第13話 アップルボム

 とにかくフレッドのところに行きたい。だけど動いたら落ちてしまいそうで、体は強張っていた。

 揺れはおさまっていたけれど、何かが起きたことは間違いない。マキアから聞いたことを教えなくてはいけない。どうしてでも戻らなくては。

 でも、動けない。しかも、手にはりんごまで握らされていて、邪魔だ。転がって落ちてしまいそう。

 何も伝えることなく、ここからずるずると落ちて……。

「エルナ!」

 近くでフレッドの声がした。顔をゆっくりそちらに向けると、必死の形相のフレッドが屋根から顔を出していた。こんなところに、どうやって?

「フレッドって空飛べるの? そんなところにいて」

「バカか、梯子に決まっているだろう!」

「ああ、そうですね」

 またバカって言った、とひねくれそうになるが、それどころではない。

「聞いてフレッド。ダミアンは、この世界に疫をもたらす竜のような姿になってしまうかもしれないの。どうにか抑えられないと!」

 もう手遅れかもしれない。だが、フレッドがここにいるということは、まだそこまで事態は悪化していないように思えた。

 フレッドはさっと顔を青くする。

「なんだって……とにかく、エルナ。こっちに来い。降りろ」

 フレッドは思いっきり手を伸ばし、こちらに手を伸ばすが、まるで届かない。

「降りたいのは山々だけど、ちょっとでも動いたら落ちてしまいそうで……」

 力なく笑うと、フレッドは珍しく眉を吊り上げた。

「だからエルナはバカだというのだ! 落ちる前から落ちる心配をするな!」

「いや、でもそんな根性論じゃ無理っぽい……」

 強風の中、力強く握ったりんごだけをゆっくり差し出す。

「これね、マキアが逃げる直前に私に渡したんです。きっと、何かある。役立つものか、そうでないか分からないけど」

 ゆっくり右手を差し出す。もっと体を伸ばさないと届かない。これを渡せたら、落ちてもいいかもしれない。そう思えて、エルナはさらに体を伸ばせた。

 この国も、兄も、そしてフレッドも、みんなを救えるのなら。

 そう決意して、さらに体を伸ばすと、右手首を掴まれた。フレッドも不安定なようで、体をぐらつかせる。それを見て、エルナは首を振った。

「フレッド、ダメだよ。二人とも落ちちゃうよ」

 そうは言いつつも、エルナは必死に掴んでくれるフレッドがありがたかった。本当なら離して欲しくないけれど、でもフレッドはこんなところで落ちてはいけない。

「バカと何度言わせる! 俺はエルナくらい助けられる」

 そう言うと、エルナを力強くひっぱった。ずるずると、屋根の上をすべっていく。突起物が何もないことが幸いだった。だが、フレッドもまた体勢を崩す。エルナは青ざめて、手を引こうとする。

「もう無理だってば……ありがとうフレッド。こんな私に良くしてくれて。ちょっとは好きだったよ」

 だが、フレッドは手をより強く握った。

「諦めるな。まだ事態は何もおさまっていない。ひとりで楽になろうとするな」

 ひとりで楽に? そう言われて、エルナは自分が逃げているのだと気が付いた。

 何とかしたいといいながら、最悪の事態を考えていた。疫病にまみれた世界を見たくない。心の中でそう思っていたのではないか。

 エルナは強張った体に血が巡っていく感覚に目が覚めた。

「わかった。もっとひっぱって!」

 フレッドは笑顔になると、自分の体を支えながらエルナを引っ張る。それに力を借り、エルナは少しずつフレッドに近寄る。

 もう少しだ、と安心しかけたとき、足が滑る。まずい、と絶望的になりかけたとき、エルナは宙に浮いた。だが、フレッドに右腕を掴まれていた。

「危なかった……」

 フレッドの笑顔に、エルナはぼんやりとしてしまう。この人、超人? 力ありすぎ。

 だが、当然そうではなかった。上を見上げると、三階の窓から梯子を兵士が抑えていた。中にはフレッドを抱きしめている者も。がちゃがちゃ甲冑の音をさせながら男たちは梯子を支えていた。

