第四章 618年


 燃ゆる正義の国・レッドフォードのとある町では、明日、盛大な結婚式が行われる。




     ◆     ◆     ◆




 城下町よりはのどかで、田舎というには些か整えられた道に、車輪と蹄の音がのんびりと鳴り広がった。右側の斜面の下には小川があり、町の中心部まで長く続いている。


 前面が開いた二人乗りの車を引くのは、ダンというスコットブラウン族の若い男だった。座席と繋がった梶棒を両手で握り、己の逞しい馬の足を規則正しく進めていく。

 首に掛けた布で汗を拭い、眩しそうに空を見上げた。


「いやぁ、いい天気ですねぇお嬢さん。絶好の散歩日和ですよぉ」


 元々細い目を更に細め、ダンは後ろを振り返る。

 すると、エイプリルのオレンジ掛かった瞳とかち合った。


「そうね。確かに凄くいい天気だわ」

「そうでしょうそうでしょう。なんせあっしが神様に、そりゃあもう念を込めて祈りやしたからねぇ。『今日明日は、何がなんでも晴らして下せぇっ!』ってな感じで」

「あら、そうなの。道理で妙に暑いと思ったわ」

「へへ。ちょいと気持ちが入り過ぎたのかもしれやせんね。ですがまぁ、いいじゃありやせんか。雨なんざ降るよかずぅっと」

「私は雨でも構わないわよ。それでもお前は、私を乗せて歩いてくれるのでしょう?」


 エイプリルの問いに、ダンは間髪入れず頷いてみせる。


「そりゃあ勿論。ですが、明日くらいは綺麗な恰好でお嬢さんを送りたいじゃありやせんか。雨ん中なんて歩いたら、あっしは泥だらけで教会へ行かなきゃなりやせん。そいつはちょいと見苦しいというもんでしょう。相手の方にも失礼でしょうし、第一、そんな車引きを連れてきたとあっちゃあ、お嬢さんが恥をかいちまう」

「別に気にしないわ。お父様だって、ガーネット家の皆様だって、そんな小さいことを恥ずかしいなんて思わないわよ」

「あっしが嫌なんですよ。折角の晴れ舞台なんですから、アンバー家の車引きとして、ほんの少しでも見栄を張りたいじゃありやせんか」


 照れ臭そうに頭をかくダンに、エイプリルは小さく微笑んだ。

 彼女の笑顔に、ダンの尻尾はご機嫌に左右へ揺れる。


「あ、見て下せぇお嬢さん。アンズの花が咲いていやすよ」


 ダンの視線を追い、エイプリルも右側を見た。

 斜面の下では、薄ピンク色の花を付けた木が、小川に沿って並んでいる。


「いやぁ、綺麗ですねぇ」

「そうね。でも、少し開花が早いんじゃない? いつもはもう少し遅かったと思ったけれど」

「きっとあれですよ。アンズの木もお嬢さんを祝福したくて、早く花を咲かせたんですよ」

「あら、嬉しい。でも、花より実を付けてくれた方がもっと嬉しかったわ」

「へへ、お嬢さんらしいや」


 花がよく見えるよう、ダンは少し右へ車を寄せる。

 蹄の音が、遅く、緩やかになった。


「ねぇ、ダン。覚えている? 昔、まだ私がお稽古なんて始めていないくらい小さい頃、ここでお前とよく遊んだわよね?」

「へい。勿論覚えておりやすよ」


 ダンの返事に、エイプリルはオレンジ掛かった瞳を煌めかせる。


「いやぁ、あの頃はあっしもお嬢さんも若かったですよねぇ。アンズの実をたらふく食べて腹を下すなんざ。乳母様には怒られるし、いやぁ、苦い思い出ですよぉ」

「……それじゃないわよ」

「え、あれ? 違いやした?」


 エイプリルは頬を膨らませ、間抜け面を晒すダンを睨む。


「ほら、覚えていない? お前の背中に乗って、花びらの舞い散る中を走り抜けたじゃない」

「あぁっ、そっちですかっ!」

「そっちよそっち。なんでお腹を壊した方を真っ先に思い浮かべるのよ」

「いやだって、お嬢さんさっき『花より実を付けてくれた方が嬉しい』って言ったから」

「言ったけど、でもこういう時は美しい方の思い出って、相場で決まっているものでしょう?」

「ですがお嬢さん。その美しい方の思い出だって、結局は旦那様に怒られたじゃありやせんか。『落ちて怪我をしたらどうするんだっ!』って仲良く怒鳴られて、あっしなんか拳骨まで貰ったんですよ?」

