2
散歩日和な天気の中、川のせせらぎと蹄の音がのどかに混ざり合う。
「そういやぁ昔、ここらで水遊びをしやしたよねぇ。ありゃあ確か、お嬢さんが堅琴のお稽古を始めたばかりの頃じゃありやせんでした?」
「……そうだったかしら」
「そうですよぉ。先生が厳しいって泣くもんだから、あっしはお嬢さんを元気付けようと、乳母様の目を盗んでこっそりここまでお連れしたんですよぉ」
ダンは前を向いたまま、歯を剥き出しにして笑った。
そんなダンを後ろから見つめて、エイプリルは、静かに口を開く。
「……そうしたら、屋敷では私が誘拐されたって大騒ぎになっていたのよね」
ほんの少しだけ混ざった笑みに、ダンの目は更に細くなった。
「そうですそうです。いやぁ、あれは驚きやした。お嬢さんと楽しく遊んでたら、突然駐在兵の方々に剣を突き付けられて、あれよあれよという間にお役人様の元まで連行されちまったんですから」
「私だって驚いたわ。お前がぐるぐる巻きにされて、止めてって言っているのに全然聞いてくれなくて、もう何がなんだか分からなかったわよ」
「いやぁ、あれは怖かったですねぇ。何が怖かったって、旦那様が一番怖かったですよぉ。奥様も泣きに泣き濡れて、そこで初めてことの次第を知ったもんだから、そりゃあもう申し訳なかったですよぉ」
「本当よね。流石の私も悪いことをしたと深く反省したものだわ」
笑い声と共に、背中の感触が、一つ増える。
「懐かしいわね、本当に……」
ダンに額を押し付けながら、エイプリルは目を瞑った。
寄り添う体温に、ダンの口も自然と閉じる。
苦しげに眉を寄せ、静かな時を過ごす。
アンズの花が舞い散る中、蹄の音を、穏やかに鳴らした。
「……あっ、お嬢さん、見て下せぇよ。お役所が見えやすよぉ」
ふと、明るい声を出す。
ダンの指差した先には、町の中心部から少しずれたところに建つ、他の建物よりも飛び出た屋根があった。
「いやぁ、いつ見てもデカいですねぇ。あんなとこに連れて行かれたなんて、今考えてもゾッとしやすよぉ。
あれだけの大きさなら、中もきっと広いんでしょうね。マーカス様はどの辺りにいるんでしょう? やっぱりあの一番高いとこですかねぇ? ほら、あのちょっと出っ張ってるとこなんか、偉いお人の居場所って感じがしやせんか?」
笑い飛ばす声が、一つだけ、響く。
「そういやぁ先日、旦那様のお使いで町に行った時の話なんですけどねぇ? 町じゃ今、沢山のお嬢さん方が嘆いているんですよぉ。何故かっていうと、あのマーカス様が、遂にご結婚なさるからなんですって。
ま、気持ちは分からなくはねぇですよね。だってマーカス様と言ったら、この町一番の歴史と権威を誇るガーネット家のご嫡男なんですもの。お父様はレッドフォード国国王の右腕を務めていらっしゃるし、ご本人も若干二十七歳にして所長を任される実力の持ち主ですよ。しかも真面目で、穏やかな方だって話じゃねぇですか。将来は次期国王を支えていくお立場にあるっていうのに、決して驕らず、あっし達民草のことを真剣に考えて下さっている。その上男前とくりゃあ、誰だってマーカス様のお嫁様を羨んじまうのはしょうがねぇってもんです。
でもね? 驚くことに、どなたもお嫁様を妬んではいねぇんですよ。どのお嬢さん方も、『エイプリルお嬢さんが羨ましい』って言うだけで、不満なんて湧いてこねぇんですって。うちのお嬢さんがお相手じゃあ、自分なんか足元にも及ばねぇって口を揃えて言うんですよ。
他の方々も、『あのお転婆さんがお嫁様になるだなんて……』てな感じで、もう我が子を見るような眼差しで喜んでいらっしゃいやしたよ。明日の式では、町を上げて祝福するからと張り切ってもいらっしゃいやした。
それを見て、あっしは嬉しかったですよぉ。あぁ、お嬢さんは皆様に愛されていらっしゃるんだなぁって、不覚にも感動して、うっかりお使いを忘れるとこでしたよぉ」
歯を剥き出しにして、ダンは、笑顔を崩さない。
「明日は、素晴らしい一日になること間違いなしですよ。お嬢さんは、この世で一番綺麗で、幸せな花嫁さんになるんです。そんでマーカス様に愛されて、お子様を沢山お産みになって、これから一生、この先ずっと、幸せに過ごしていくんですよ。お嬢さんは、この世で一番の幸せ者になるんです。ですから……」
