第一章 510年
1
太陽が生まれ出ずる国・ゴールドスミスの不敗神話は、今、崩れようとしている。
◆ ◆ ◆
城砦に設けられた司令室の窓が開く。バルコニーへ続くそこから、ヒューバート・クォーツは顔を出した。空を見上げれば、厚い雲の間から、丸い月が姿を現していた。
夜風が、彼の金色に輝く髪を撫でる。それに促されるように、ヒューバートは静かな足取りでバルコニーへと踏み出した。手すりを掴み、目の前に広がる光景を眺める。
左右に広がる城壁。その周りは水路で囲われており、中へ入るには、二つしかない門を通る他はなかった。門の先には民の住まう家が密集していて、通常ならば、今頃は仕事終わりの職人や歌うたいで、酒場が賑わっている時間帯である。
だが今は、どこの店にも笑い声一つ、明かり一つ、見当たらない。
それどころか、どこの家からも、生き物の気配がしなかった。
何故なら、この町の民は全員、城の中へ避難しているからである。
これから始まるかもしれない、戦いに備えて。
ヒューバートは、町を覆う砦の更に外へ視線を向けた。
踏み固められた大地が道となり、蛇のように伸びている。それが段々細くなり、糸程度の太さになると、針穴を通るように山の中へ入っていった。ここから見れば掌に乗りそうな山だが、実際はゴールドスミス城を遥かに越す高さだった。
その山の麓に浮かぶ、小さないくつかの点。
ブルーム国軍の松明だ。
数こそ少ないが、その周りには何百という兵士がいるのだろう。そこで夜明けを――突撃の時を、待っているに違いない。
もう手段を選んでいる暇など、ないのだ。
肉眼で確認出来るほど切迫した状況に、ヒューバートは改めて己の無力を思い知らされた。眉には、自ずと力が込められていく。
そんな彼の耳に、つと、聞き慣れた音が入ってきた。
闇夜に混ざる黒い羽が、傘のように大きく広がる。骨と皮で構成された蝙蝠のそれは、バルコニーの端へ着地すると同時に小さく折り畳まれた。
羽の持ち主は、女だった。黒で染め上げられた軍服を身に纏い、その胸には、ゴールドスミス国軍所属の証である金色の太陽が縫い込まれている。
「……やぁ、ジラ」
ヒューバートは、軽く顔の筋肉を緩ませる。
ジラは、返事代わりにその場へ膝を付いた。夜目の効く瞳を伏せ、ブラックモア族の名に相応しい黒髪を緩やかに揺らした。
「長が、こんなところにいていいのかい?」
「はい、問題はありません」
開かれた口から、鋭い牙が覗く。
「私がいなくとも動けるよう、日頃から言い付けてありますので」
「……そうか」
それだけ言い、ヒューバートはまた砦の外へ視線を向ける。
ジラも立ち上がり、同じ方向を見据えた。
「……皆の様子は、どうだい?」
「若い者は、少々落ち着きがありません。ですが特に取り乱すこともなく、着々と準備を整えております」
「全員、もう裏庭に待機しているのかい?」
「いいえ。概ねは待機しておりますが、数名は挨拶やらで、しばし場を離れております」
「そうか……」
ヒューバートは、少し視線を落とす。
「……その離れた者の中に、ニーナはいるかい?」
「……いいえ。ですが……」
ジラは迷うように一点を見つめ、そして、ゆっくりと瞬きをした。
「代わりに、フィップがきました」
ヒューバートの顔が、つとジラへ向く。
彼女は、決して彼と目を合わせようとしない。
「勿論、命令違反だということは重々承知しております。しかし、私は、彼を追い返しはしませんでした。むしろ、隠れた彼を、引きずり出しました。無理矢理連れてきたと言っても過言ではないでしょう。ですから――」
「ジラ」
ヒューバートに呼ばれ、ジラは口を一度閉じ、固い表情で振り向いた。
「……はい」
「君は、フィップほど真面目な男が、職務を投げ出すなんて真似すると思うかい? 例え誰かに見られていなかったとしても、持ち場を離れ、裏庭へ行くと思うかい?」
「……いいえ。普段の彼ならば、決してそのような行動は取らなかったでしょう」
「私もそう思う。きっと、他の者もそう思うだろう」
口元を片方上げ、ヒューバートは小さく微笑んだ。
「だから、『そういうこと』にしておこうと思うのだけれど、君はどう思う?」
ジラの目を覗き込み、まるで内緒話でもするかのように、声を潜めた。
ジラは、答えを返さない。
代わりに、柔らかく目元を緩ませた。
穏やかな空気が、バルコニーへ滲んでいく。
「フィップは、彼女に会えたのかい?」
「はい。逃げようとしたニーナを、私達が捕まえたので」
