ティアの真ん前に立つ少年が、意地の悪い笑みを浮かべた。


「こんなところに隠れてたのかよ、『ソニア』」


 呼ばれた名前に、ティアは眉を顰める。


「……ティアよ」

「はぁ? なんだってぇ? 聞こえねぇよ」

「私の名前は、ティア」

「え? 全っ然聞こえませぇーん」

「っ、だからっ、ティアだって言ってるでしょっ! 何度言ったら分かるのよっ、ジェイッ!」


 彼女が声を荒げれば、目の前に立つジェイは、ふざけた様子で怖がってみせた。周りの子供達もそれに便乗し、怖い怖いと言っては俯くティアを嘲笑う。

 狐の耳と尻尾が、人知れず垂れ下がっていく。


「それよりソニア、お前なんでこんなところにいるんだよ。ほら、ダンはもう走ってるぞ? 追い掛けなくていいのかぁ?」

「……ダンを追い掛けたのはモルダーグレイ族じゃないわ」

「でも、『灰色の奴』だろ?」

「灰色だけど、私達じゃないのっ」

「えー、本当かぁ? だってよぉ、灰色なんてお前くらいしかいないじゃないか。あ、やっべぇ。こんな近くにいたら襲われちまう。どうしよう。俺、トマトで倒せるかなぁ?」


 トマト片手にしなを作るジェイを見て、少年達はまた笑う。


 頭巾を掴むティアの手に、力が籠った。

 いつもならば悲しくてただ俯いているところだが、今はキアランとの会話で思い出した感情が、腹の中で渦を巻いていた。


 衝動的に、口を開く。


「……あんた達、ブラウン・ダンの意味、分かってないの?」

「はいぃ? なんだってぇ?」

「……ホワイトリー族の悲しい決断を、あんた達は知らないの? それとも、知ってて馬鹿にしてるの?」


 少しだけ視線を上げて、ジェイ達の胸辺りを睨む。


「もし知ってて言ってるのなら、あんた達、最低ね。灰色にならなきゃいけなかったホワイトリー族を馬鹿にして、何も悪くないモルダーグレイ族を馬鹿にして、あんた達は、最低よ」


 語気の強さと正論に、男の子達は途端に口籠る。


「大体なによ。男が寄ってたかって女を苛めるなんて。それって、自分一人じゃ私に勝てないって言ってるのと同じよ? 恥ずかしくないの? ねぇジェイ。あんた、自分はこの町で一番強いって言っておきながら、誰かと一緒じゃなきゃ何にも出来ないの? それって凄く情けないわ。弱虫よ」

「よ……っ、弱くなんかねぇよっ!」


 名指しされたジェイは、目をつり上げて怒鳴る。


「俺はなぁっ、誰にも負けたことねぇんだっ。喧嘩だって強いしっ、足だって早いっ。誰よりも重いものを持ち上げられるしっ、誰よりも高くジャンプ出来るんだからなっ!」

「……どれだけ力が強くても、それは本当の強さじゃないのよ」


 自分に何度も教えてくれた優しい声を、頭の中で再生する。


「本当に強い人は、人の痛みをよく分かって、困ってる人を助けてあげて、人の嫌がることは決してしないの。いつも周りを想い、家族を想い、もし何かあった時には、真っ先に守ろうと走り出すの。そういう心の綺麗な人が、本当に強い人なのよ。

 あんたなんかとは全然違――」


 トマトが、ティアの足元で弾け散った。


 手を振り下ろした状態で、ジェイが、ティアを睨め付ける。


 ベンチを取り巻く空気が、僅かに研ぎ澄まされた。


「……なぁに偉そうに説教してんだよ。あ? ソニアちゃんよぉ」

「……ソニアじゃないわ。ティアよ」

「またあれか? てめぇの大好きな『おじいちゃんがそう言ってた』って奴か? はっ、そうだよなぁ。なんてったって役所の元所長さんだもんなぁ? そりゃあ偉そうなことの一つや二つ言うだろうよ。なぁ、ソニア?」

