3
「……ホワイトリー族の皆様、お願ぇです。お願ぇですから、考え直しちゃくれやせんか?」
「考えた末の結論だ」
「そこをなんとか」
「簡単に揺らぐようならば、端からこんな真似などしてはいない」
「…………ですよねぇ……」
諦めたように息を吐き、ダンは舞い落ちるアンズの花びら越しに、白き狼達を見据えた。
彼らは少しずつ横へ広がり、ダンの逃げ場を消していく。
「……お嬢さん」
囁きと共に、回された腕を撫でる。
答えるように、抱き付く力が強まった。
ダンの口角が、ついとつり上がる。
「あっしは……あんたらのことが大好きですよ。今も、尊敬してやす。大切なもののために命張れる気高さは、眩しいくれぇにかっこいいや」
ホワイトリー族は、礼代わりに尻尾を揺らした。
「だから、ってわけでもねぇんですけど……」
ダンも尻尾を揺らし、重心を、前足にずらす。
「あっしも、ちょいとその精神って奴を、真似てみようかと思うんです、よっ、とぉっ!」
ダンは持っていたエイプリルの靴を、思い切り投げ付ける。
すぐさま前足を大きく曲げ、素早く身を翻した。
アンズの花びらをかき分けて、斜面目掛け、走り出す。
次いで、後ろからも駆け出す音が上がった。
「しっかり掴まってて下せぇよぉお嬢さんっ!」
全身を上下に揺すり、ダンは己の四肢を動かした。
腹を締め付ける力が増し、後ろ足を上げる度、エイプリルの体が跳ねる。痛みを堪えるような呻きが時折零れるも、彼女は歯を食い縛り、落ちないよう己の袖を握り込んだ。
長い斜面を、ダンは一気に上っていく。車引きで鍛えられた脚力を使い、足を緩めず、スピードも落とさず、髪と尻尾を靡かせて、空へ向かって突き進む。
「ウォォォーンッ!」
つと、横から雄叫びが聞こえた。
ホワイトリー族の男が、低い体勢で、ダンよりも鋭角に斜面を駆けてくる。
顎を引き、体当たりをするように飛び掛かってきた。
「っ、はぁっ!」
ダンは地面を力強く蹴り付け、前足を、上げた。
弧を描いて、白き狼の頭上を越えていく。
四肢を伸ばし、遠くへ、少しでも遠くへと、ダンは前のめりになった。
一気に、斜面の上まで到着する。
道を歩いていた人々は、突然飛び出してきたダンに驚いた。ある者は目を見開き、またある者は買ったばかりの野菜を落とし、高らかに蹄を鳴らすスコットブラウン族から逃げていった。
「すいやせん皆様っ! 退いて下せぇっ!」
そう叫びながら、ダンは町へ向かい走っていく。ちらと上げた視線の先には、他の建物よりも飛び出た屋根があった。
あそこまで行けば。
ダンは唇を引き締め、一層四肢を躍動させた。
「っ、ダンッ、後ろ……っ」
エイプリルが、しがみ付きながら振り返る。
ホワイトリー族の男達は、姿勢を下げたまま、目にも止まらぬ速さで足を回転させていた。その瞳はしかとダンを――彼の背に乗るエイプリルを捉え、徐々に、その距離を詰めてきている。
このままでは、捕まってしまう。
エイプリルの胸に恐怖が広がった。縋るように、ダンの背中へ張り付く。
「大丈夫ですっ、お嬢さんっ!」
ダンは叫ぶ。
「大丈夫ですからっ! 絶対っ、守りますからっ! ですから……っ」
エイプリルの腕を、叩く。
「ですからっ、絶対っ、離さねぇで下せぇ、ねっ!」
ダンは突如左へ曲がり、自分がギリギリ通れる細い路地へと入っていく。置いてあるゴミ箱や荷物を飛び越え、反対側に見える賑わいへ突き進んだ。
「うわぁっ!」
急に現れたダンと露天商がぶつかる。露天商は尻餅を付き、辺りには彼が運んでいたリンゴが散乱した。
「すいやせんっ! 後で謝りに行きやすからっ!」
リンゴを蹴飛ばし、ダンは買い物客に溢れる露天通りを駆けていく。周りは何事とばかりに振り向いては、凄い勢いでやってくるダンに慌てふためき、道の端へと避難した。
「すいやせんっ! 退いて下せぇっ! お願ぇですっ! すいやせんっ!」
「こらダンッ! てめぇ何やってんだっ!」
「すいやせんっ! 通して下せぇっ!」
「ちょ、あんた達っ!? 一体どうしたっていうのっ!?」
「道を開けて下せぇっ! お願ぇですっ!」
「わっ。な、なんだ、あの灰色の奴ら……っ?」
悲鳴と混乱が、通りに広がる。
いくつもの商品を踏み、いくつもの商品を倒し、いくつもの商品を壊していった。
その度に怒鳴られ、謝るも、ダンは足を止めない。険しい形相で息を切らし、ひたすら役所を目指した。
ふと、後ろを確認する。
