第六章 757年
1
レッドフォードのとある町では、アンズの花が咲く頃になると、毎年祭が行われている。
◆ ◆ ◆
露天通りから役所までの道を埋め尽くす住民。彼らは真ん中を開けるように左右へ並び、手にはそれぞれトマトを携えていた。
これから始まるレースを待ち焦がれているのか、誰もが笑みを浮かべ、スタート地点である露天通りの方向を見ていた。
その人込みの後ろを、杖を付いた老人が、ゆっくりと通り過ぎていく。
「ソニア、ソニア、どこに行ったんだ? おい、ソニア」
左足を引きずりながら、頻りに辺りを見回している。灰色の狐の耳を動かし、騒がしい中から目当ての声を探している。
「……あぁ、君」
老人は、近くにいた男へ声を掛けた。
「すまないが、私の妻を見なかったか? ソニアという、モルダーグレイ族の娘なんだが」
「え、ソニアさんかい? ソニアさんなら、えーと、あぁ、そうだ。さっき、あんたの家に戻っていったよ」
「家に? だが、先ほど戻った時には、ソニアはどこにもいなかった」
「じゃあ、すれ違っちまったのかもしれねぇな。ブランドンさん、もう一度戻ってみたらどうだい?」
「そうか……そうだな。もう一度戻ってみよう。ありがとう」
「いいっていいって。あぁ、なら、途中まで俺と一緒に行こう。丁度ブランドンさん家の近くに用事があったんだ。ついでだから、一緒に行こう。な」
「そうかい。なら、一緒に行こうか」
ぼんやりと微笑み、ブランドンは自分の家へ向かい歩き出した。
「そういやぁブランドンさん。クレアちゃんはどうしたんだい? 家にはいないのかい?」
「クレア……あぁ、クレアなら、今は公園へ遊びに行っているんだよ」
「じゃあ、家には今、誰もいないのかい?」
「いいや。家には今、家政婦さんがいらっしゃっているんだ。どうやらソニアが頼んだらしくてね。掃除や食事の支度を毎日してくれているんだ」
「そうかい。じゃあその家政婦さんにも、ソニアさんの居場所を聞いてみようか」
「そうだね……それがいい」
付き添う男を見上げ、おもむろに、集まった人々を振り返る。
「ソニアは、『ブラウン・ダン』が大好きだからね。きっと大はしゃぎで飛び出していってしまったんだろう。本当は自分も参加したいらしいんだが、私の足が悪いからといつも遠慮しているんだ。言ってくれれば、車くらい引いてやるのに。まぁ、そういう奥ゆかしいところも、彼女のいいところなんだけれど」
「なんだいブランドンさん、惚気かぁ? こいつはまいったね。何年経っても変わらず奥さんを愛しているだなんて、本当にあんたは夫の鑑だよ」
「……うん? 君は、何を言っているんだい?」
ブランドンは、不思議そうに灰色の尻尾を振る。
「私とソニアが結婚したのは、つい最近の話だよ?」
「え? ……あ、あぁ、そうだった。あぁ、いや、悪いねブランドンさん。俺は、あれだ。近所の別の夫婦と間違えちまったみたいだ。いやぁ、悪い悪い」
「そうかい。間違えてしまったのかい」
ぼんやりとした目を緩め、皺だらけの顔を更に皺苦茶にした。
不意に、観衆が湧き上がる。
見れば、露天通りの方から、手製の車を引いた男達が走ってきた。車には妻や恋人を乗せ、役所目指して我先にと突き進む。
そんな彼らへ向かい、周りの住民は一斉にトマトを投げ付けた。車や仮装用の茶色い服、地面、勢い余ったものは反対側の住民にもぶつかり、辺り一面を赤く染めていく。
「おぉ、始まったか。ブランドンさん見えるかい? ブラウン・ダンが始まったよ」
「あぁ、本当だ。始まったね……しかし、ソニアはどこへ行ったのだろう。一緒に見に行くと約束していたのに……」
ブランドンは、盛り上がる住民の背中を、ぼんやりと見渡した。
かと思えば、つと、自分に付き添う男を見やる。
「あぁ、君。すまないが、私の妻を見なかったかい? ソニアという、モルダーグレイ族の娘なんだが」
「それなら、ブランドンさん。さっき、あんたの家に戻っていったよ」
「家に? だが、先ほど戻った時には、ソニアはどこにもいなかった」
