第3話 温泉小屋
<けいらん>をごちそうになり腹も満たされた。
たくさん涙を流して、心の中の雲が少し晴れた津村は、
僧侶に深く頭を下げて寺務所を後にした。
今夜は恐山境内の片隅にある、湯治場に泊まることになっていた。
僧侶の好意により夕食も用意してくれるという。
恐山の境内には、それぞれに名前の付いた効能の違う五つの温泉小屋が有る。
湯治客や参拝客は自由に入れるようになっていた。
僧侶のすすめで、その中でも
名湯と誉れの高い<花染めの湯>を選んだ。
中国の神泉「朱砂湯」のような類稀な湯だという。
温泉小屋の引き戸を開けると、温かい湯気の向こうに先客が二人。
一人は若い娘で、もう一人は頭の禿げ上がった老人だった。
老人は湯ぶねの前に座り込み、
ひたすらブツブツつぶやきながら、自分の頭に繰り返し湯をかけている。
その様子を娘は湯ぶねに浸りながら、不思議そうに見つめていた。
遠方から恐山詣でに来たのか、それとも山に住む娘なのか。
今時分ここにいるのは、やはり湯治客に違いない。
湯は少し熱かったが、心地良くて体がとろけてしまいそうだった。
津村が「ふーっ」と深いため息をつくと、
娘が「くすっ」と笑った。
花染めの湯は乳白色でかすかなとろみがある。
歳の頃は十二、三だろうか。
ほんの、わずかに透けて見える湯ぶねに浸かった娘の体を横目で見て、
ひどく物足りなさを感じていた。
ふくらんだ乳房がまだ固そうな、花ならつぼみのような娘だった。
娘も津村をチラチラと見ていた。
さほど広くない温泉小屋だが、湯ぶねは広くゆったり作られている。
溢れ出る熱い秘湯にのぼせそうだ。
窓を開けなくともヒバの戸板の間を風が通りぬけてゆく。
恐山の大地から湧き出す豊富な源泉が筒から流れ出て、
湯船を満たす音は、ヒューヒュー鳴く風の音に消される。
老人は柄杓で湯を汲んで、飽きずに頭にかけ続ける。
「おじいちゃん、ここの湯は硫黄だから目に入ると大変だよ。
目が潰れてしまう。
湯を頭から被らないほうがいいよ」
老人は無言で、柄杓を動かす手を止めない。
「せっかく教えてあげたのに。
耳が聞こえないの馬鹿なの、ぼけてるの」
「こらこら、目上の者にそんなこと言うものじゃない」
津村が娘をたしなめた。
娘は不機嫌そうに、勢いよく湯ぶねから立ち上がる。
極上の<花染めの湯>に浸かっていた体は、
その名の通り艶やかな薄桃色に染まっており、
思いがけず匂い立つような色っぽさであった。
男は濡れて張り付いている娘の赤い腰巻を、
剥ぎ取りたいような凶暴な気持ちになったが、
湯ぶねに肩まで浸かって目を伏せた。
男たちに背を向けた娘は、
温泉小屋の隅で湯の滴る腰巻を外してギュと絞る。
月見団子のような丸い小ぶりな尻と、
贅肉のない少女特有の細くしなやかな四肢を
手ぬぐいで、さっと拭くと浴衣を羽織り、
ガタンと大きな音を立てて引き戸を開けて出て行った。
風が引き戸を開けようとして、ガタガタと音をたてている。
恐山の強い風は温泉小屋ごと吹き飛ばすかもしれない。
「ご老人、何故そんなに湯を頭にかける」
「一日、千回かけるのじゃ。冠湯じゃよ。
大医王薬師如来から賜ったもので,神の教えじゃ。
万病に効くのじゃよ。まったく近頃の若い者は、そんなことも知らぬのか。
西洋医術はいいが、日本古来の医術も知るべきじゃな」
老人はため息をつく。
「そうだったのか。あれは孫娘かい」
「知らん娘じゃ。あんな気の強そうな娘はめったにおらん。
だが、なかなかいい女じゃな。かぶりつきたくなるような尻じゃった」
老人は好色そうな顔をした。
「えっ、まだ子どもだろう」
「いや、あんたに色目使ってたじゃろ。気づかなかったかい。
あんたは若くて、なかなか男前じゃ。
さては、あんたと二人っきりになりたくて、わしが邪魔だったのだな。
色気づきおって。わしが今夜、夜這いして思い切り啼かせてやるわい」
「はははは・・・・・・」
津村は苦笑する。
「ずいぶん日に焼けておるな、漁師か。
いや、まてまて腕に刀傷があるな。武士か。
箱館帰りの幕府脱走兵だな。
ふむ、そういえば髪の形が土方歳三みたいじゃな。
さぞかし箱館では悔しい思いをしたのじゃろうな。
土方歳三に会ったことがあるかね」
老人は手ぬぐいで顔を拭うと、目を大きく見開いた。
下北と箱館は近い。
本州最果ての大間の港からは箱館港が見えるらしい。
この辺の人々にとっては、最も身近で大きな関心事が箱館戦争だったのだろう。
「土方殿には、お会いしたことがある。共に戦った。
素晴らしい指揮官で、尊敬している」
おれは函館へは行っていないが、鳥羽伏見の戦いで土方歳三率いる新選組と会津藩は共に善戦したのだ。
あの戦で多くの友が命を落した。
おれは腿を打ち抜かれ、不自由な体になった。
伏見で馬に乗った土方歳三を、ほんの一瞬見た。
鬼の副長と噂に聞いていたから、強面の武士だと思っていたが、違った。
高く良く通る声で見方を鼓舞していた。
箱館で戦死したと聞いた。
おれは、なぜか、まだ生きている。
呑気に湯に浸かっている。
とろみのある湯を浸み込ませる様に体中を手で摩る。
「そうじゃろうな。うちのせがれが箱館へ出稼ぎに行った時、
みやげに土方歳三の<フォトガラ>を買ってきたのじゃ。
それ以来、うちの婆さんが土方歳三をえらく気に入って、
毎日<フォトガラ>を見ては喜んでおるのじゃよ。
明日家に来て、婆さんに土方歳三の思い出話を聞かせてやってくれんかのう」
「思い出すのは辛いな。悪いが、まだ話したくない」
津村は体から湯気を出そうなほど、赤く火照った体で
<花染めの湯>を後にした。
風で浴衣をふくらませながら、白い砂をざくざくと踏みしめて宿へ戻った。
老人はまた柄杓で湯を頭にかけ始める。
薄い壁で仕切られた湯治宿の部屋は狭いが、ヒバの木の香りが漂い心地良い。
板の床に、すでに敷かれている夜具にごろりと横になる。
枕元には、何かの木の皮で包まれた握り飯と漬物が置かれている。
<花染めの湯>の効能で足の痛みも癒えた。
骨の髄まで温まり、ほぐれていた。
大きく開いていた心と体の傷口がどんどんふさがっていく。
何だか久しぶりに気分がいい。
恐山とはオドロオドロしい名だが、まるで極楽のようだ。
ところで<フォトガラ>とは一体、何なのだ?
あの娘はこの湯治場のどこかに居るのだろう。
まさか、一人のわけは無いな。
家族で湯治に来ているはずだ。
ふん、夜這いか・・・・・・
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