「私だってそうよ。全く、娘の頭を叩くだなんて酷い父親よね」


 エイプリルは腕を組み、口をへの字に曲げてみせる。とんだ責任転換に、ダンは苦笑いを零した。


「そういやぁ、あっしらは今まで何度も旦那様に怒られやしたねぇ。いや、旦那様だけじゃなく、奥様や乳母様、家令様にもこっぴどく説教されやしたっけ」

「そういえばそうね。今まで何回くらい怒鳴られたかしら?」

「大体百回くらいじゃねぇですか? 殴られたのも、あっしとお嬢さんの指を全部足しても足りないくらいだと思いやすよ」

「嘘。そんなに?」

「へい。なんせお嬢さん、かなりのお転婆でしたもの」

「それは、ほら、あれよ。昔の話よ」

「えぇ。昔の話です」


 ダンは、おもむろに振り返る。


「今は、こんなに綺麗になって……」


 エイプリルを見つめ、歯を剥き出しにして、笑う。


「この世で一番、綺麗な花嫁さんですよ」

「……そう。ありがとう」


 エイプリルはつと顔を背け、アンズの花を眺める。

 ダンもそれに倣い、前を向いた。梶棒を握り直し、緩やかに尻尾を揺らす。


 蹄と車輪の回る音が、人気のない道に木霊した。


「……ねぇ、ダン」

「へい、何でございやしょう?」


 エイプリルは内緒話をするように、少し前のめりとなる。ほんのり口角を上げ、いかにもふざけている顔で、口を開いた。


「もし、もしよ? 私が、このまま真っ直ぐずっと、明日も、明後日も、止まらずにずっと歩き続けてって言ったら、そうしたら、お前はずっと歩いてくれる?」


 大げさに抑揚を付けて、いかにも楽しんでいる風に聞く。

 しかし。

 膝に乗せた手だけは、ほんの少し、緊張していた。


「やだなぁお嬢さん。そんな冗談、戯れでも言っちゃあいけやせんよぉ」


 ダンはあっさりと窘めた。前を向いたまま、いつものように笑い飛ばす。


「……そうね。ちょっと不謹慎だったわ」


 エイプリルも微笑み、上半身を背凭れに戻した。

 手の力は、増す。

 拳を作り、気を紛らわせるように、小川に浮かぶアンズの花びらを見つめた。


 ふと、沈黙が訪れる。

 静かな道に、車輪と、僅かに力の入った蹄の音が、入り混じった。


「……お嬢さんは、嫌なんですかい?」


 先ほどまでとは違い、ダンは落ち着いた口調で問い掛ける。


「……別に、そういうわけではないけれど……」


 と、そこで少し口籠り、それから小さく、小さく、吐き出した。


「……でも、別段嬉しくもないわ」

「……そうですかい」


 驚くでも、憐れむでもなく呟き、ダンは布で顔を拭った。

 彼の関心のないような態度に、エイプリルの拳は、更に強く握られる。


 斜面の下のせせらぎが聞こえてくるほど、二人の間には声が生まれなかった。

 時折すれ違う住民に、ダンが挨拶をするのみ。

 それ以外は、ひたすら車輪と蹄の音が会話をした。


「……ねぇ、ダン」


 町の中心部へ近付き、そろそろ人通りも増えてくるだろうという頃、ようやく、エイプリルの口が開いた。


「さっきの、花びらの舞い散る中を走り抜けた時、私がお前に言ったことを、覚えている?」

「……へい。勿論、覚えておりやすよ」


 ダンは、口角をつり上げる。

 意識的に。


「いやぁ、あの時はまいりやしたよぉ。お嬢さんったら、大はしゃぎであっしの尻を叩くんですもの。『ダンッ、もっと早く走りなさいっ。スコットブラウン族の脚力を見せ付けるのよっ!』なぁんて言って。お蔭で尻が真っ赤になっちまって、家の方々には散々笑われたもんですよぉ」

