第五章 698年
1
レッドフォード城の最奥には、殆んど人の寄り付かない離宮がある。
◆ ◆ ◆
夜明け前にも関わらず、王妃の寝室には何人もの気配が集まっていた。
その真ん中で、クラリッサは力なくベッドへ横たわっている。目を瞑り、己の顔色を美しい白い髪よりも更に白く染めていた。
「ごほっ、ごほっ、ぐぅ……っ」
咳き込んだ拍子に、血が吐き出される。
ベッドのすぐ傍に座っていたクラリッサの弟――ピートは身を乗り出し、赤の滲む口元を布で拭ってやった。
「ふぅ、ふぅ……ありがとうね、ピート」
クラリッサは、薄っすらと瞼を持ち上げる。
彼女の瞳は、ピートの方を向いてはいるも、ピートを映してはいなかった。
「姉上……」
光を感じることしか出来なくなった姉の目を、ピートは見つめ返す。まだ幼さの残る顔を歪ませ、自身の狼の耳を項垂れさせた。
周りでは、二人と同じホワイトリー族の侍女が数名、悲痛な面持ちで動いている。ある者は血の付いた布を洗い、またある者は、少しでも楽になるようクラリッサの背中を擦った。その他の者も、出来る限りの手を尽くしていく。
だが次第にやれることも減っていき、遂には見守るしか、することがなくなってしまった。
沈痛な雰囲気が、王妃の部屋としては狭く質素な空間に、重く、広がっていく。
つと、狼の耳が二つの足音を拾った。
徐々に大きくなっていく自信に満ち溢れた足取り。その規則正しい音を、ピートは苦々しい想いで聞いていた。
ノックもなしに、部屋の扉が開く。
入ってきたのは、レッドフォード国、第五代国王、ジェラルド・レッドフォードと、その右腕のカラム・ダン・ガーネットである。
国の中心人物の登場に、侍女達は一斉に頭を垂れ、部屋の隅まで下がった。ピートも立ち上がり、頭を垂れる。
「姉上。陛下がいらっしゃいましたよ」
「へ、陛下……」
クラリッサはベッドへ手を付き、やせ細った腕に力を入れる。
起き上がろうとしている彼女に、ピートは素早く手を貸した。
「よい」
一言、素っ気なく言い放ち、ジェラルドはクラリッサの動きを制した。
ありがとうございます、と小さく礼を述べ、クラリッサは呼吸に合わせて全身の力を抜く。そのまま静かに二・三胸を動かしてから、ふと、見えぬ瞳で辺りを見回した。
「……皆。少しの間、陛下と、二人きりにして貰えないかしら……?」
彼女の願いに、侍女達は粛々と退室する。
「ピート。あなたも」
「ですが、姉上」
「ね……お願い」
こけた頬を緩ませるクラリッサに、ピートは眉を寄せ、渋々ベッドの横から離れた。
ジェラルドと擦れ違う際、会釈に隠れて、彼を睨み付ける。しかしジェラルドは気にする様子もなく、病床に伏せる己の妻を眺めた。
「……カラム。お前も下がっていろ」
「はっ」
カラムは一つ頭を下げ、きびきびとした足付きで部屋を出ていく。
扉の閉まる音が、薄暗い中に小さく響いた。
配下の者達がいなくなったところで、ジェラルドはおもむろに動き出した。クラリッサのベッドへ近付き、先ほどまでピートが座っていた椅子へ腰掛ける。
「陛下……お休みのところ、このような場所へお呼び立てしてしまい、誠に、申し訳ございません……」
クラリッサは、ジェラルドがいるであろう方を向き、虚空を見つめた。
焦点の合っていない視線を、ジェラルドは見返す。
「……よい。して、用とはなんだ」
「はい……陛下。図々しいと思われるかもしれませんが、折りいって、お願いがございます」
緊張しているのか、指を丸め、毛布を僅かに握り込む。
「どうか、お願いでございます……我ら一族に、慈悲を、お与え下さい」
盲いた瞳に、つと意志が宿った。
「我らは、この国に盾付こうなどと思ってはおりません……今も昔も、この国の民を想い、慈しみ、家族のように大切な、尊い存在と思っております。決して裏切りは致しません。例え、私という捕虜がいなくとも、今までと変わらぬ働きをし、今までと変わらず、この国の民を守り続けるでしょう……。