「ははは。相変わらず恥ずかしがり屋だね、彼女は」
「えぇ、本当に」
ジラの笑みと共に、風が二人の間を流れていった。
「しかし、フィップも中々大胆なことをしたね。恋は人を変えると言うけれど、まさしくその通りだ。いやぁ、あのカタブツがねぇ」
「えぇ。あのカタブツが、まさかあんなことをするだなんて。私達も驚きましたわ」
「ん? なんだい、その含みのある言い方は? フィップが何かしたのかい?」
「はい。それはもう、普段の彼からは想像も出来ないようなことを」
「へぇ、それは気になるね。一体何をしたっていうんだい?」
手すりに腕を置き、ヒューバートは興味津々とばかりにジラを見やる。
それに答えるように、ジラは笑みを深くした。
「何も言わず、ただ懐から出した指輪を、ニーナに突き付けましたわ」
「……プロポーズか」
思わず身を乗り出した彼へ、ジラは一つ頷く。
驚きに固まったヒューバートは、ゆっくりと視線を彼女から床、己の腕と移動させていき、また彼女へと戻した。
「そ、それで、ニーナの返事は?」
瞬きもせず、ヒューバートはジラに詰め寄る。
ジラは、おもむろに、口角を持ち上げた。
「何も言わず、ただ泣きながら、左手をフィップへ差し出しました」
「……そうか……そうか……っ」
ヒューバートの顔が、綻ぶ。湧き上がる喜びを堪えるように俯き、両手を固く握った。
そんな彼を、ジラは優しい眼差しで見つめる。
「二人は今、共にいるのかい?」
「いいえ。フィップは持ち場へ戻り、ニーナは心を落ち着かせるため、少し空を飛んでくると」
「そうか……それは、悪いことをしてしまったね」
「そんなことはありません」
ジラは、ほんの少し前へのめる。
「ニーナは幸せです。フィップの妻として任務に臨めるのですから。フィップもそうです。ニーナの夫として、ニーナの大切なものを守るのですから。例え数分の逢瀬だったとしても、彼らは確かに、幸せなのです」
「……そうかな。そうだといいけれど」
「そうです。二人が夫婦の絆で結ばれたところを、私はこの目でしかと見届けたのですから」
きっぱりと、ジラは言い切る。
迷いのない瞳に、ヒューバートは何も言わず、静かに笑みを浮かべた。
「……なぁ、ジラ」
彼はふと、空を見上げる。増えたのか移動したのかは分からないが、厚い雲が月を少し侵食していた。空からの光が弱まり、その分、辺りは薄暗くなる。
ヒューバートは手すりに乗せていた腕を組み、一心に月光を眺めた。
「君は、今回の作戦、どう思っているんだい?」
「……どう、と言われましても」
「長としてではなく、ジラという一人の女性として、君の考えを聞かせて欲しい」
彼の言葉に、ジラは唇を結ぶ。眉間にも皺を寄せ、迷うように町を見下ろした。
ヒューバートは急がせることもなく、ただ月を見据えている。
「……私としましては」
つと、町から空へ、視線を移す。
「今回の任務、大変名誉なことと存じます」
宣言するように、背筋を凛と伸ばした。
「迫るブルーム軍に打ち勝つため、王自ら、我らの力を頼ってくださった。この事実は、きっと後世にも語り継がれるであろう、ブラックモア飛翔部隊の功績となるでしょう。一族を束ねる者として、これほど誇らしいことはありません」
「……君らしい答えだね」
ヒューバートは、苦笑いを零した。
「私はてっきり、本音を打ち明けて貰えるかと思ったんだけれど」
「今の言葉に、嘘偽りはありません」
「分かっているよ」
もう一度笑い、彼は口を閉ざす。
彼女も、押し黙った。
静寂の中、金と黒の髪が、月明かりを淡く反射する。
「……上に立つ者は、損だね」
ぽつりと、ヒューバートは呟いた。
「こういう時でさえ、体裁を保たなきゃいけないんだもの」
おもむろに、彼女を見やる。
「……大変だね、お互い」
口元を片方だけ上げ、困ったように微笑んだ。
ジラは、何も言わない。
ただ静かに、微笑み返すだけ。
見つめ合う二人を余所に、月は静かに食べられていく。三分の一ほどが雲に飲まれ、もう半刻もすれば、全てが覆われてしまうだろう。
任務開始まで、残り僅かだ。
「……あの、ヒューバート様」
先に目を逸らしたのは、ジラだった。バルコニーに差し込む月光へ視線を固定し、唇を一つ噛む。あの、と何度も繰り返しては、何かを言い淀んだ。
ヒューバートは、黙って彼女の言葉を、待った。
そうしてしばしの時が過ぎた頃、ようやく決心がついたのか、ジラはゆっくりと顔を上げ、ヒューバートを見据えた。
