第二章 596年


 海に愛されし国・ブルームの最北端には、苦しむ女性の最後の砦が存在する。




     ◆     ◆     ◆




 海の中にポツンとそびえる岩山。その頂上に建っているのが、アメリー修道院である。


 女性しかいないこの場所は、例え国王であっても入ることを許されない。例え命令であっても、それを拒否するだけの権限を、代々修道長は有していた。


「もういいわ、ごちそうさま」


 そんな修道長を務め上げたナタリアは、自室のベッドの上にいた。スープを半分ほど飲んだところで、枯れ木にそっくりな老いた手を止める。

 昨日より更に食欲の失せた彼女を、世話役のモリーは痛ましげに見つめた。だがそれを悟られぬよう、すぐさま己の欠けた耳を立たせ、笑顔を浮かべる。膝に乗せたトレーの上から、一番小さな皿を持ち上げた。


「ナタリア様。こちらのコンポートはいかがですか? 私が作ったのですが、中々上手く出来たのですよ。皆さんにも柔らかくて美味しいと好評でして、是非ナタリア様にも召し上がって頂きたいと思い、お持ちしました」

「あら、そうなの? じゃあ、少し頂こうかしら」


 ナタリアは一度置いたスプーンを取り、モリーの差し出す皿とスープ皿と交換した。甘く煮たリンゴを、一口頬張る。


「……うん、とっても美味しい。随分と上手になったわね」

「ほ、本当ですか?」

「えぇ。初めてあなたが作ったコンポートとは全然違うわ」

「ま、まぁ、ナタリア様ったら。あれはもう、忘れて下さい」


 モリーは恥ずかしそうにスカートを弄る。しかし、狼の尻尾は嬉しいと懸命に伝えていた。

 彼女の背後で揺れる白い毛並みを、ナタリアは微笑ましげに見やる。


 そして、おもむろに、スプーンを置いた。


「……もう、終わりになさいますか?」

「そうね。お腹一杯だわ」

「そう、ですか。はい。では、お下げしますね」


 モリーは笑みを張り付け、ナタリアからコンポートの皿を受け取った。座っていた丸椅子から立ち上がり、殆んど手付かずの料理が乗ったトレーを、一旦壁際の机の上へ置く。


「そうだ。ナタリア様、庭の花壇はもうご覧になりましたか? 以前植えたスイセンが、先日遂に花を咲かせたのですよ」

「まぁ、そうなの? そう、ようやく咲いたのね」

「はい。少し小さいですが、白と黄色の花びらが入り混じってとても綺麗なんですよ。今日は天気もいいですし、もしよろしければ散歩がてら見に行きませんか?」

「うーん、そうねぇ」


 ナタリアは宙を眺め、それからまたモリーを見た。


「折角だけど、止めておくわ。今日はゆっくりしたい気分なの」

「そ、そうですか」


 ペタリと下がる欠けた耳と狼の尻尾。しかし、その二つはすぐに立ち上がる。


「では、こちらに数本お持ちしますね。今が一番美しく咲いていますから、ナタリア様も一目見れば、きっと心が華やぎますわ」


 名案とばかりにモリーは手を叩いた。

『いかがですか?』と問い掛けてくる瞳へ、ナタリアは笑顔と共に肯定を返す。


「では、早速ご用意しますねっ」

「あぁ、モリー。ついでに、新しいインクも持ってきて貰えるかしら?」

「インクですね。はい、分かりました」


 モリーはトレー片手に頭を下げ、足早に部屋を出ていく。

 扉が閉まると同時に、慌ただしく駆ける音が、廊下から聞こえてきた。

 誰かに怒られないといいけれど。そんな事を思いつつ、ナタリアは頬を緩め、つと窓を振り返った。


 ベッドの脇にある窓からは、爽やかな陽が差し込んでいる。

 外では草が風にそよぎ、海は緩やかな波を立てていた。その上を数隻の船が進み、空には綿のような雲が浮かんでいる。


 モリーの言う通り、とてもいい天気だった。この中を歩いたらさぞかし心地がいいだろうと思う反面、それは無理だということを、ナタリアはよく分かっている。


 ナタリアにはもう、一人で歩く力も、立ち上がる力も、残ってはいなかった。

 こうして座っていることさえ億劫で、油断すると今すぐにでも倒れてしまいそうであった。


「……はぁ」


 ヘッドボードを背凭れに、ナタリアは目を瞑る。このまま少し休んで、モリーが戻ってきたら横になるのを手伝って貰おう。そう考えながら、瞼の裏から太陽の光を眺めた。


 その時。

 不意に、耳が何かの音を拾った。


 何の音だろう。ナタリアは、何の気なしに目を開く。






 いつの間にか、一人の男が横にいた。






 色白で、モリーと同じ年頃の若い男だった。

 黒く染め上げたローブを身に纏い、先ほどまでモリーが座っていた丸椅子の上で胡坐をかいている。膝には黒無地の表紙の本を置き、羽ペンで忙しなく何かを書き込んでいた。


「……あなた、どなた?」


 ナタリアは、驚きに身を固くした。

 だが、相手は気遣う素振りも見せず、手を動かし続けている。


「どうやって、ここまできたの?」


 またしても、相手は何も答えない。首からぶら下げたインク入れに、時折ペン先を浸すのみ。


 一向に顔を上げない男に、ナタリアはゆっくりと息を吐き、体の力を抜いた。


「ここは男子禁制よ。誰かに見つかる前に、早く出ていった方がいいわ」


 ベッドに折れそうな手を付き、諭すように語り掛ける。

 すると一拍置いて、男はようやく手を止めた。

 視線を上げ、ナタリアを数拍見つめる。


「……自分に、言っているのですか?」


 無表情のまま、彼は首を傾げた。


「私はそのつもりだけれど」

「……そうですか」


 男はしばし固まると、おもむろに瞬きをした。


「自分のことは、どうぞお気になさらず」


 そして、また元の作業へと戻る。

 その危機感のない態度に、ナタリアは眉を顰めた。


「何が目的かは分からないけれど、見つかってはことよ。例え悪意がなかったとしても、ここでは男というだけで立派な罪になるわ」

「お心遣い感謝します。ですが、どうかお気になさらないで下さい。問題はありませんので」


 問題がない、とは、一体どういうことだろうか。ナタリアは内心首を傾げた。

 現修道長が認めた来客だろうか、と考えるも、すぐさま違うと思い直す。ここは、例え国王であっても入ることを許されない場所。例え命令であっても、男の訪問を許可するとは思えない。