ですから、どうか、お願いでございます。もし、私がいなくなったとしても、我ら一族に、今までと変わらぬ生活と、待遇を、未来永劫約束しては頂けませんか……?」
クラリッサは懸命に言い募る。弱った体を微かに持ち上げ、ジェラルドに擦り寄った。
そんな妻を、ジェラルドは静かに見下ろす。
「未来永劫とは、また大きく出たな」
感情の見えない声に、クラリッサの緊張は、増す。
「お前は、人の心が未来永劫変わらぬと思っているのか? 数年後、数十年後、数百年後。お前達ホワイトリー族が、この国に盾付こうなどと思わず、この国の民を想い、慈しみ、家族のように大切な、尊い存在と思っており、決して裏切りはせず、例えお前という捕虜がいなくなったとしても、今までと変わらぬ働きをし、今までと変わらず、この国の民を守り続けるという保証は、あるのか?」
「…………い、いいえ」
「では、未来永劫など約束は出来ぬ。また脅迫しようなどと考えられては敵わんからな」
「っ、私達はっ、なにも脅迫など……っ」
「カラムの祖母を誘拐しようとしたのは、一体どこの誰だったかな?」
嘲笑うかのような鼻息に、クラリッサは唇を噛み締めた。悲しげに耳を伏せ、それでも、諦めずにもう一度、口を開く。
「で、では……では、せめて、彼らが陛下に忠誠を誓っている間は、彼らが、民を慈しんでいる間は、どうか、彼らに慈悲を……どうか、お願いでございます……っ」
消え去りそうな声で、クラリッサは訴える。
ジェラルドは、何も答えない。
「っ、陛下……っ」
毛布を握り締め、映ってはいないジェラルドを、縋るように見上げ続ける。
美しい白い髪が、彼女の震えに合わせて、静かに揺れた。
「……いいだろう」
つと、ジェラルドが呟く。
待ち望んでいた言葉に、クラリッサの目と耳が、ゆっくりと生気を宿す。
「ほ、本当で、ございますか……?」
「ただし、条件がある」
ジェラルドは、膝の上で手を組んだ。
一つ瞬きをして、淡々と、口を開く。
「ピートを、私の養子に迎えたい」
息を飲む音が部屋に走り、白き毛並みが、一斉に逆立った。
「ピ……ピートを、で、ございますか……? それは、その、つまり」
「捕虜、ということだな」
悲鳴染みた音が、クラリッサの喉から絞り出される。
「へ、陛下……陛下、どうかお考え直し下さい。そんなことをせずとも、我らは決して――」
「拒否するならば、私も拒否しよう」
取り付く島もないジェラルドの態度に、彼女は押し黙ってしまった。
「さぁ、選ぶがいい。私は、どちらでも構わない」
そう言い捨て、ジェラルドは己の妻を見下ろした。
クラリッサは顔を一層白く染め、唇を戦慄かせている。
そこから何かが出てくる気配は、ない。
「答えないのか?」
その問いに反応したのは、沈黙と、狼の耳のみ。
「……ならば、本人に聞くとしようか」
ジェラルドは椅子を軋ませ、扉の方を振り返った。
すると、扉の横にある棚の陰から、ホワイトリー族の少年が一人、姿を現した。
聞き慣れた足音と匂いに、クラリッサは思わず呟く。
「……ピート……」
ピートは尻尾を立たせ、ジェラルドを睨みながら、もう一歩、足を進めた。
「聞いていたな」
「……はい」
「で、どうする?」
淡々と掛けられた問いに、ピートは拳を、固く握った。
「……お受けします」
「っ、ピート……ッ」
クラリッサは、咄嗟に起き上がろうと力を込める。
だがジェラルドに肩を押さえられてしまい、ベッドの上でもがくばかり。
「ピート、お願いっ。考え直してちょうだい……っ」
「いいえ、姉上。皆の平穏が約束されるのならば、僕は喜んでこの身を捧げます。姉上と同じように」
「……そんな……」
それ以上言葉は続かず、クラリッサの血の気と共に、全身の力が引いていった。