「ソニアじゃないって言ってるでしょっ」

「あれあれぇ? 可笑しいなぁ。お前の大好きな『おじいちゃんがそう言ってた』ぞぉ? お前のこと、ソニアーって。なぁ、皆?」


 意地の悪い笑みを浮かべ、ジェイは周りを見回す。問い掛けられた子達は、慌てて賛同を返した。


「そういや今日も呼んでたなぁ? 『ソニア、ソニア、どこに行ったんだ?』って」

「そうそう。ブラウン・ダンなんかそっちのけで、ずっと通りを行ったりきたりしてさ」

「おばさんも連れ回してたよね。杖を付いて、ヨロヨロ人の間を進んでんの」

「しかも、周りの人に何度も何度も同じこと聞くんだぜ? 『君。すまないが、私の妻を見なかったか?』って」

「おばさんにもさ、何度も同じ話を聞かせてたよな。ソニアはああだったー、ソニアはこうだったーって」

「で、おばさんが返事を返すと、必ずこう言うんだ」

「『何故君が、そのことを知っているんだい?』ってなっ!」


 ジェイの物真似に、少年らは一斉に笑い出した。

 ティアの変化になど、気付いた様子もなく。


「でもさ、前はもっとしっかり話してたよね? なんであんな風に変になっちゃったんだろう?」

「あれだろ? ボケって奴だろ? 歳を取ると誰でもそうなるんだってさ」

「けど、それにしては変じゃないかぁ? うちのばーちゃんだってボケてるけど、俺のこと、ちゃーんと『ジェイ』って呼ぶぞぉ?」

「変と言えば、顔もなんか変だよな。ぼけーっとして、どこ見てるんだか分かんねーの」


 少年達が顔を見合せると、不意に、ジェイが手を打ち鳴らした。


「あ、分かった。きっとあれじゃねぇ?」


 ジェイは嫌な笑みを浮かべ、思い付いた内容を、そのまま吐き出す。


「ソニアのじいさんは『灰色の奴』だからさ、ダンとお嬢さんを可哀そうに思った神様が、天罰を下したんだよ。じゃなきゃ、あんなに頭が可笑しくはならな――」






 甲高い打音が、公園の片隅から、上がる。






 ジェイの顔が、勢い良く、横を向いた。

 姦しく交わされていた会話が、途切れる。


「はっ、はっ、ふぅ……っ」


 頭巾から離れた手が、振り切られた形で宙に漂う。指先を小刻みに震わせ、走ってもいないのに呼吸を荒くした。


 噛み締められた歯が、鈍く音を上げる。


「な……何すんだよてめぇっ!」


 ジェイの怒りに、周りの少年もいきり立つ。トマトを構え、ティアを威嚇した。


「……い……よ……」

「はぁっ!? 何言ってんだよっ!? 聞こえねーっつーのっ!」


 怒鳴りながら、ジェイは一歩前に出る。威圧するように、上からティアを見下した。


 だから、気が付かなかった。


 服の下で、灰色の毛が盛大に逆立っていることを。


「……っ、いい加減に……っ」


 拳を握り締め、ティアは顔を上げる。


「しなさいよぉ……っ!」


 相手をしかと見据え、その体目掛け、もう一発、腕を振り被った。


 通りの方とは違う喧噪が、ベンチの裏で巻き起こる。


 ティアは、両手を振り回して暴れた。自分を取り囲む少年全員を殴り、自分を抑えようとした相手には顔面へ拳をお見舞いした。特にジェイに対しては容赦がなく、足や頭も使って徹底的に攻撃を仕掛けていく。

 そのなりふり構わぬ勢いに、苛めていた筈の男の子達は戦いた。距離を取ろうにもティア自身が向かってきては、握った拳を繰り出してくる。


 次第に少年側は及び腰となり、反対にティアの突撃は止まらない。


「う、うわぁっ!」


 ティアに体当たりされ、ジェイは仰向けに倒れ込んだ。急いで起き上がろうとするも、それより先に腹の上へ圧し掛かられてしまい、起き上がれない。


 ジェイは腕を交差し、慌てて顔を守った。

 直後。

 ティアの両手が、落とされる。


「ふざけんじゃないわよっ! あんたみたいに心の汚い奴にねっ、おじいちゃんを悪く言う資格なんかないのよっ! 