「すれ違っちまったんだろうな。さぁ、一緒に行ってみよう」
「そうか……そうだね。じゃあ、一緒に行ってみようか」
ブランドンは視線を宙に彷徨わせてから、自分の家の方角を向いた。付き添う男はブランドンの足を気遣いながら、ゆっくりと人込みの後ろを通っていく。
すると前方から、トマトを抱えた少年が四人走ってくる。
男はブランドンを庇うように端へ寄せ、すれ違う子供達に声を掛けた。
「おいお前らっ、周りには気を付けろよっ! 誰かにぶつかるんじゃないぞっ!」
「分かってるよ、おっちゃんっ!」
先頭を行く少年が、振り向き様に大声で答える。
だがその直後、公園から出てきた女性とぶつかりそうになり、慌てて身を翻していた。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
男は頭をかき、ブランドンを送る為、彼らとは反対方向へと歩いていった。
「あっぶねぇ。危うくおっちゃんに怒られるところだったぜ」
少年は、悪びれもなく笑う。周りの少年達も、からかい混じりに笑った。
「しっかし見つかんねぇなぁ。どこ行ったんだよあいつ。さっきまでこの辺にいたのになぁ」
トマトを抱え直し、彼らは辺りを見回した。目当ての人物は、いないようだ。
「ま、まだ遠くには行ってねぇだろ。皆、今度はあっちの方を探すぞ。早く『ソニア』を見つけようぜ」
更に笑い声を上げ、少年達は役所へ続く通りを走っていく。
その様子を、公園のベンチから、一人の男が窺っていた。
色の白い、無表情な若い男だった。
真っ黒なローブを身に纏い、ベンチの上に両足を乗せて腰掛けている。揃えた膝の上には黒い表紙の本を置き、羽ペンで淀みなく何かを書き込んでいた。
「……行きましたよ」
男がそう呟くと、数拍間を置いてから、彼の背後で何かが動く。
女の子が、ベンチの後ろからおずおずと顔を覗かせた。黄色い頭巾を被っており、その隙間からは、灰色の髪と耳が見え隠れしている。
彼女は警戒するように周りを確認し、ふと、安堵の息を零した。
「ありがとう、お兄さん」
「いえ」
男は本から目を逸らさず、ひたすら羽ペンを動かした。
「……何をしてるの?」
女の子は、後ろから男の手元を覗き込む。そこには見たこともない、不思議な形のものが羅列していた。
でたらめ文字だ。
こんな大きなお兄さんが、自分と同じような遊びをしているのだと、彼女は少し楽しくなった。
しかし、男からの返事は、期待していたものとは少々違った。
「あなたの記録を取っているのです」
「……私の?」
「えぇ」
「なんで?」
「あなたの来世を決める際に使うからです」
「『らいせ』? 『らいせ』って何?」
「今生を終え、次に生きていく場所のことです。自分は、あなたがこの世に生まれ、死ぬまでの間をどのようにして過ごしてきたのかを書き留めています。その記録を参考に、選定員が転生先を割り振るのです」
男にそう説明されても、難しい言葉ばかりでよく分からなかった。
なので適当に、ふーん、と相槌を打ち、男の顔を覗き込む。
「あのね、お兄さん。私、ティアっていうの」
「存じています」
「うん? 『ぞんじています』って何?」
「……あなたがティアさんだということは、知っています、という意味です」
「え、本当? お兄さん、私がティアだって知ってるの?」
「えぇ」
はっきりと肯定され、ティアの尻尾は、スカートの中で嬉しそうに揺れ動いた。
「お兄さんは、なんていうお名前なの?」
「……少々お待ち下さい」
「え? 『しょうしょう』さんっていうの?」
「…………いいえ、違います」
「え、違うの? じゃあ、本当はなんていうお名前?」
「……ちょっと、待っていて下さいね」
男は言い直してから、黒い表紙の本を捲った。一番後ろのページに書かれたでたらめ文字を、上から順に黙読し始める。
「ねぇお兄さーん。まだー?」
ベンチの背もたれを掴み、ティアは体を前後に揺する。
「……お待たせしました。自分は、キアランといいます」