茫然とする彼女を一瞥し、ジェラルドは立ち上がる。ピートへと歩み寄り、まだ幼さの残る顔を、無感動に見下ろした。
「いいんだな?」
「……はい」
「そうか。ならば、私もお前達の願いを受け入れよう」
ジェラルドは踵を返し、窓の脇に置いてあるクラリッサの机へ向かった。椅子に座り、引き出しの中から紙と万年筆を取り出す。
「きちんと文章にしておいた方が、お互い安心出来るだろう」
「……えぇ、よろしくお願いします。きちんと書き留めておいて下さい。我ら一族の生活と待遇を保証すると」
「あぁ。そのためにお前が犠牲になると、きちんと書き留めておこう」
ペン先と紙の擦れる音が、薄暗い部屋に響き渡る。
それと同質の音が、更に二つ、重なった。
窓の下には、黒いローブを纏った男が、羽ペン片手にしゃがみ込んでいる。その隣では、黒いパンツスーツを着た細身の女が、壁に寄り掛かって佇んでいる。どちらも黒い表紙の本を抱えており、対象の動向を淀みなく書き留めていた。
彼らの姿を気にする者は、この場に一人も、存在しない。
「……姉上」
ピートは視線をクラリッサへ向け、彼女の傍までやってくる。椅子に座って手を握れば、ゆっくりと、握り返された。
「ピート……」
「はい」
「……ピート……ッ」
確かめるように撫でると、雫が一粒、クラリッサの目尻から零れる。
「ごめんなさい……っ」
後悔が、後から後から湧き上がる。
その姿を痛ましげに見つめつつ、ピートはクラリッサの手を撫で返した。
「姉上、大丈夫です。姉上の代わりに、きちんと皆を守ってみせます。ですから、何の心配もいりませんよ」
「私はっ、あなたも、守りたい……っ、ごほっ、ごほ……っ」
興奮したせいか、クラリッサはまた咳き込み、口元に赤を彩った。
ピートはそれを拭ってやり、宥めるように手の甲を擦る。
「今まで、十分守って頂きました。今度は、僕が姉上を守ります。大切な女性くらい、守らせて下さいよ。僕だって、男なんですからね」
手を滑らせる動きに合わせ、落ち着いた口調で語り掛けた。
クラリッサは鼻を啜り、時折咳を吐きながら、力なくピートの手を握り続ける。
「さぁ、少し休みましょう。こうも感情を高ぶらせては、お体に障ります」
ピートは乱れた毛布を掴み、彼女の肩へ丁寧に掛けてやった。
「ほら。姉上が眠るまで、こうやって手を握っていますから」
「…………ありがとう」
未だに濡れる睫毛を瞬かせ、クラリッサは、静かに微笑んだ。
ピートも笑みを浮かべ、枝のようになった手を、両手で優しく包み込む。
「……なんだか、変な感じね……昔は、私が握ってあげる側だったのに」
「そうですね。僕はいつも姉上に甘えていて、ここに来たばかりの頃は、毎夜手を繋いで貰っていました」
「……大きくなったわね」
しみじみと、息を吐き出す。
「えぇ、大きくなりましたよ。もう少しで、姉上と背の高さが同じになりそうです」
「まぁ、そうなの。少し前まで、私の腰くらいしかなかったのにね」
目を細めて、クラリッサは成長した弟の姿を想像した。
「本当に、大きくなったわ……」
確かめるように、ピートの手をなぞっていく。
その全く力の入っていない指先に、ピートは歪む顔をどうにか堪えた。
「……さぁ、姉上。そろそろ」
「そうね」
口元を緩め、クラリッサはジェラルドがいるであろう方向を見る。
「陛下……どうか我が一族を、よろしくお願い致します……」
「……あぁ」
ジェラルドは背を向けたまま、それだけ言った。
クラリッサには、それだけで十分だった。
見えぬ彼へ、見ていぬと知りながら、笑顔を向ける。
ほんの少しだけ、悲しみを含んだ笑みだった。
「……お休みなさい、ピート」
「えぇ……お休みなさい、姉上」
穏やかな声に促され、クラリッサは、瞼を閉じた。
部屋には、ペン先の擦れる音が三つ、忙しなく響いている。
やがてそれは、二つに減った。
黒いパンツスーツを着た女が動きを止め、視線を本からクラリッサへと移す。