 しかも、わざわざ自分の元へやってくるだなんて。


 一瞬、昔の記憶が甦る。だが、すぐに考え過ぎだと頭を振った。今更こんな老いぼれ相手に人を寄こすとも思えない。向こうだってそんな暇などないだろう。


 と、そこまで考えたところで、廊下から急ぐような足音が聞こえてきた。


 モリーが戻ってきたのだ。


「っ、人がきたわ。今すぐどこかへ隠れなさい」


 しかし、男は動こうとしない。


「早く隠れて。見つかってもいいの? きっと酷い折檻に合うわよ」


 ナタリアが頻りに言い聞かせても、男は「問題はありません」の一点張りで、決して手を止めようとしない。


 足音は、どんどん迫っている。


 ナタリアは焦りともどかしさから、両腕に力を入れ、必死にベッドの上を這った。


「ほら、このベッドの下がいいわ。あなたの体をすっかり隠してくれるから。さぁ、お願いだから言うことを聞いてちょうだい」


 ベッドシーツを捲くり上げ、促すように何度も手招く。


 ノック音が二回、響いた。


「っ、ほら、早くベッドの下へ……っ」


 咄嗟に引き込もうと、ナタリアは手を伸ばした。

 その手は、男の腕を掴んだ。


 筈、だった。


 だが実際は、蜃気楼を触ったかのようになんの感触もなく、ナタリアの手は、男の体を通り抜けていったのだ。


 ナタリアの喉から、引き攣った音が絞り出される。

 驚いた拍子に体の力が抜け、彼女は、ベッドの下へ落ちてしまった。


 男は、一瞬ペンの動きを止める。


「どうされたのですかナタリア様っ」


 直後、外からモリーの声が聞こえてくる。


 いけない。ナタリアがそう思った時には、部屋の扉が勢い良く開かれてしまった。入ってきたモリーと、目が合う。

 彼女は中の状況――倒れたナタリアと、丸椅子に座る男を見るや、手で口を覆った。


「ナ、ナタリア様……」

「モリー。これは、その」

「いけませんわっ」


 モリーは、抱えていたスイセンを急いで机の上へ置いた。興奮したように耳と尻尾を立て、ベッドへと駆け寄ってくる。

 その顔の険しさに、ナタリアは懸命に体を起こし、弁解を試みた。


「モリー聞いて。違うのよ。これには、理由が――」

「そんなところに座り込んでは、お体に差し支えますっ」


 モリーは、ナタリアの焦りを余所に、男の存在を無視した。


 まるで見えていないかのような態度で、ナタリアへのみ、声を掛けたのだ。


「さぁ、どうぞお掴まり下さい」

「え、えぇ、ありがとう」


 差し出された腕へ、ナタリアは戸惑いつつも手を伸ばした。支えて貰いながらベッドへ戻り、横になる。


「大丈夫ですか、ナタリア様? どこかお怪我をしたり、痛めたところなどはありませんか?」

「あぁ、えぇ、大丈夫よ。驚かせてしまってごめんなさいね」

「もう、本当ですよ」


 モリーは眉を顰め、ナタリアの体へ毛布を掛けていく。欠けた耳を軽く伏せ、己の気を静めるように狼の尻尾を左右へ揺らした。


 その靡く白い毛越しに、ナタリアは丸椅子に居座り続ける男を窺う。

 彼は一向に動じることなく、ただひたすらに羽ペンを歌わせていた。


「ナタリア様? どうなさいました?」


 ナタリアの視線に気づいたモリーは、背後を振り返った。不思議そうに辺りを見回す。

 真後ろにいる男に気付いた様子は、ない。


「あぁ、いえ、なんでもないの。ただ……そう、そこの日記を読み直そうかと思ってね。取りに行こうとしたら、力が抜けて倒れてしまったのよ」


 ナタリアは、ぎこちなく男の後ろにある机を指差した。先ほど置かれたスイセンの花の近くに、日記が数冊並んでいる。


「まぁ、そうでしたか。では、私が代わりに取ってまいりますわ。どちらの日記になさいますか?」

「そうね。じゃあ、その、緑色の表紙のものを持ってきてちょうだい」


 はい、と返事をし、モリーは一つだけ色の違う日記と、スイセンの入った花瓶を手に戻ってきた。


「どうぞ」

「ありがとう。あぁ、綺麗ね。それにいい香り。部屋が一気に華やぐわ」

「そう言って頂けると嬉しいです。外にはまだまだ沢山咲いていますからね。お加減が良い時にでも、是非ご覧になって頂きたいですわ」

「ふふ、そうね。私も見てみたいわ」


 そう言って微笑めば、モリーは嬉しそうに尻尾を振った。


「あ、いけない、忘れるところでした。ナタリア様、頼まれていたインクもお持ちしましたわ。こちらは机の上に置いておけばよろしいですか?」

「そうね。そうしてちょうだい。スイセンの花もそこへ並べておいて」

「はい、分かりました」


 モリーは机へ向かい、スイセンの入った花瓶を置くと、修道服のポケットからインクの瓶を取り出した。羽ペンの入った缶の横へ置き、今まで使っていた瓶と交換する。


「モリー。私はこの日記を読んだら、少し昼寝をするわ。夕暮れ時になったらまたきてくれる?」

「分かりました。夕暮れ時ですね」

「えぇ。お願いね」


 モリーは笑顔で返事をすると、頭を下げて退室していった。


 最後まで、男を気にする素振りなど見せずに。


 廊下から彼女の足音が聞こえてくる。それはどんどん小さくなり、やがて、消えていった。

 部屋には、ペン先と紙の擦れる音だけが、溢れる。


 ナタリアは、つと男を見上げた。男は変わらず無表情で、変わらず手を動かしている。


 そっと、枯れ木そっくりな腕を伸ばしてみた。男の足を、指が掠める。

 やはり感触などなく、通り抜けてしまった。


「……あなた、一体、何者なの?」


 ナタリアの疑問が、口から零れる。


「もしかして、私を迎えにきた死神?」

「いいえ、違います」

「では、神の使い?」

「自分はただの記録係です」

「……記録、係?」

「えぇ。あなたの」


 淡々と返ってきた答えに、彼女は目を瞬かせた。


「私の、記録を取っているの?」

「えぇ」

「何故?」

「あなたの来世を決める際に、必要なのです」

「来世……」

「えぇ。あなたがこの世に生まれ、死ぬまでの間をどのようにして過ごしてきたか。自分が書き留めてきた記録を参考に、選定員が転生先を割り振るのです」


 顔も上げず、記録係と名乗る男は、静かに手と口を動かしていく。

 その様子を、ナタリアはじっと見据えた。


「……ということは、私はもうすぐ、死ぬのかしら?」

「えぇ」

「…………そう」


 ナタリアは、おもむろに抱えていた日記を、一撫でする。


「ようやく、死ねるのね」


 どこか嬉しそうな響きを持たせ、呟いた。


 静寂と共に、窓から差し込む光が部屋へ広がる。温かなそれを感じつつ、ナタリアは緑色の表紙を、もう一度、撫でた。


「……ねぇ、記録係さん」

「はい、何でしょう?」

「あなたは、私が生まれてから、ずっと傍で記録を取っていたの?」

「えぇ」

「じゃあ、私の全てを知っているのね」

「いいえ」


 間髪入れずに否定され、彼女は不思議そうに目を丸くする。


「……知らないの?」

「えぇ。自分の目で見、耳で聞いた事実ならば、確かに全て知っています。ですが、あなたの胸の内という確認出来ないものは、自分に知る術はありません。よって、自分はあなたの全ては知りません」

「そう……そうね。人の心なんて、誰にも分からないわよね」


 自嘲めいた笑みを浮かべ、ナタリアは男の抱える黒い本を見やった。


「じゃあ、そこには、私が生まれてからどういう人生を送ってきたかが、正確に書かれているのね」

「えぇ、そうです」

「少し、読み聞かせてくれないかしら?」


 そう頼むと、淀みなく流れていた男の手が、止まった。無表情な顔を上げ、ナタリアを数拍見つめる。


「……少々、お待ち下さい」


 一つ瞬きをするや、男は黒い表紙の本を捲った。一番後ろのページに書かれた何かを、上から順に黙読し始める。


「……ふむ……」


 しばらくして、男は考えるように唸り声を上げた。

 そしてまた本を捲り、一番初めのページを開く。






「……『フランシスカ・ゴールドスミス』」






 彼の口から出てきた名前に、ナタリアは思わず息を止めた。


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