 おじいちゃんは凄いんだからっ! 白善王ピート様にとっても信頼されててっ、『わへい』を結びにブルームへ行った時にはっ、ピート様の護衛も務めたんだからっ! 軍人さんを辞める時だってっ、沢山の人に引き止められてっ、ピート様からは短剣と万年筆をプレゼントされたのよっ! これからは家族を守るようにってっ! 町の皆を、頼むって……っ!


 これがどれだけ凄いか分からないのっ!? あんたが馬鹿にした人はねっ、王様に認められた凄い人なのっ! 『灰色の奴』ってからかわれてもっ、笑顔で許しちゃえる心の綺麗な人なのっ! 誇り高いっ、灰色の戦士なのよっ!

 それを……っ、それをっ、馬鹿にすんじゃないわよっ! 私の誇りをっ、馬鹿にしないでっ!」


 黄色い頭巾を引っ張られても、羽交い締めにされても、ティアは全身を捩り、腕を振り回し、相手の手を解いてはまた拳を持ち上げた。


 ジェイの体に、いくつもの傷と痣が浮かび上がる。

 その上に、いくつもの水滴が、垂れ落ちる。


 逃げようにも足で胴体を挟み込まれてしまい、ジェイは地面の上でのた打ち回るのが精一杯だった。

 ティアは、一心不乱にジェイを叩く。加減されていない攻撃は、とても痛かった。喧嘩が強いと自負するジェイも、目に涙を浮かべるほど、痛かった。


 ジェイは顔を守りながら、無我夢中で武器を探した。

 そうして指に当たったものを掴み、力一杯、己の上へと投げ付ける。


「きゃ……っ」


 灰色の髪に、トマトの赤が張り付いた。


 ティアが、一瞬、怯む。


「っ、おらぁっ!」


 ジェイはティアを突き飛ばし、素早く立ち上がった。土埃に塗れた姿で、目の前の敵を睨み付ける。

 叩かれた拍子に爪でも当たったのか、彼の右眉の上には、額を縦断する傷が出来ていた。そこから血が、滲み出る。


「はぁっ、はぁっ、ふっざけんじゃねーぞっ、このっ、野郎……っ!」


 ジェイはトマトを拾い上げ、ティア目掛けて投げ付けた。

 それを合図に、周りの少年達も、トマトを手に取った。


 赤い果肉が、地面や灰色の上で弾ける。

 四方八方から飛んでくる赤に、今度はティアが腕で顔を覆った。


「なにが誇りだよっ! そんな偉そうに言うならなぁっ、俺達を倒してみろっつーのっ! ほらっ、灰色の戦士の孫なんだろっ!? だったらてめぇも強ぇんだろっ!? あぁっ!? 逃げてないで掛かってこいよっ、おらぁっ!」


 走るティアの背中に、ジェイはトマトを叩き付ける。

 衝撃に揺らいだ体は、それでも持ち堪えて、公園の出入り口へと向かった。


「おい皆っ! 『灰色の奴』が逃げるぞっ! 追い掛けろっ!」


 ジェイの声に触発され、少年達も通りの方へ駆けていく。手にはトマトを握り、赤に塗れたモルダーグレイ族を追った。


 歓声を上げる人込みの後ろを、ティアは全力で突き進む。涙を垂れ流したまま、立ち止まらずに、ひたすら家を目指した。

 後ろから襲ってくるトマトを避ける余裕はなかった。少しでも防御しようと、黄色だった頭巾を被り直す。端を掴み、出来るだけ頭を覆い隠すよう引っ張り下ろした。


 時折すれ違う人が、ティアの姿に驚いていた。声を掛ける者もいた。

 しかしティアはそのどれにも答えず、足を動かし続ける。

 耳を塞ぎ、目を瞑り、嫌なことがなに一つ入ってこないよう、頭巾の中に閉じ籠った。

 人にぶつかっても、今は謝る気にも、振り返る気にもならなかった。


 ただ、ブランドンに会いたかった。


 あの優しい声が恋しくてしょうがなかった。


 例え『ソニア』と呼ばれようと、いつもの笑顔を向けて欲しかった。


「っ、く、うぅ……っ」


 固く結んだ瞼の隙間から、止めどなく雫が溢れ出る。ふっくらとした頬を滑り、顎の先から滴り落ちる。息が苦しくて口を開ければ、舌の上にしょっぱいものが広がった。


 おじいちゃんに会いたい。


 温かい手で頭を撫でられたい。


 それで、ソニアでもいいから、名前を呼んで欲しい。


「……おじいちゃん……っ」


 『大好きだよ』って言って欲しい。


 そうしたら私も、『大好きだよ』って言って、ニコニコ笑うから。


「おじいちゃぁん……っ!」


 黄色だった頭巾を握り締め、ティアはただただ前進する。


 歓声が鳴り響く中、誰かにぶつかり、姿に驚かれ、肩を掴まれても止まらず、兎に角、走った。


 走って走って、ジェイ達の足音も分からなくなって、後ろから飛んできていたトマトも、全身に張り付く赤い果肉も、気にならなくなった。


 その時。


「ソニアッ!」


 探し求めていた声が、狐の耳に入ってきた。


 思わず立ち止まり、目を開く。


 そこには、ブランドンがいた。


 彼は持っていた杖を投げ出し、左足を引きずりながら、こちらへと走ってくる。


 だが何故か、ティアの望んでいた笑顔は、浮かべていない。


 ブランドンの体越しに、母のクレアも見えた。


 彼女は口を手で覆い、耳と灰色の毛を立ち上げていた。


 周りの住民も騒いでいる。

 頻りに左を指差しては、ティアに何かを伝えようと叫んでいる。


 不思議に思い、ティアは左を向いた。


 仮装用の茶色い服を着た男達が、すぐそこまで迫っていた。


 ティアよりも遥かに大きな車を引いて、通りの真ん中を走っている。

 皆驚いたように目を見開き、全身を後ろへのけ反らせた。


 しかし、車の勢いは、止まらない。


「ソニアァッ!」


 ティアはもう一度、前を向いた。


 ブランドンが、這うように近付いてくる。


 いつもぼんやりしていた目は、しかとティアを見つめていた。


 まるで『ティア』だと分かっているような眼差しに、彼女の喉は、ヒクリと引き攣る。


「おじいちゃん……っ」


 ブランドンは倒れるように、守るように、小さな体へ覆い被さる。


 ティアも、大きな体を、力一杯抱き締めた。






 悲鳴が、この場を支配する。






「いやぁっ! お父さんっ、ティアッ!」

「ク、クレアちゃんっ! クレアちゃん落ち着いてっ!」

「誰か医者を呼んでこいっ! 今すぐにだっ!」

「おいっ! 男は手を貸せっ! 車を退かすぞっ!」

「後ろの組に伝えろっ! レースは中止だっ! 急げっ!」


 騒然とする通りに、人々の手から落とされたトマトが転がる。


 ジェイ達の手からも、零れ落ちた。

 真っ青な顔で、立ち尽くしている。


 彼らの姿を、キアランはすぐ傍で見つめていた。

 無表情をどことなく強張らせ、黒い表紙の本を抱えたまま、微動だにしない。


 つと、キアランの瞼が、一つ瞬いた。


 視線を、ゆっくりと伏せていく。書き途中になっている個所を見つめ、おもむろに羽ペンを握り直した。

 そして、小刻みに震えるペン先を、ぎこちなく、動かし始める。


「お、お父さん……ティア……なんでぇ……っ」

「大丈夫よクレアちゃん。大丈夫。ね、大丈夫だから、気をしっかり持ちなさい。大丈夫よ」

「うぅ……神様ぁ……っ」


 顔を覆って、クレアは地面に座り込んだ。隣では、近所に住む女が彼女を抱き締め、何度も背中を擦っている。

 その背後には、黒いパンツスーツを着た細身の女が、立っていた。

 握った万年筆で、持っていた黒い表紙の本にでたらめ文字を次々と綴っていく。


 クレアの嘆きが、通りと、少年達の胸に、突き刺さった。

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