しばし彼女を観察した後、おもむろに、本を閉じた。
途端、ピートが、新たな音を紡ぎ出す。
静寂の中を、ペン先の奏でる音と啜り泣く声が、木霊する。
「……逝ったか」
ジェラルドの呟きが、部屋に染み広がる。
事実確認のような、ただの感想のような言葉に、ピートの嗚咽は、僅かに大きくなった。
「……っ、何故……っ」
クラリッサの手に顔を埋め、ピートは鼻を啜る。
「何故、姉上に、あのようなことを……っ」
「あのような、とは?」
「っ、僕をっ、捕虜にするなどとですっ」
真っ白い前髪の間から、ジェラルドの背中を睨み付ける。
「姉上はもう、長くないと分かっていらっしゃったでしょうっ。ならば、最期くらい、心穏やかに見送って差し上げても良かったではありませんかっ。それなのに、あんな、追い詰めるようなことを……っ。これではっ、姉上が報われない……っ!」
歯を噛み締め、込み上げる想いを涙に変えた。
震える吐息に気付きつつ、ジェラルドは、手を動かし続ける。
「私は、『あれ』と誓った。決して嘘を吐かぬと。あれも、私に誓った。だから私は、私なりに、あれと誠実に向き合ったつもりだ」
「……それこそ、嘘ではありませんか」
憎々しげな声に、万年筆の動きが、止まった。
「僕が知らないとでも思っていたのですか?
あなたは夜になると、姉上の寝室へ足を運び、姉上の寝顔を見つめていらっしゃいましたね。
姉上が庭で散歩を楽しんでいると、執務室の窓からその様子を眺めていらっしゃいましたね。
召使いや食事係には、姉上が不自由しないよう、こと細かな指示を出していらっしゃいましたし、僕でも気付かないような僅かな変化を察し、誰よりも早く姉上を気遣っていらっしゃいました。そしてそのどれもを、姉上に悟られないようにしていらっしゃいましたね。
これのどこが、誠実なのですか?
王妃という名の捕虜だと、ずっと苦しんでいらした姉上には一度も手を差し伸べず、その癖裏では様々な手を回し、姉上の心労を減らす為に、こんなっ、離宮まで用意して……っ。
一体、どういうつもりなのですかっ。何故っ、姉上を突き放したのですかっ。何故っ、一言っ、言葉にして差し上げなかったのですかっ。そうしたらっ、姉上だってもっと……っ、もっと自信を持ってっ、あなたの隣に立てたのにぃ……っ」
口元を痙攣させ、ピートは固く目を瞑る。
ひきつけを起こす彼を、ジェラルドは肩越しにじっと見据える。
そして、また万年筆を奏で始めた。
「……あれは、そのようなこと、望んでなどいなかった」
ジェラルドは、静かに答える。
「あれはひたすら一族の無事を願い、祈っていた。それ以外は何一つ、望んでなどいなかった。
望まれてもいないのに、どうして手を差し伸べられようか。そんなことをしたら、あれは恐縮し、不安に駆られ、二度と悟られぬよう、更に笑みを張り付けるだろう。
そのようなこと、私も望んではいない。ならば静観し、あれが気を使わぬよう下手な理由を付け、無理矢理くれてやる他あるまい」
なんてことない風に語るジェラルドの背中を、ピートは納得のいかない想いで見つめた。
それからゆっくりと視線を下げ、横たわるクラリッサを見やる。
美しい寝顔を眺めたまま、迷うように、唇を揺らした。
「……姉上は、一族以外に、一つだけ、ささやかな願いがありましたよ」
口籠りながら、苦しげに囁く。
「勿論、決して口にはお出しになりませんでした。ですが、傍で見ていた僕には、分かりました……」
一度口を噤み、静かに、解いた。
「僕が分かったくらいなのですから、あなたも、本当は気付いていたのではありませんか……?」
ほんの僅かだけ、万年筆のリズムが、崩れる。
しかし、ジェラルドの顔は、崩れない。
「……口に出さぬのであれば、それはないも同然だろう」
淡々と紡がれた言葉に、ピートの喉が、引き攣った。
「っ、そうでしょうか。例え口に出さずとも、想いは確かに、ここにあると、僕は思います」