「なんだ、みんないたんだ」

 のんきに観察していると、フレッドが苛立つような声で言う。

「早くあがってこないと、俺の腕力が持たない……」

 それはまずい、とエルナは梯子に必死にしがみつく。エルナだって、肩が外れそうなのだ。

 梯子は二階の出窓から出ていて、そこにも兵士がいて支えていた。

 どうにかフレッドにしがみつくようにして、落下を免れた。一同、ほっと一息つく。

「よし、じゃあ梯子に掴まれ。先に俺が入って、エルナを引き入れるから」

 手を離したフレッドは、先に三階の窓に入り込むと、エルナを受け入れようと手を差し出した。フレッドに抱きかかえられるように、エルナは無事、王宮内に生還した。

 どっと疲れた。フレッドもエルナも、しばし黙り込んで床に転がった。

 今になって体が震える。先ほどまでは震えることも出来ずに固まっていたから。あまりに力強く握りすぎて、りんごが少し潰れている。

「ありがとう、フレッド」

 息も絶え絶えに言うと、フレッドは照れたように笑った。

「早く、ダミアンのところに! さっきの揺れはなんだったの?」

 その言葉で、一同は立ち上がる。

「あれは、ダミアンから妙な力が放出されただけだ。だが、何も良い方向には向かっていない」

「行ってみましょう」

 フレッドを先頭に、皆がわらわらとダミアンの元へと走る。そこで、ひとりの兵士に耳打ちされた。

「エルナさん」

「なんですか?」

「フレデリック様、こんな時ですから、ダミアンの元から離れないで欲しいと言いました。ですが、どうしてもエルナさんを迎えに行きたいと言って聞かなくて」

 そう言うと、にやぁと顔を緩ませる。

 それどころじゃないだろう、と言いたくなるが、エルナは笑顔で受け取っておいた。馬車を動かした兵士といい、この国の兵士はそういうことが好きなのか?

 でも、フレッドがそう言ってくれたことが嬉しかった。どうして嬉しいなんて思うのだろう?

 首を捻りながら、ダミアンの元へと向かった。


 ダミアンは、変わらず牢の中にいた。だが、先ほどまでと違いまとう雰囲気はより恐ろしく感じる。もしかしたら、もうそろそろ竜のような姿になって……さすがのエルナも、それ以上暗いことは考えられなかった。考えるのもおぞましい。

 その場の空気は、動くことも躊躇われるくらい緊迫した。

 そんな中、一人の兵士が動く。

「今のうちに、殺してしまいましょう。手遅れにならないうちに。ただでさえ、時間を無駄にしたのです」

 兵士の中でも、年嵩の男がフレッドに進言する。兵士たちも、同意するように声をもらした。フレッドはすぐに返事はしなかったが、肯定とも取れる沈黙で考えていた。時間の無駄、とはエルナのことだろう。

