


 濁声が、轟き渡る。


「っ、くぅ……っ」


 アルヴァは急いで短剣を抜き、男から距離を取る。地面を転がる相手を警戒しながら、横へゆっくり移動していく。


「い、あぁっ、ぐぅっ。こ、このぉ……っ」


 涙を流して唸る男。その顔は怒りと苦悶に溢れてはいるも、立ち上がる気配は見せない。


 アルヴァは素早く身を翻し、シャノンの元へ走っていく。


「シャノンッ!」


 見上げれば、顔中を涙で濡らしたシャノンと目が合う。

 途端、彼女は声を上げて泣き出した。男の呻きよりも大きく、ひたすらアルヴァの名前を呼んだ。

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