「……それじゃないわよ」

「え、あれ? 違いやした? じゃああっちですかい? 『雪みたいだわ』って言った後、口を開けて花びらを食べようとしやしたよね。それとも虫が上から落ちてきて、お嬢さんの服の中に入っちまった方ですかい? いやぁ、あれも大変でしたねぇ。お嬢さんったら『早く取りなさいっ!』って言いながら暴れ回るんですもの。『それじゃあ取れやせん』って言ってるのに、全然聞いてやくれなくって。後は、えーと、何があったっけなぁ?」


「……『私が、十六になったら』」


 エイプリルは、後ろからダンを見つめる。


「『私が十六になったら、お前のお嫁さんになってあげるわ』」


 逞しい背中を、じっと、見据える。


 ダンの口元が、僅かに、引き攣った。


「……あぁ、そんなこともありやしたねぇ。いやぁ、すっかり忘れてやしたよぉ」


 笑い飛ばす声が、辺りに響き渡る。

 今度は、笑い返してくれる者はいなかった。

 余韻が空しく広がり、やがて、消えていく。


 しかし、エイプリルの視線は、決して動きはしなかった。


「……ねぇ、ダン」

「……へい。何でございやしょう?」

「……もし、もしよ? 私の気持ちが、あの時と何一つ、変わっていないとしたら、そうしたら、お前は――」

「お嬢さん」


 強い、押し込めるような口調で、ダンは笑う。


「……そんな『冗談』、戯れでも言っちゃあいけやせんよ」


 細い目をほんのり尖らせ、前だけを、向き続ける。


 エイプリルは唇を噛み、押し黙った。肩を震わせて下を向き、込み上げるものを耐え忍んだ。

 ダンも口を閉ざし、梶棒を握り締める。己の全てを消すように、ただの車引きのように、足を進めた。


「……っ、止めてちょうだい……っ」


 不意に、そんな指示が聞こえてきた。

 ダンは道の端により、足を止める。


 するとエイプリルは、長いスカートを翻し、車から飛び降りてしまった。


「ちょっ、お、お嬢さんっ!?」


 声を掛けるも、斜面を下りていく背中は止まらない。ダンは慌てて梶棒を置き、車輪を固定してからエイプリルの後を追った。


「お嬢さん、いきなり降りるのは止めて下せぇよ。怪我をしたらどうすんですかっ?」


 蹄を鳴らしつつ、エイプリルの横へ並ぶ。

 それを拒否するように、彼女の足は加速する。


「お、お嬢さん、お嬢さんっ。もっとゆっくり歩いて下せぇっ。そんなに急いだら転んじまいやすってっ。ほら、折角の綺麗な顔に傷をこさえちまったらどうすんですかっ。そんなことになったら、明日の式で笑われちまいやすよっ?」


 エイプリルは顔を歪め、スカートを持ち上げると走り出した。後ろからダンの悲鳴じみた声があがるも、彼女の動きは止まらない。


 斜面を駆け下り、アンズの木の下を通って、そのままのスピードで水際までやってくる。

 エイプリルは、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。

 そして、小川の中へ、迷いなく入っていく。


「お嬢さんっ!」


 ダンも四肢を躍動させ、水しぶきを上げながら小川へと飛び込む。エイプリルの前へ回り込み、これ以上は行けないよう立ち塞がった。

 彼女のオレンジ掛かった瞳と、かち合う。

 しかし、それはすぐに、下を向いてしまった。


「……一体どうしたんですか。お転婆なのは、もう昔の話じゃなかったんですかい?」


 眉を下げて、ダンはエイプリルを窺う。

 彼女はスカートを摘んだまま、微動だにしない。


「……あ、あれですか? あっしと思い出話をして、懐かしくなっちゃいやした? いやぁ、それならそうと言ってくれればいいのに。でも駄目ですよ? お嬢さんはもう立派な淑女なんですから、こんなはしたない真似、これっきりにしなきゃあいけやせん」