笑顔のまま、つと、眉を垂らす。
「ですから、泣かねぇで下せぇよ」
エイプリルは、返事をしなかった。
ただ声を殺して、逞しい背中に縋り付くだけ。
ダンも、それ以上は何も言わなかった。
ただあやすように、体を優しく揺らすだけ。
エイプリルの足は、もう殆んど乾いていた。
けれど反対に、ダンの背中はどんどん濡れていく。
広がる冷たさが乾くまで。そう言い訳をして、ダンは蹄の音を鳴らし続けた。人目を避けるように、アンズの木の影を歩いていく。
ダンは顔を上げ、町の方向を眺めた。大分近付いたせいか、ここから見えなくとも活気と人気が増えたことは分かった。横の斜面の長さもかなり伸びている。
そろそろ引き返そうか。置いてきてしまった車のことも考え、ダンは尻尾と手に持った靴を揺らし、方向を転換した。
すると、見知らぬ男達と、目が合った。
みすぼらしい恰好の男が三人、いつの間にかアンズの木二本分離れた場所に――それほどの至近距離に、いた。隙のない空気をそれぞれ纏い、行く手を塞ぐように佇んでいる。泥で汚れた尻尾は立ち、灰色の狼の耳は、小さく揺れ動いた。
……いや。
あれは、『灰色』ではない。
煤に塗れているが、あれは元々、『白』な筈だ。
しかし、何故その色を持つ一族が、こんなところまでやってきたのだろう。
しかも、ただならぬ雰囲気で。
ダンは眉を顰め、すぐさま目と口を緩やかに曲げた。
「いやぁ、こんにちは、ホワイトリー族の皆様。皆様もお散歩ですかい? 今日はいい天気ですからねぇ。ちょいと遠出したくなる気持ちも分かりやすよぉ。
あっしも昔は天気がいいと、調子に乗って隣村までよく走ったもんでねぇ。そんな感じで、皆様も国境の辺りからここまでザザッと駆けてきちまったんですかい? いやぁ、そいつは凄ぇ脚力だ。あっしにゃ到底真似出来ねぇ」
極々軽い口調で、目の前の白き狼達に話し掛ける。
「ですが、今からじゃあ帰るのも大変でしょう? ここいらで宿でも取って、明日以降ゆっくり帰ったらどうですかねぇ。あ、でも明日は偶然にも、町を上げての結婚式があるんです。もし急いでなけりゃ、是非そいつに参加してって下せぇ。うちのお嬢さんがその主役なんですが、これがまた綺麗でねぇ。
あ、もしかして皆様、散歩じゃなくてお嬢さんを祝いにきてくれたんですかい? いやぁ、そいつは嬉しいねぇ。わざわざレッドフォードの端からやってきてくださるだなんて、ありがたいことですよぉ。こいつは何かお礼をしなけりゃいけやせんねぇ。
あぁ、そうだ。なら皆様の泊まる宿を、あっしの方で手配致しやしょう。いや、遠慮なんかしねぇで下せぇ。ほんの気持ちって奴ですよぉ。お代も結構。あっしの感謝を、是非受け取ってやって下せぇ。
そうと決まれば、早速町へ行かねぇと。急がなきゃ部屋が埋まっちまう。そういうわけで、ホワイトリー族の皆様。あっしらはお先に失礼させて頂きますね」
ダンは何度も頭を下げ、二歩ほど足を進めた。
それを阻止すべく、三人が横へずれる。
「……エイプリル・アンバーだな」
真ん中の男が、一歩、前へ出た。ダンの肩越しに、オレンジ掛かった瞳を見据える。
「我々と、共にきて貰いたい」
「生憎ですが、お嬢さんはこれから明日の打ち合わせに向かわなけりゃなりやせん。また日を改めて下せぇ」
庇うように腕を後ろへ回し、ダンは、笑う。
背中の感触が、つと強くなった。
「我々は、決して危害を加えるつもりはない。ただ、共にきて貰いたいだけだ」
「先ほども言いやしたが、お嬢さんは明日結婚式を挙げるんです。大事なお体なんですよぉ。例え危害を加えなかろうと、見ず知らずの方に託すわけにゃあいきやせん」
「ことが終わればすぐに解放する。心配ならば、お前もついてきて構わない」
「申し訳ありやせんが、お断りさせて頂きやす。理由も言わずに連れていこうとする相手の言うことなんて、あっしは信じられやせんので」
ダンは、男達を真っ直ぐ見据える。
「それが例え、この国を守る『白き守護神』の言葉だったとしてもねぇ」
はっきりとした拒絶に、汚れた白い毛がほんのり逆立つ。
