顔色を変えたナタリアを余所に、男は、口を動かす。


「『ゴールドスミス国、第二十一代国王、デューイ・ゴールドスミスの娘として生まれる。

 両親はフランシスカに関心を持たず、兄のケビンばかりを可愛がった。その反動からか、フランシスカは悪戯や我儘を繰り返し、召使い達を困らせた。彼女の行動が目に余るとして、七歳の時、当時軍で副官を務めていたオルトン・ベリルが目付役として付けられる』」

「……本当に」


 吐息と共に、言葉が吐き出される。


「本当に、知っているのね」


 視線を天井へ向け、懐かしむように目を瞑った。


「……続けてちょうだい」


 ナタリアに促され、男は指と目で文字をなぞる。


「『十二歳の時、国王である父が死去。それによって兄が王位に就くも、一年もしないうちに暗殺され、フランシスカが次の国王として即位することとなった。しかし実権は伯父のクライドと大臣のダリオが握り、フランシスカは名ばかりの王となる。


 フランシスカは、伯父と大臣の言うがままに政治を執り行った。税金を上げ、抗議の声は粛清し、苦しむ国民を余所に贅の限りを尽くした。

 次第に国民の不満は膨れ上がり、数十年前のブラックモア飛翔部隊全滅より衰退傾向にあった王の権威は、更に地へと落ちていく。


 そしてフランシスカが十五歳の時、国民の怒りは爆発し、彼らは反旗を翻した。元司令官、フィップ・コーラル先導の元、革命が行われる』」

「っ」


 ナタリアの全身が、強張った。

 何かを堪えるように、縋るように、緑色の日記を抱き締めた。


「……止めましょうか?」


 ぽつりと、男は呟く。

 しかしナタリアは小さく首を振り、「続けて」、と囁いた。


 懺悔でもするかの如く神妙な顔付きを、男はしばし眺める。無表情ながらどこか思案しているように固まり、おもむろに、瞬きを一つした。


 男の視線が本へと戻る。

 今までより素早く指を動かし、三枚、四枚とページを捲っていく。


 飛ばされていく記録の音が、静かな部屋の中に響いた。

 男は目だけで内容を追い掛け、不意に、その動きを止める。


「……『革命が進む中、フランシスカはオルトンに連れられ、城から脱出した。それから二人は身分を隠し、流浪の生活を送る。

 だが三年後、旧ゴールドスミス国であるレッドフォード国の兵に見つかり、逃走。

 その途中、フランシスカはオルトンの指示に従い、彼と別れて一人走った。国境を越え、敵対するブルーム国へと入り、最北端にあるアメリー修道院まで辿り着く。

 フランシスカは修道院へ身を寄せ、以降修道女として生活を送ることとなる』……以上です」


 男はそう締め括ると、己の無表情をナタリアへ向けた。


 彼女は目を瞑ったまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。


「……ありがとう」

「……いえ」


 ナタリアは強張った指を解き、日記の表紙を優しく撫でた。


「……こうやって聞くと、私の人生ってそんなものなのね。長い長いと思っていたけれど」


 溜め息に乗せて、想いを零す。


「あの三年間も、記録に残るほどではなかったのね」


 男は、何も言わなかった。

 沈黙の中、ナタリアの目が、静かに開く。


「……私達はね。三年の間、色んなところへ行ったの。

 最初は驚きの連続だったわ。だって出会う人の殆んどが、信じられないくらい汚い家に住んでいて、汗や土に塗れながら、一日中働いているのよ? 髪だってボサボサで、肌も黒くくすんでいるの。

 でもね、皆凄く楽しそうに笑うの。美味しいものなんて何一つ食べられないのに、家族揃って食事をして、寝て、それが幸せだって自信を持って言い切るのよ」


 口元を緩ませ、彼女は男を振り返った。


「オルトンにも、沢山迷惑を掛けたわ。何一つ出来ない私に、様々なことを教えてくれたの。時には癇癪を起こす私を根気強く宥めて、時には嘆く私を不器用に慰めて、絶対に守ると何度も何度も言ってくれるの。