まだ温もりが残る手の甲を、優しく擦る。
「あなたの中にも、確かにあると、僕は思っています……っ。だからこそ、今、とてもっ、悲しいです……っ!」
姉の最期の笑顔を思い出し、ピートは胸に渦巻く感情を、目頭から溢れさせた。
彼の嗚咽が、殊更大きく響き鳴る。
夜明けが近いのか、辺りはほんのりと明るくなっていく。窓からは、白み始めた空が顔を覗かせていた。どこからともなく仕事をこなす召使いの声が聞こえ、世界は、いつもと変わらぬ一日を始めようとしている。
不意に、万年筆の音が、止んだ。
ジェラルドは紙を持ち上げ、上から順に黙読していく。最後まで読み終えると、一番下に自分のサインを入れ、立ち上がった。
「ピート」
ベッドの傍までやってきて、俯くピートへ紙を差し出す。
「これをカラムへ渡してこい」
「……はい」
ピートは項垂れたまま紙を受け取り、部屋を出ていく。
まだまだ小さい背中と重い足音を見送ると、ジェラルドはクラリッサを見た。美しい白い髪が僅かな光を反射して、彼女の白い顔を浮かび上がらせている。
ジェラルドは、導かれるようにベッドの端へ腰掛けた。静かに眠るクラリッサの髪を、ぎこちない手付きで、優しく梳く。
二度、三度と確かめるように指を動かし、狼の耳も手の甲で撫で下ろす。
そのまま滑らせていき、頬で、止まった。
「……お前の想いは、ここにあるのか?」
羽ペンの擦れる音に紛れ、小さく囁く。
問い掛けられたクラリッサの代わりに、無音が、返事を返した。
ジェラルドは自分の発言に失笑し、腕を更に下ろしていく。
クラリッサの枕の下へ手を入れ、そこから小さな瓶を取り出した。窓から入ってくる僅かな光にかざし、中の液体を揺らす。
「……お前の想いは、きっとここにあるのだろうな」
おもむろに、栓を抜いた。
「私の想いも、きっとここにあるのだろう」
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてくる。己の右腕のものであろうそれに、ジェラルドは微かに口角を持ち上げた。
そして、瓶を呷る。
彼の喉が上下したと同時に、外側から扉が弾け開いた。
「陛下っ!」
血相を変えたカラムが、勢い良く入ってくる。
ジェラルドは瓶から口を離すと、扉の方を振り返った。己の右腕の手には、先ほどピートに持たせた紙が握り込まれている。眦をきつく吊り上げている辺り、内容はもう確認したのだろう。
視線を、カラムの後ろに立つピートへ移す。
彼は困惑したように耳を伏せ、ベッドに座る自分を凝視していた。
その姿がクラリッサと重なり、思わず、笑みが零れた。
直後。喉の奥から咳が込み上げ、弧を描いた口元に、赤が、滲む。
ジェラルドの体はゆっくりと傾き、倒れた。
「っ、誰かっ、誰か医者をっ!」
カラムの叫びに、この場は一気に騒然とする。集まった侍女達が走り、嘆き、激しく出入りを繰り返す。
そんな中、ピートだけは、扉の隅で立ち尽くしていた。美しい白い毛を逆立て、顔を髪よりも白く染め上げている。
茫然と、クラリッサに寄り添うジェラルドを、見つめた。
朝日が、ささやかに入り込む。もう夜は明けたらしく、ほんの少しだけ頭を出した太陽が、窓の外から部屋を眺めていた。
つと、羽ペンの音が、止まる。
窓の下にしゃがんでいた男は視線を上げ、ジェラルドを見据える。瞼を閉じる彼をじっと観察し、一つ、瞬きをした。
羽ペンを栞代わりに本を閉じ、インク入れの蓋を閉める。それらを黒いローブの中へしまってから、おもむろに、立ち上がった。
男の動きを合図に、黒いパンツスーツを着た細身の女も歩き出す。互いに何も言わず、だが示し合わせたように部屋を出ていく。
二人の存在に気付く者は、誰一人、いなかった。
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