僅かに険しくなった空気に、ダンの米神から、汗が伝う。
だがダンは口角を上げたまま、ホワイトリー族から目を逸らさない。
相手も、ダンから目を離さない。時折地面をかく前足の動きにも警戒し、決して逃がさないと、全身で語った。
薄ピンクの花の中で、睨み合いが続く。
「……お前、スコットブラウン族だな」
ふと、真ん中にいる男が、口を開いた。
「元々は、我らの住む村の傍を拠点としていただろう」
「……へぇ、そうでございやす。あっしがまだヨタヨタ歩いている時分に、家族揃ってこの町へ移住してきやして」
「ならば、あの場所がどんなところか、知っているな」
ダンは、一旦口を閉じる。ほんの少し口角を下げ、そして、静かに肯定した。
「あっしも小さかったもんですから、どんな景色だったとか、どんな住処だったとか、そういったことは覚えちゃいやせん。ですが、常に恐怖と緊張が付き纏うあの嫌な感覚は、はっきりと覚えていやすよ」
「そうか……では、我らの目的も、自ずと見当がつくだろう?」
「……いやぁ。あっしは学がねぇもんですから、とんと分かりゃしやせんよぉ」
ですが、と続け、前足で地面を叩く。
「お嬢さんを巻き込もうとしてるってことは、存分に理解しやした」
細い目がうっすら開き、白き狼達を、鋭く睨み付けた。
彼の纏う空気が、尖る。その変化に、三人の男はより一層警戒した。エイプリルも、体を強張らせる。
緊迫が、沈殿していく。
「……もう一度言うが、我々は、決して危害を加えるつもりはない」
ホワイトリー族の男は、静かに唇を動かす。
「我々はただ、王に話を聞いて頂きたいだけなのだ」
真っ向から、ダンと対峙する。
「我らの住まうあの場所は、国境から一番近く、ブルーム国の攻撃を真っ先に受ける、いわば最前線だ。我らはそこで敵を食い止め、他の一族を守りながら軍の応援を待つという、大変名誉ある任務を国王より賜っている。
それは、我らの誇りである。
それは、今も変わりはしない。
だが、それにも限界というものがあるのだ。
ブルーム国軍は今、確実に勢力を増している。軍だけではない。人攫いや盗賊も国境へ現れる。そして我々や他の一族を攫っては、どこぞへと売ってしまうのだ。
そういった輩を追い返すには、もう我らの力だけでは足りないのだ。
敵は多く、ありとあらゆる手段を用いてくる。年々被害は増え、このままではあの一帯に住む者全てが、悲惨な一生を送る羽目になってしまう。
それだけは……それだけは、なんとしても阻止したいのだ。
救えるかもしれぬ命を、見過ごしなどしたくはないのだ。
勿論、今でも国から兵が派遣され、手を貸してはくださっている。我らの力を信頼なさっているからこそ、他の場所を先に取り締まっていることも、重々承知している。
しかし、このまま後回しにされ続けていればどうなるか、答えはもう、眼前まで迫っているのだ。
我々はフィップ殿に出会うまで、この白き毛を狙う輩から必死で逃げてきた。煤や泥で色を変え、人攫いの目をどうにか欺いてきた。あの方と出会い、革命に参加し、国が変わったことでようやく、ようやく、白でいられるようになったのだ。
その恩を、我らは決して忘れない。忘れないからこそ、辛くとも、この国の民を守り続けることが出来たのだ。
その心を、曇らせたくはないのだ。
守ってきた者に裏切られたなどと、思いたくはないのだ。
訴えれば分かって頂けると、民の声を決して漏らさぬ名君なのだと、信じていたいのだ」
ホワイトリー族の男は拳を握り締め、破裂しそうな想いを押し殺し、語る。他の二人も厳めしい顔で、煤で汚れた毛を緩やかに逆立てていた。
そんな彼らを見つめ、ダンは、笑みを消す。
「……信じてたいってんなら、ちゃんと手順を踏んで、真っ向から謁見なさった方がいいんじゃねぇですかい」
首を傾げ、至極冷静な声で、続ける。
「だってそうでしょう? あんたらがやろうとしてることは、要は人質取って王様を脅しに行くんですもの。そんなことされて、王様は本当に自分を信じてくれてるだなんて思いやすかねぇ?」
「……思わないだろうな」
「あっしもそう思いやす。それどころか、白き守護神の名を貶める結果になると思いやすよ」