後を追うホワイトリー族の男達は、ダンが蹴散らした商品に行く手を阻まれ、ほんの少しだけ、遠い場所にいた。しかも作戦が功を奏したのか、男の数は二人に減っている。
よし。
胸の締め付けが僅かに和らぎ、更に加速しようと、ダンは前へ顔を戻した。
「ウオォォォーンッ!」
不意に、頭に影が掛かる。
見上げれば、撒いたと思ったホワイトリー族の一人が、屋根の上から飛び降りたところだった。
着地点は、ダン。
「くぅ……っ!」
咄嗟に腕を振り上げ、殆んど使ったことのない拳を、相手目掛けて繰り出した。相手も、使い込まれたフォームで、ダン目掛けて己の拳を振り落とす。
しかし、その二つがぶつかる直前。
男の体に、横から飛んできた何かが衝突した。
見れば、八百屋の店主が、トマトのたっぷり入ったカゴを頭上に掲げている。
「くらえこの野郎ぉっ!」
厳めしい掛け声と共に、カゴごとダンの後方――白き狼達へ、思い切り投げ付ける。
それを皮きりに、通りの端から、ありとあらゆるものが宙を舞った。
大声も、飛び交う。
「てめぇっ、お嬢さんに何すんだっ!」
「そっち行ったぞっ! 道を開けてやれっ!」
「ダンちゃんっ、こっちよっ!」
「二人に近付くんじゃねぇっ!」
「誰かっ、駐在兵を呼んできてっ!」
その場にいる住民全てが、ダンとエイプリルを守ろうと動いた。
理由も分からず、恐らく相手が白き守護神だとも気付かず、ただただ二人を逃がそうとした。
ダンの細い目の隙間から、汗に似た液体が滲む。
お嬢さんは、町の皆様に愛されていらっしゃる。
自分も、皆様に、愛されている。
歯が震えて噛み合わないほど、胸が爆発しそうなほど、嬉しかった。
垂れる汗ごと顔を拭い、ダンは蹄の音を高鳴らせる。エイプリルの体を跳ね上がらせつつ、露天通りを右へ曲がった。
緩やかなカーブを描く道を、真っ直ぐに進む。
後ろからは喧噪が付いてきている。足音の数と声から、住民も追い掛けてきているらしい。
だがそれも、徐々に遠のいていった。
残った足音は、二つ。
ダンはちらと屋根の上を見た。自分の少し後ろ辺りで、灰色の陰が見え隠れしている。
上がる息と唾を飲み込み、四肢を目一杯躍動させた。
十字路を、左へ曲がる。
すると前方に、待ち焦がれていたものが見えてきた。
役所の門だ。
あと、もう少し。
もう少しだ。
上下の動きを荒くさせ、ダンは、速さだけに集中した。
エイプリルの体が、大きく浮き上がっては乱暴に落とされる。
ダンとぶつかる度、息を詰め、痛みを我慢する声が漏れた。
それでも、しがみ付く腕は、決して緩めない。
離れるものかと、己の腕に爪を立てた。
突撃してくるスコットブラウン族の登場に、門番をしていた駐在兵は驚いた。しかしすぐに身構え、持っていた剣を突き付ける。
「っ、突然の訪問っ、大変失礼致しやすっ!」
ダンは、必死の形相で吼えた。
「あっしはアンバー家の車引きでございやすっ! どうかっ、どうかエイプリル様をお助け下せぇっ!」
エイプリルの名に、門番は剣の切っ先をつとずらした。
見れば、スコットブラウン族の背には、確かに所長であるマーカス・ガーネットの婚約者が乗っている。
そしてその後ろに迫る、灰色の追手にも、気が付いた。
これはただ事ではない。そう判断した門番は、急いで剣を下げ、門の取っ手を掴んだ。片方の門が内側に、うっすらと開く。
ダンはその隙間目指し、全力で足を動かした。
もう息は上がり、心臓も可笑しいほどに鳴っている。頭の中は波打ち、視界も白く揺れていた。
これ以上走ったら、血管が千切れて死んでしまうかもしれない。そうは思うも、止まるわけにはいかなかった。
切れるなら切れろ。
死ぬなら死んでしまえ。
それで守れるなら、安いもんだ。
心の中でそう叫び、汗に塗れた全身を、精一杯前へ送り出す。
役所の門まで、残り三十歩ほど。門番が何か言っているが、ダンの耳には入ってこない。身ぶり手ぶりで何かを伝えているが、ダンの目には映っていない。
ダンの意識には、開いた門の先にある石畳しか、入ってこない。
もうすぐだと自分を鼓舞する声しか、聞こえてはこなかった。
そこへ無理矢理入り込んできた、灰色。
門とダンを裂くように、屋根の上から落ちてきた。
煤と泥以上に汚れた体が、重い音を立てて着地する。
灰色の髪の隙間から、揺るぎない覚悟を秘めた瞳が覗いた。
視線が、かち合う。
灰色は、門番が剣を構え直す暇も与えず、ダン目掛けて走り出す。低い姿勢で、勢い良く、握った拳を後ろへ引いた。
「……っ!」