 笑うなんてしない人だったけど、どんな時も取り乱さない彼に、私はいつも救われていたわ」


 そこまで話すと、ナタリアは急に笑い出した。


「でもね、一度だけ、彼が慌てたことがあったの。

 最後に立ち寄った村での話なんだけれど、そこに住んでいる人が、『あんた達、夫婦かい?』と聞いてきたのよ。それ自体は何度もあったからすぐに否定したんだけど、そうしたら今度は、『じゃあ、いつ結婚するんだい?』と言われてね。それも否定したら、周りの方々が口々にオルトンを責め始めたの。『だらしがない』とか、『男ならけじめを付けろ』とか、色々ね。言い返そうにも、言ったらもっと話がややこしくなりそうで、仕方なくオルトンは小さくなって、謂れのない責めを受けていたわ」

「えぇ、存じています」


 男の言葉に、ナタリアは目を丸くする。


「あなた、知っているの?」

「えぇ」

「そう……じゃあ、その夜、彼が何をしたのかも、知っている?」

「はい」


 男は、迷いなく言った。


「オルトン・ベリルは、その夜、スイセンの花を持って帰ってきました」


 丸くなっていたナタリアの目は、ゆっくりと三日月形に蕩けていく。


「……そうよ。その村では、プロポーズにスイセンの花を送る風習があるらしくてね。村の方に無理矢理渡されたとかで、それはもう困った顔をするの。私もう可笑しくて可笑しくて、しばらくはスイセンを見るたびに笑い転げていたわ」

「えぇ、存じています」

「そう……良かった。記録に残っていなくても、覚えていてくれたのね」


 感慨の籠った声と微笑みを、ナタリアは男へ向けた。

 まるで感謝しているかのような視線に、男は表情を変えぬまま、固まる。

 数拍後、瞬きと共にページを捲り、羽ペンを握り直した。

 また鳴り始めた忙しない音に、ナタリアは耳を傾ける。


「……ねぇ、記録係さん」


 彼女の声に、男は顔を上げない。それでも、ナタリアは話を続けた。


「変なお願いをしてもいいかしら?」

「……はい、何でしょう?」

「もし、私が死んだら、この日記を処分して欲しいの」


 今まで抱き締めていた日記を、おもむろに男へ差し出す。


「ここには、私の胸の内が全て詰まっているわ。誰にも言うつもりのない、誰にも見られてはいけない代物なの。だから、人目に触れる前に、この世から消し去ってちょうだい」


 老いた瞳の奥が、力強く煌めいた。

 男は手を止めずに、首を傾げてみせる。


「自分なんぞに託して良いのですか? もしかすれば、あなたの知らないところで覗くかもしれませんよ?」

「それはそれで構わないわ。なんせあなたは、私の全てを知っているんだもの」

「いいえ。自分は、あなたの全てを知っているわけではありません」

「知っているわよ。あなたは、全て、知っている」


 ナタリアは、はっきりと断言した。


 男の動きが、止まる。


「例え知っていなくとも、ずっと私を見てきたあなたになら、見られたって怖くないわ」


 そう言って笑う彼女は、どこか若い乙女のような輝きを放っていた。


「…………分かりました」


 男は、羽ペンを持っていない方の手を伸ばし、彼女の日記を受け取った。

 緑色の表紙を一瞥し、それから、ローブの中へとしまう。


「……ありがとう」


 ナタリアは解き放たれたように笑い、また目を瞑った。

 部屋の中に、紙の擦る音が、また流れ始める。


「……ねぇ、記録係さん」

「はい、何でしょう?」

「死後の世界は、一体どんなところなの? やっぱり、花や緑に溢れている穏やかな場所なの?」

「いいえ。何もないところです」

「……何もないって、何がないの?」

「太陽も、月も、海も、大地も、雨も、風も、この世にある自然と呼ばれるものは総じてありません。あるのは真っ白い空間と、転生にまつわる機関のみです。そこで死んだ魂を受け入れ、浄化し、来世を決め、転生先へ送る。以上です」