「一つ、お願いがございます」
「なんだい?」
「あなた様の、その……お、お
彼女の頬が、僅かに強張る。
「この作戦が成功するよう、お守りとして、持っていたいのです。ヒューバート様のお髪ような金色の夜明けを、この国に、もたらしたいのです」
下がってしまいそうな眉に力を入れ、ひたすらヒューバートの瞳を見つめた。
「……駄目、でしょうか……?」
不安が、声に混ざって吐き出される。
それでも、ジラは目を逸らさない。
ヒューバートも、彼女を見つめ続ける。
そして、ふっと、笑った。
「一本でいいのかい?」
「……っ、はい……はい……っ」
何度も頷くジラに、ヒューバートはもう一つ笑い掛ける。おもむろに手を上げ、己の髪を一本抜いた。金色のそれを、彼女に差し出す。
ジラは懐からハンカチを出し、ぎこちない手付きで広げた。そこで髪を受け取ろうと、両腕を伸ばす。
しかしヒューバートは、ハンカチの上へ乗せる前に、手を止めた。
何かを考えるように、金色の髪の毛を眺める。
「ヒューバート様……?」
ジラの戸惑いが、小さく響く。
だが彼はそれに答えることなく、唐突に、彼女の左手を掴んだ。
「え、あ、あの」
ヒューバートは何も言わず、ジラの左手を裏返した。
彼女の薬指に、己の髪を、結びつける。
ジラは息を飲み、その様を瞬きもせずに凝視した。
「ジラ」
彼の声に、彼女の全身がピクリと跳ねる。いつの間にか広げていた羽を収め、ゆっくり、顔を上げた。
してやったりとばかりに微笑むヒューバートと、目が合う。
「もし良ければ、君の髪も、一本貰えるかい?」
そう言って、彼は自分の左手を差し出した。
ジラは、目と口を開けたまま、固まった。ただただ、ヒューバートを見つめるだけ。
呼吸をしているかも怪しいその反応に、ヒューバートの笑みは、徐々に変化していく。
「駄目かな?」
眉を下げ、片方の口元を、ほんの少しだけ上げた。
まるで諦めたような笑い方に、ジラの手は咄嗟に動く。震えながらも、自身の黒髪を一本引き抜いた。
恐る恐る、ジラは彼の左手へ近付く。
軍人らしい節くれ立った中指と小指が、導くように左右へ逃げた。
強調される薬指へ、静かに黒を纏わせる。
二度ほど巻き付け、丁寧に蝶々結びを施した。
ジラの手が、恐る恐る、離れていく。
二人の視線は己の薬指に向かい、それから、相手の薬指へ移った。
左手が、ゆっくりと握り込まれる。
「ありがとう」
ヒューバートは、嬉しそうに微笑んだ。
ジラは顔を歪め、無言で首を振る。何度も、何度も。
彼は一度目を伏せ、手すりに両手を置いた。またバルコニーの外を、眺め始める。
彼女も、街並みを見下ろした。
静寂がバルコニーに訪れる。
二人は何も語らない。
ただ風の音と、鼻を啜る音が、小さく流れていくのみ。
月は、どんどん消えていく。底なし沼に飲まれていくが如く、その光は小さく、狭くなっていった。
厚い雲越しに、うっすらと残像が透けている。まるで抵抗しているかのような姿を、ヒューバートは片時も目を離さずに見据えた。ジラも月光の移り変わりを、身動ぎもせずに見つめた。
そして遂に、空は、黒い布に針で穴を開けたような姿となる。
「……そろそろ、時間です」
ジラが、静かに口を開く。
「……そうか」
ヒューバートも、ぽつりと呟いた。
一拍の無音を置いて、おもむろにジラが動き出す。膝を付き、頭を、深く垂らした。
「行って参ります」
「……あぁ」
ヒューバートは、彼女へ真っ直ぐ向き直る。何かを言いたげに、目に焼き付けるように、目の前の女性を見つめた。
ジラは立ち上がる。頭を上げ、ヒューバートを見た。
つと交わった視線。互いに何も言わない。笑い合いもしない。ただひたすらに相手を見据え、心の中で言葉を紡いだ。
蝙蝠の羽が大きく広げられる。
ジラはバルコニーの床を蹴り、もう一度ヒューバートを見てから、踵を返した。凛々しい長としての顔付きで、仲間の待つ裏庭へ急ぐ。
闇夜に紛れる彼女の背中を、ヒューバートは見えなくなるまで視線で追った。
先ほどまでとは違う沈黙が、バルコニーを包み込む。
ヒューバートは目を伏せ、じっと虚空を眺める。意味もなく拳を握り、開いて、また視線を敵の方角へ戻した。
その時、不意に、視界の端を何かが掠める。
咄嗟に振り向き、ヒューバートは護身用の短剣を抜く。
そこには、一人の男がいた。
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