殴られる。
そう思ったのは、ダンだけではなかった。
ダンにしがみ付く体も、可哀そうなほどに強張った。
小さな小さな声で、縋るように、彼の名を呼んだ。
守らなければ。
どんどん近付いてくる灰色を睨みながら、それだけを考えた。
そうしたら、ダンの体は、自ずと動いていた。
前足を深く曲げ、上半身は前へ、腕は後ろへ大きく振った。
それらを一気に伸ばし、力強く、地面を蹴った。
前足が上がり、次いで後ろ足も上がる。
遠くへ、己の限界まで遠くへ、ダンは、飛び上がった。
エイプリルを乗せたまま、男の頭上を越え、そして、門番の頭上も、越えた。
太陽と門が、徐々に迫ってくる。
ダンは前足を伸ばし、門の屋根を、更に蹴った。
目の前に、役所の最上階が広がる。
建物の中では、何人もの役人が動いていた。
その中の一人と、視線が交わる。
エイプリルの婚約者であるマーカスは、目と口を丸くして、ダンを見ていた。
彼はすぐさま立ち上がり、窓へ向かい駆け出した。
何かを、叫びながら。
「ぁ……っ!」
ダンの後ろ足が、門に引っ掛かる。
上半身だけが前に傾き、視線はマーカスから石畳へと一気に下がった。
「っ、きゃ……っ!」
同時に、後ろから悲鳴が上がる。
腹に回っていた温もりが、離れてしまった。
ダンは体を捻り、振り返る。
宙に浮かんだエイプリルが、ダンへ向かって手を伸ばしていた。
「お嬢さん……っ」
ダンも手を伸ばし、エイプリルを掴もうとする。
しかし、中々掴まえられない。
エイプリルの髪とスカートがはためき、オレンジ掛かった瞳は、恐怖に覆われていた。
ダンは一層体を捩り、仰向けの体勢となる。
僅かに掠った指を絡ませ、引き寄せて、エイプリルを抱き締めた。
己の体で包み込むように両腕を回し、そのまま、目を瞑った。
幹が折れたような音が、役所の敷地に、響き渡る。
「い、一体、何が……っ!?」
役所の中から、複数の足音がやってくる。
ダンは目をこじ開け、痛む首をそちらへ回す。
「お、お願ぇでございやす……っ。どうか、エイプリル様を、お守り下せぇ……っ。どうか、お願ぇで……っ、ぐ、ごほ……っ」
口から溢れた血に役人は悲鳴を上げ、すぐさま医者とマーカスを呼びに走り出した。
その背中を見送り、ダンは静かに息を吐いた。体の力も抜き、苦しさを紛らわすよう、出来るだけ深い呼吸を繰り返す。
門の方を向けば、開いた扉の隙間から、ホワイトリー族達が捕縛されているのが見えた。
ダンの視線に気づいた一人が、詫びるように目と耳を伏せる。
「…………お嬢、さん……大丈夫ですかい? お、お怪我は……?」
エイプリルはダンの胸に顔を埋めたまま、小さく首を振った。
「そうですか……そいつは良かった。頑張って走った甲斐が、あったってもんだ……っ、げほっ、げほ……っ」
石畳の上に、赤い花びらが散っていく。
「はぁー……いやぁ、しかし、今更こんなやんちゃをするだなんて、自分でもびっくりですよぉ。やろうと思えば、お役所の門も、飛び越えられるんですねぇ……いやぁ、びっくりびっくり」
笑い飛ばそうとして、痛みで失敗する。
呻きと咳を零すダンから、つと、エイプリルは離れた。
俯く彼女の表情を見るや、ダンの顔には、笑みが浮かんだ。
「いやぁ……楽しかったですねぇ、お嬢さん。
今まで色んな騒動を、お嬢さんと巻き起こしてきやしたが、今日ほど皆様を巻き込んだのは、初めてじゃあありやせんか? こんな風にお嬢さんと遊ぶのは、もう、終わりかーなんて、思っていやしたから、あっしは凄ぇ楽しかったですよぉ……いい思い出になりやした。皆様に愛される、お嬢さんの遊び相手を務められて、あっしは幸せ者です。この世で二番目に幸せな男ですよ。これから一生、この先ずっと、お嬢さんとの思い出を偉そうにひけらかして、周りに呆れられながら、幸せに、生きていけます。あっしはそうやって、図太く、生きていくんですよ。ですから……」
ダンは、更に口角を持ち上げる。
「ですから、泣かねぇで下せぇよ」
エイプリルは、返事をしなかった。
ただダンの手を握り締め、オレンジ掛かった瞳から涙を滴り落としていくだけ。
ダンも、それ以上は何も言わなかった。
ただエイプリルの手を擦り、彼女の分まで笑うだけ。
散歩日和な空に、嗚咽が静かに木霊する。
その様子を、二人の記録係が、門の上から書き留めていた。
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