「そうなの……意外と夢がないのね」


 目を瞑ったまま、彼女は可笑しそうに微笑む。


「じゃあ、地獄もないの? 天国も?」

「えぇ。ありません」

「そう、良かった。もしあったら、私はきっと地獄へ落とされていたわ。彼も、きっとそうね」


 ナタリアの穏やかな声が響き、つと、無言になった。


 爽やかな日差しは少し傾き、部屋の奥の方へと伸びている。

 照らされたスイレンの香りが、若干強くなった気がした。


「……彼は、今どうしているのかしら」


 小さく、ナタリアの口が開かれる。


「もう、転生してしまったのかしら? それとも、まだ、その機関とやらにいるのかしら? それとも、上手く逃げおおせて、まだ、生きているのかしら……?」

「自分には分かりかねます」

「……調べることは、出来ない?」


 控えめな懇願に、男の手と視線は固まる。しばしそのままの姿勢を保ち、おもむろに、一番後ろまでページを捲った。

 上から順に何かを黙読し、かと思えば、不意に、顔を上げる。


 男は、突然辺りを見回し出した。何かを探しているようだが、その視線は部屋の中というよりは、もっと遠く、壁の向こうよりも離れた場所の何かを探っているようだった。

 ローブの衣擦れの音が、僅かに奏でられる。

 だが、それも数拍で止んだ。

 探し物が見つかったのか、男は部屋の隅を向いた状態で、静かに遠くを見据えた。


「……お疲れ様です。キアランです。今、大丈夫ですか?」


 唐突に、男は喋り出す。誰もいない方向へ、いかにも誰かいるかのような態度で、平然と会話を続ける。


「……はい。少々質問がありまして……はい……ありがとうございます。

 質問というのは、ベルさんが担当していた、オルトン・ベリルという男についてなのですが……えぇ、そうです。オルトン・ベリルです。旧ゴールドスミス国、第二十三代国王、フランシスカ・ゴールドスミスの目付役をしていた。彼は今、どうしていますか? ……えぇ、そうです。それを知りたくて。

 ……はい。……はい。……そうですか。分かりました、ありがとうございます。……はい。では、失礼します」


 男は一つ瞬きをすると、一点に集中させていた視線を、ナタリアへ移した。


「今は、スコットブラウン族として、レッドフォード国内にある村で生活をしているようです」

「……もう、生まれ変わっていたのね」

「えぇ」

「……そう」


 寂しげな余韻を残して、ナタリアは、ゆっくりと呼吸を繰り返す。


「……私も、なれるかしら」


 独り言のような問いに、男は、視線を逸らした。


「分かりません。それを決めるのは自分ではなく、選定員ですので」

「そう……」


 彼女は胸の前で手を組み直し、吸った息を、深く吐き出した。


「次は、彼と同じ身分に生まれたいわ」


 心の奥底にこびりつく願いを押し出すように、深く、長く。


 ナタリアの吐息が、部屋全体に広がっていく。それは男を通り過ぎ、スイレンの元まで届くと、静かに混ざり合い、やがて消えていった。


 部屋には、相変わらずペン先と紙が擦れる音が響いている。羽ペンは本とインク入れを往復し、男の腕と共に踊り続けた。

 窓から差し込む日差しはどんどん傾き、色もオレンジへと変わっていく。

 海が夕日を反射して、辺りを一色に染め上げた。






 ふと、この場に静寂が訪れる。






 男は手を止めたまま、視線だけをナタリアへ向けた。

 彼女の顔をじっと見つめ、一つ、瞬きをする。


 羽ペンを栞代わりに本を閉じ、インク入れの蓋を閉める。それらを黒いローブの中へしまってから、ナタリアの日記を取り出した。緑色の表紙を眺め、考えるようにしばし丸椅子の上で固まる。


 と、男は不意に、後ろを向いた。


 彼の背後には机があり、その上には、モリーが採ってきたスイレンの花が置いてある。


「……ふむ」


 小さく頷くと、男は立ち上がった。机に歩み寄り、花瓶からスイレンを一本抜き取る。

 そしてそれを、ナタリアの日記へ挟み込んだ。

 手の中にある白と黄色と緑のコントラストを、男はどこか満足げに見つめた。


 その数拍後。


 彼の瞬きと共に、スイレンの花びらから、塵のようなものが舞い上がる。

 それは糸のようにスイレンを解いていき、日記をも浸食していく。


 塵はオレンジの光に照らされ、煌めき、四散した。

 後には何も残らず、ただ男が、空の掌を眺めているだけ。


 こうしてナタリアの胸の内は、彼女の願い通り、この世から消え去った。

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