「……私も、お前の言う通りだと思う」
「分かってんなら、止めちまいやしょうよ。そんで手順通り謁見を願い出て、直接訴えやしょう。今のあんた達を見たら、王様だってただごとじゃないって分かってくれやす」
と、ダンは唐突に眉を持ち上げ、手を叩いた。
「そうだ。なんならマーカス様を通じて、お父様に口添えして貰いやしょうよ。ね。これも何かの縁だ。ここにいるお嬢さんからマーカス様へ、マーカス様からお父様へ、そしてお父様から王様へってね。どうです。王の右腕様からの進言なら、確実に手厚い保護を見込めるじゃありやせんか。あ、あっしが勝手に決めちまいやしたけど、いいですかい、お嬢さん?」
「え、えぇ。寧ろ賛成よ。どこまで出来るか分からないけれど、決してあなた方の不利にならないよう、誠心誠意、お話をさせて頂くわ」
ダンの肩から顔を出し、エイプリルも懸命に説得する。
「ほぉら、お嬢さんもこう言ってくださっていやす。頼もしい味方が出来やしたよ。これで準備は整いやした。後は一刻も早くお役所へ向かい、お嬢さんはマーカス様の元へ、あんた方は謁見の申請をしに行くだけで――」
「そうして……」
ホワイトリー族の男は、つと口を歪めた。
「そうしてお前の言う通り申請をし、そこの令嬢が口添えし、右腕から王へ伝わり、我らの訴えに耳を傾けてくださり、新たに兵を派遣して頂けたとして……」
拳を、震えるほど握り込む。
「それは、一体いつの話になるのだ」
全身の毛という毛を、大きく膨れ上がらせた。
「今から申請したとしても、許可が下りるまで早くても五日は掛かる。しかも明日は、右腕の息子の結婚式がある。当然役所の者も出席し、業務は一時滞るだろう。そうして更に謁見は遅れ、ようやく叶ったとしても、今度は王との話し合いが始まり、他の派遣先との兼ね合いを考えなければならない。どれだけ兵を送れるか、下手をすればそれだけで数日掛かってしまうかもしれん。例え一日で振り分けが決まり、すぐさま出発したとしても、城から国境まで一体どれほどの距離があると思っているのだ。我らの足でも四日掛かるのだぞ。兵達では、最低でも六日間走らなければならない。
そこまで待っていられるほど、我らに時間など、もうない」
歴戦の兵が持つ気迫で、ダンと、エイプリルを、睨み付ける。
後ろに控える二人の男も、それぞれ激情を堪えるかのように、歯を食い縛った。
「……っ、だ、だからって……」
ダンの喉が、大きく上下する。
「だからって、人攫いと同じ真似をしちゃあいかんでしょう。そんなことして兵を借りたところで、結局は国境まで六日以上掛かっちまうじゃねぇですか」
「それでも、手順を守るよりは期間を短縮出来る」
「逆賊として捕えられるかもしれやせんよ? 今までの功績だって、全部水の泡になるかもしれねぇ。最悪、粛清ってことも考えられる」
「……そうだな」
「っ、分かってんなら、どうか考え直して下せぇよ。あっしらの憧れである白き守護神を、蛮族にしねぇで下せぇよ。いつまでも誇り高くてかっこいい、この国の英雄でいて下せぇよ」
眉を下げ、ダンは思うままに口を動かした。
ホワイトリー族の男は、静かに瞼を閉じる。
「……では聞くが、もしそこの令嬢の命が危うくなった時、己の全てを投げ出せば助けられるとしたら、お前はどうする?」
落ち着いた声色で、問い掛けられる。
ダンは、咄嗟に答えられなかった。
答えなんて決まっていたから、答えられなかった。
訪れた無言に、男の口が穏やかな弧を描く。
「……そういうことだ」
つと目を開け、視線を上げた。
全てを投げ出す覚悟を携えた眼差しで、ダンを突き刺す。
「さぁ、我々と共にきて貰おう」
男達は一歩、足を踏み出した。
その分、ダンは後ずさる。
もう一歩、詰められる距離。
少しでも離れようとする四肢。
少しでも離れまいとする、腕。
巻き付くように、ダンの腹へと回される。背中には、一層強く温もりが押し付けられた。
感じる強張りと吐息に、ダンの米神を、一筋の汗が流れ落ちる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます