「……ねぇ、キアランさん」


 ティアは膝に顎を乗せ、己の足を抱き締める。


「キアランさんには、おじいちゃんっている?」

「いいえ。ですが、祖父のような方ならばいます」

「えっと……うん? それは、おじいちゃんなの?」

「周りからすれば、彼は自分のおじいちゃんに該当するでしょう」

「じゃあ、いるのね。どんな人なの?」

「とても厳しい方です」


 キアランは手を動かしながら、一つ瞬きをした。


「礼儀一つ、作法一つ間違えればすぐさま注意を受け、出来るまで何度もやり直しをさせられました。ティアさんほどの年頃の時分には、頬を叩かれたこともあります」

「……怖いおじいちゃんなの?」

「周りからすればそうでしょう。ですが自分は、怖いなどと思ったことは一度もありません」


 流れるように、次のページを捲る。


「厳しくされる時も、叩かれる時も、きちんと理由を説明してくださいました。子供相手だからと適当な嘘を吐くことなく、自分の分からないことは、理解出来るまで根気良く教えてくださいました。そうして自分が成長した暁には、必ず褒めてくださいました。

 あの方に頭を撫でられるのが嬉しかったから、自分は様々なことを努力出来たのです。今の自分があるのは、あの方のお蔭なのです」


 キアランは無表情のまま、静かに語っていく。

 その背中をちらと見上げ、ティアはスカートの中の尻尾を揺らした。


「キアランさんは、おじいちゃんに頭を撫でられるのが好きだったの?」

「えぇ」

「そうなんだ……一緒だね。私も好きだよ」


 地面に視線を戻し、灰色の尻尾を自分に巻き付ける。


「私のおじいちゃんはね、前は軍人さんだったの。でも足を怪我しちゃったから、軍人さんを辞めてお役人になったんだ。お役所の一番上で、町の皆を守ってたんだよ。


 おじいちゃんは、キアランさんのおじいちゃんとは違うの。全然厳しくなくって、お休みの日は一杯遊んでくれて、私のこと、叩いたりなんてしないのよ。ママのお手伝いをしたら、『いい子だね』って頭を撫でてくれるんだ。

 後、凄く物知りだからね。分からないことがあれば、私は必ずおじいちゃんに聞くの。そうすると何でも教えてくれるの。道に咲いたお花の名前とか、なんで虹が出来るのかとか、皆が知らないことをおじいちゃんは全部知ってるの。


 レッドフォードの歴史にも凄く詳しくてね。特に白善王はくぜんおうピート様のお話は、絵本よりも楽しいのよ。私は特に、ブルーム国と『わへい』を結んだ時のお話が好き。『わへい』って知ってる? 『戦いなんか止めて、仲良くしましょう』ってことなのよ。


 ピート様は、長い間ずーっと喧嘩してきた国と仲良くなっちゃったの。だから『凄いね』って言ったら、おじいちゃんも『凄いね』って言って、ニコニコ笑ってね。そうしたらママが、『早く寝なさい』って私達を怒るの。だから『怒られちゃったね』って言ったら、おじいちゃんも『怒られちゃったね』って言って、今度は私もニコニコ笑ってね。それから一緒にお部屋に戻って、お休みって言うの。毎日毎日そうやって、私とおじいちゃんは寝てたのよ」


 そこまで淀みなく喋り、つと、止まる。


「でも……おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんは変になっちゃったの」


 黄色い頭巾の下で、狐の耳がペタリと伏せる。


「お話をしててもね、急に黙っちゃったり、何を話してたのか分からなくなっちゃうの。ピート様の話も忘れたり、私やママが話したことも忘れたりして、どんどん変になっていくの。

 その内お役所にも行かなくなって、お家にずっといて、最初は嬉しかったけど、でもおじいちゃんはどんどん変になっていって、ぼんやり空を見てばっかなの。


 『おじいちゃんどうしたの?』って聞いても返事をしてくれなくて、私が肩を叩いてあげても頭を撫でてくれなくて、ママに聞いたら『おじいちゃんは、おばあちゃんがいなくなって寂しいのよ』って言うの。だから『寂しくないよ。私もママもいるよ』って言ったの。おじいちゃんが寂しくないように、ママと一緒におじいちゃんの傍にずっといたの。