一つ瞬きをして、男は無表情にそう名乗った。
「キアランさん? お兄さん、キアランさんって言うの?」
「えぇ」
「へーそうなんだ。こんにちは、キアランさん」
「こんにちは、ティアさん」
キアランはティアに目もくれず、また羽ペンを動かしていく。
量産されるでたらめ文字を、ティアは後ろから興味津々に眺めた。
「ねぇキアランさん」
「はい、何でしょう、ティアさん?」
「えへへ。キアランさんは、向こうに混じらないの?」
ティアは、小さな指を祭に熱中する住民へと向ける。
「えぇ。自分は仕事中ですので」
「そうなんだ。一緒だね。私も混じらないの。だって、あんまり好きじゃないから」
子供特有の柔らかな頬を、更にふっくらと膨らませた。
「お祭りがある度にね、皆が私をからかってくるの。『灰色の奴だ』って。ダンを追い掛けたのはモルダーグレイ族じゃないって知ってる癖に、私を見ると笑いながら逃げていくのよ。今日なんか、ジェイ達がトマトを投げてきたんだから。止めてって言っても聞いてくれないの。毎年そう。だから私、ブラウン・ダンはあんまり好きじゃない」
地面をつま先で突き、ティアは不満を吐いていく。
しかしすぐに顔を上げ、目を輝かせた。
「でもね、私ダンは好きなの。キアランさん知ってる? スコットブラウン族のダン」
「えぇ、存じて……知っていますよ。ティアさん」
「ダンって凄いよね。お嬢さんを守る為に、あんなに大きなお役所の門を飛び越えちゃったんだもん。友達のスコットブラウン族の子もね、『そんなに高く飛ぶだなんて、大人でも難しい』って言ってたんだ。だからダンは、きっと軍人さんみたいに『ちゅうせいしん』が厚くて、凄く強い人だったんだと思うの。ホワイトリー族だってそう。『ぎゆうしん』を持つ、凄い一族なのよ」
自分の推理を自慢げに披露していくティア。キアランはそれに、合っているとも間違っているとも言わず、頷きだけを返した。
同意を得たと思ったティアは、ご機嫌に狐の耳を揺らす。
だが、何かに気付いたらしく、慌ててベンチの陰へ身を隠した。
「――ソニア、ソニア、どこに行ったんだ? おい、ソニア」
杖を付いたブランドンが、公園の前をゆっくりと通っていく。
彼の隣には、灰色の狐の耳と尻尾を持つ女性がいた。共に探している、というよりは、ブランドンに付き添っているという雰囲気である。
「可笑しいな。あんなにブラウン・ダンを楽しみにしていたのに。一体どこへ行ったんだ。おい、ソニア」
「お父さん。あんまり急ぐと転んじゃうわよ」
「だが家政婦さん、今日は朝からずっとソニアが見当たらないんだ。昨日の夜、一緒に見に行くと約束したのに」
「きっと我慢出来なかったのよ。ほら、お母さんって思い立ったらすぐに動き出しちゃうから」
「あぁ……そうだね。ソニアはいつもそうだ。この前だって、クレアに私の働く姿を見せてやりたいと言って、突然役所へ押し掛けてきたんだ。あれは驚いたなぁ」
「あったわねぇ、そんなことも。私も驚いたわ。いきなり抱えられたと思ったら、役所の中にずんずん入っていくんだもの。それで扉を開けたら、お父さんがポカーンとした顔で私達を見ていて。紅茶を零しているのにも気付かないから、笑っちゃったわ」
ブランドンは緩やかに相槌を打ち、つと、目を瞬かせる。
「……うん? 何故君が、そのことを知っているんだい?」
ぼんやりとした顔で、ブランドンは隣の女性を見た。
彼女は静かに微笑み、ブランドンと共に公園を通り過ぎていく。
「……行った?」
「えぇ。行きましたよ」
キアランがそう答えれば、ティアは黄色い頭巾から手を離し、そっと息を吐き出した。そのまま地べたに座り込む。ベンチに背を向け、小さく蹲った。
公園の外からは、歓声が湧き上がる。
第二レースが始まったらしく、仮装した男達が、女を乗せた車を引いて通りを走り抜けていく。左右から投げられたトマトが、弧を描いて宙を舞った。
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