 極力柔らかい物言いで、刺激をしないように、宥めていく。

 エイプリルの手の甲に、つと、筋が浮き上がる。


「さぁ、戻りやしょう。いつまでもここにいたら、足を切っちまうかもしれやせん。それに、誰かに見られでもしたらどうすんです? いらぬ恥をかくのはお嬢さんですよ?」


 ダンは首から汗拭き用の布を取り、エイプリルに近付いた。


「さ、上がりやしょう。そんでこいつで足を拭いて、靴を履きやしょう。ね? ちょいとあっしの汗がしみ込んでいやすが、まぁ我慢して下せぇ。大丈夫です。臭かねぇんで」


 歯を剥き出しにして笑い、彼女を岸へ促す。


 それでも、エイプリルの体は、突き刺さってしまったかの如く動いてくれない。


 ダンの口角は、徐々に下がっていく。


「……お嬢さん――」

「ダン」


 続きを遮るように、小さく呼んだ。

 ダンは一旦口を閉じ、すぐさま開く。


「何でございやしょう?」

「お前の背中に、乗せてちょうだい。私の足が乾くまで」

「……お嬢さん、そいつはいけやせんよ」

「濡れた足のまま、私に靴を履けというの?」

「濡れてんなら、こいつで拭きゃあ――」


 ダンの差し出した布を、エイプリルは叩き落とした。

 布は手から離れ、川の流れに身を任せる。町の中心部へと向かい、数拍の内に見えなくなった。


「……お嬢さん」

「ダン。私を、背中に乗せてちょうだい」

「……いけやせん。旦那様に叱られやす」

「お願い」

「駄目ですよ。もし落ちちまったら危ねぇでしょう?」

「落ちないよう、しっかり掴まっているわ」

「万が一ってこともありやす。それにほら、こんな汚れた車引きに乗ったら、お嬢さんの服が台なしになっちまう」

「別に気にしないわ」

「あっしが嫌なんです」


 ダンは眉を下げ、溜め息混じりに、言葉を吐き出す。


「お願ぇですから、そんな我儘言わねぇで下せぇよ」

「っ、いいじゃないっ。我儘くらい言ったってっ」


 スカートを固く握り締め、エイプリルは水面に向かって、叫ぶ。


「これがっ、最後なんだから……っ」


 語尾が不自然に歪み、溢れそうな想いを、奥歯と共に強く噛み締めた。

 水の流れに逆らうように、一瞬だけ、足元に小さな波紋が広がる。


 涼やかなせせらぎと、吐息の震える音が、この場に響いた。

 その合間を縫って、鼻を啜る音も、時たま聞こえてくる。


 俯くエイプリルを、ダンは無言で見つめた。

 途方に暮れた顔で頭をかき、もう一つ、溜め息を零す。


「……後で、一緒に怒られて下せぇよ?」


 一旦横を向き、川の中で前後の足を折り曲げた。跪き、おずおずと寄こされた視線に、笑い掛ける。


「さ、どうぞお嬢さん。足が乾くまでの間、しばし散歩と洒落込もうじゃありやせんか」


 尻尾を揺らし、ダンは前を向いた。そのまま待っていれば、己の前足の上辺りに、軽く温かなものが乗る。

 遠慮がちに触られる背中の感触に、思わず苦笑いが込み上げた。


「じゃ、立ちやすよ。しっかり掴まっていて下せぇ」


 背中の感触が強まったことを確認し、ダンはゆっくりと後ろ足を起こした。エイプリルを気遣いながら前足も起こし、岸へ向かって歩いていく。

 転がっている靴を拾い上げ、彼女の足が乾くよう、太陽に照らしつつ川沿いを進んだ。

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