 そうしたら、おじいちゃんが突然、私のこと『ソニア』って呼ぶようになったの。


 ニコニコ笑うようになったの。

 お話も、沢山してくれるようになったの。


 でも私のこと、『ティア』って呼んでくれなくなったの。

 ママのことも、『クレア』って呼ばなくなったの……っ。


 『止めて』って言っても、止めてくれないのっ。『私はティアだよ』って何度も言ったけどっ、おじいちゃんは全然分かってくれないのっ! もう……っ、ぐすっ、やだぁ……っ!」


 ティアは頭巾を掴み、顔を隠すように引っ張る。限りなく小さくなって、胸を震わせながら鼻を啜った。


 そんな彼女に、キアランは何も言わない。ほんの少し目を伏せるだけで、ひたすらでたらめ文字を増やしていく。


 灰色の狐の耳が、おずおずと持ち上がった。


「キアランさん……ずずっ、お、怒らないの……?」

「……えぇ」

「……なんでぇ?」

「あなたは確かに『ティア』さんです。間違ったことは言っていません」

「でも……ママは、怒る……っ」


 ティアの喉が、ヒクリと引き攣る。


「隣のおばさんも八百屋のおじさんも、おじいちゃんじゃなくて私を怒るの。『おじいちゃんは辛いのに我慢出来なかったんだよ』って、『だからおばあちゃんのフリをしてあげて』って言うの。

 でも、私はっ、ティアなのよ……っ。

 おばあちゃんじゃないのっ。おばあちゃんじゃないんだから、おばあちゃんのフリなんて出来ないわ……っ。


 そ、それでも皆、『おばあちゃんのフリをして』って言うの。私がやだって泣いても、『我慢しなさい』っていうの。おじいちゃんは、我慢しなくていいのにっ、なんで私はっ、しなきゃいけないなの……っ? 


 私だって辛いのにっ、我慢出来ないのにっ。おじいちゃんが『ソニア』って呼ぶからっ、皆が真似して私を『ソニア』って呼ぶのよっ。止めてって言ってもっ、何度も……っ、何度も呼んでくるの……っ!


 もう嫌なのっ、我慢出来ないのっ! 私はティアよっ! ティアなのっ! ソニアじゃなくてっ、ティアなんだよってっ、何度も言ったのに……っ! おじいちゃんは、分かってくれなくてっ、おじいちゃんはっ、ティアなんて子……っ、し、知らないってぇ……っ!」


 地面に、いくつもの水滴が滴り落ちる。

 黄色い頭巾を目元まで引き下ろし、ティアは、自分の口を膝に押し付けた。


 通りの方から、また歓声が上がる。走り去る集団と、道を囲む観衆と、飛び交うトマトが、公園の出入り口からよく見えた。

 祭の喧噪に紛れる嗚咽を、キアランは振り返ることなく聞いていた。


 と、不意に、手を止める。


 何かを考えるように黒い表紙の本を眺め、一つ、瞬きをした。

 おもむろにページを捲り、一番初めに書かれたでたらめ文字を、指でなぞる。


「……『ティア。モルダーグレイ族の両親の元に、娘として生まれる』」


 今まで自分が書き留めてきた記録を、読み上げ始めた。


「『父のモリスは、レッドフォード軍の第五警備隊隊長を務めていた。しかし、ティアが一歳の時に死去。以降、祖父のブランドンが父親代わりを務める。


 ティアの世話は、基本的に祖母のソニアが行った。その間、母のクレアは働きに出掛ける。

 家を空けるクレアに祖父はあまりいい顔をせず、これを巡って二人は度々口論となった。だが大抵はソニアの一喝で事態は収拾される。

 結局は祖父が折れ、毎日必ずティアと食事をするという約束で和解を果たした。


 ティアが一番なついたのは、祖父のブランドンであった。

 祖父が帰ってくると、玄関まで走って出迎えた。祖父の仕事が休みの時は一日離れようとせず、寝る時でさえ服を握ってしがみ付いていた。

 そんなティアを祖父も可愛がり、毎日ティアを理由に仕事を切り上げ、口を開けばティアを自慢した。些細なことですぐに褒め、近所でも有名なジジ馬鹿として名を馳せることとなる。


 四歳の時。ブラウン・ダンにて、ティアは灰色の毛を理由に友達にからかわれてしまい、泣きながら家へ戻ってきた。

 話を聞いた家族は、ティアを抱き締めつつ、国の歴史を一つずつティアに教える。そして最後に、『灰色の奴』であるホワイトリー族の悲しい決断を語り、これは決して繰り返してはいけない出来事なのだと伝えた。同時に、灰色は誇り高き戦士の色なのだとも言った。だから灰色をどうか恥じないで欲しい、と訴える家族に、ティアは大きく頷いた。


 六歳の時。祖母のソニアが死去。葬儀には沢山の人が集まり、ティア含め、沢山の人が涙を流した。祖父も、埋葬までは気丈に振る舞っていたが、夜、一人で泣いていた。

 その姿を見てしまったティアは、自分がして貰ったように祖父を抱き締め、頭を撫でた。祖父はティアの体に縋り、祖母の名前を何度も呼んだ。二人で泣きながら眠り、次の日起きた時には、二人で目を腫らしながら笑った。


 祖母が亡くなってから、祖父は仕事の量を減らし、出来る限りティアの傍にいるよう心掛けた。慣れない家事をこなし、ティアが寂しくないようにと必死で世話を行った。

 ティアも家の手伝いを沢山するようになり、しばしば二人で買い出しへも行くようになる。ティアが一人で会計を済ませる度に祖父は褒め、結果ジジ馬鹿に拍車を掛けることとなった』」


 キアランはページを捲っていた手を止め、おもむろに後ろを振り向いた。

 頭巾を握ったままのティアと、目が合う。


「これは、ティアさんが生まれてから、おじいさんの様子が変わってしまうまでの記録です」


 ゆっくりと口を動かしながら、彼女を見下ろす。


「……これは、あくまで自分の心証……自分が思うに、なのですが……」


 無表情ながら、どことなく気恥かしそうに、瞬きを繰り返した。


「ティアさんは、おじいさんに愛されていると思います」


 ティアの目が、大きく見開かれる。


「おじいさんだけではありません。おばあさんにも、お母さんにも、周りの方々にだって、ティアさんは愛されていると思います。ティアさんの今までを全て見てきた自分には、そうとしか思えません」

「……本当……?」

「えぇ」

「じゃあ……なんで……っ」


 ティアの顔が、歪む。


「なんで、私のこと、忘れちゃったの……っ?」


 潤む瞳に問い掛けられ、キアランはつと固まる。

 数拍そのまま黙り込み、それから、一つ瞬きをした。


「……人は、辛いことがあると、頭の中の記録を消そうとしてしまいます。このように」


 本の白紙部分を一枚摘み、破き取ってみせる。


「そしてその記録を慌てて戻そうとした際、うっかり間違えてしまうことがあるのです」


 今度はその白紙を、違う場所へ挟み込んだ。


「おじいさんの頭の中では、こういったことが起こっています。

 おじいさんは破けた記録を失くさないよう、急いで掴み取りました。しかし誤って、あなたのページとおばあさんのページを反対にしてしまいました。ですから、おじいさんはあなたを『ソニア』と呼ぶのです。おじいさんの記録では、あなたのページにソニアと書かれているから」


 ティアは、黙ってキアランの手元を見つめる。


「ですが、このおじいさんの頭の中にある記録は、何一つなくなってはいません。順番がちぐはぐで、意味が噛み合わず、真実とは全く違う話になってしまうかもしれません。場合によっては、どこかのページと重なってしまい、見つけ辛いのかもしれません。

 それでも、ティアさんのおじいさんは、解れる記録を一つ残らず、大切に握り締めています。今もあなたのページを、一生懸命探しています」

「じゃあ……」


 ぽつりと、ティアは呟いた。


「おじいちゃんは、私のこと、忘れてないの……?」

「……えぇ」

「っ、本当に……っ?」

「えぇ」


 キアランは、ティアの目を見つめながら、僅かに頬を痙攣させた。


「そうでなければ、毎日ティアさんの姿を探してはいないと、自分は思います」


 ティアの喉から、細く高い音が鳴る。

 黄色い頭巾を目一杯引き下げて、曲がった唇を、強く、噛み締めた。


 縮こまる彼女からそっと目を逸らし、キアランはまた羽ペンを走らせる。


 通りの方からは、次のレースを待ち望む住民の声が、ざわめきとなって流れてくる。

 その騒々しさとペン先の擦れる音が、ベンチ裏の嗚咽をさり気なくかき消した。






「見ーっけたっ!」






 不意に、複数の足音が近付いてくる。

 聞き覚えのあるそれに、ティアは慌てて立ち上がった。


 しかし逃げ道を塞ぐように、トマトを抱えた少年が四人、周りを取り囲む。


 ティアは頭巾で顔を隠し、ベンチへ背中を押し付けた。

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