 殺す? 確かにダミアンさえ殺してしまえば、当面の危機は去る。だけど。

 エルナがダミアンを見ると、顔を伏せたままのダミアンがピクリと動いた。

「エ、ルナ」

 聞き間違いか、というほどのか細い声がした。ダミアンの声。その場にいた兵士たちを静かにさせる。すると、またもエルナの名を呼ぶ。

「どうして、私の名を……」

「エルナ」

 顔をあげたダミアンは、いつもどおりの間抜けな顔だった。

「殺してもらって、構わない」

 そして、へらへらと笑う。そんな状況じゃないはずなのに、ダミアンは笑顔だった。いつもの間抜けでバカなダミアンだ。

「私は、エルナを悲しませたくない。それに、世界を制圧するつもりはない。マキアに利用される立場にすぎないのだから、これくらいは自分の意見を通させてくれ」

「ダメだよ!」

 つい格子に手をかけて叫んでしまった。辺りが凍りついたように静まる。

「ダミアンを消して、それでおしまいって……そんな……」

「だが、それ以外にいい方法などないだろう?」

 諭すように言われ、エルナは何も言えなかった。

 何か、他に方法はないのか。だって、今こうして普通に会話出来るのに。どうなるかもわからない。所詮はマキアの戯言かもしれないことで、殺すことなんてできない。

 エルナは、格子を強く握り締めたまま、何も言えずにうつむいてしまった。

 そこに、フレッドが声をかけてくる。

「エルナ、気持ちはわかるが、俺はこの国の上に立つものとして、ぐずぐずと考えてはいられない。……ダミアン、すまない」

 躊躇うように言ったフレッドが、エルナの肩を握る。

「いいんだ、フレッドにはフレッドのやるべきことがあるさ」

 笑顔で言われると、フレッドも心苦しいのか。顔を逸らして、悔しそうに謝罪する。

「本当に、すまない。ダミアンとは、もう何度も会っているから……いいや、やめておこう」

 思い出は、判断を鈍くする。フレッドは過去を切り捨てた。エルナの肩を握る手が小刻みに震えている。フレッドだって怖いのだ。何度もここに呼び出される度に会話を交わしたダミアンは、赤の他人ではないだろう。エルナよりも長い期間一緒だ。フレッドを抱きしめてあげたい気分になった。

 フレッドの気持ちも、ダミアンの命も救えないなんて。

 自分は、最初から非力だった。違法カジノでイカサマしか出来なくて、それなのにここにいて……。出来ることなどないのに。急に無力感に苛まれ、ぐっと手を握る。そこに、まだりんごはあった。

 どうして、マキアはこれを渡したのだろう。

「フレデリック様、ご決断を」

 兵士に促されるように、フレッドはエルナから離れる。だが、それを抱きつくようにして止めた。

「待って!」

 全員が、エルナに注視した。

「エルナ?」

 怪訝そうに、フレッドが振り向く。後ろから抱きついたエルナは必死に考える。

 マキアは、ゴメンと言って、これを渡してきた。手のひらに乗せたりんごを見ると、それはわずかに光っているようにも見えた。

「すまない。もう、限界かもしれない……ありがとう、エルナ、フレッド」

 それだけを言い残し、ダミアンはまたガクリと頭を垂れた。そして体から見えない力が湧き出る。それは風でもないのに、その場にいた人間をふきとばす勢いだった。

「ダメだ、時間がない」

 フレッドが言うが、エルナはりんごを見ていた。

 ダミアンが力を出したことに呼応するように、りんごは光った。これは、マキアが何か力を与えたということなのだろうか?

 だとしたら、どんな?

 マキアは、逃げた。これを託して。信じていいのかと、躊躇うのは一瞬だった。

 ダミアンの皮膚が、黒くなっていく。

「もう時間がない!」

 フレッドは厳しい声でエルナを牢獄から離れさせようとする。

「待って! 最後に試させて!」

 地鳴りのような音がした。ダミアンは体を大きくしていく。バカみたいな、キラキラの衣装がちぎれてゆく。

「牢をあけて!」

「エルナ? 何をするつもりだ」

 フレッドに、エルナはしっかりと、自信を持った声で言う。

「私を、信じて。ダメなら……ダミアンを、殺して」

「しかし、エルナも巻き込まれるかもしれない」

「そんなことにならないもの!」

 根拠も何もないけれど、力強い言葉が出来てきた。

 それに対し、フレッドは躊躇う間もなく頷いた。

「すぐだぞ。猶予などない。よし、みんな、用意しろ! 命を下すまで待て」

 兵士たちは、武器の準備を始めた。

 フレッドが牢の鍵を開けると、エルナはすぐに入り込んだ。

 どうか、マキアに気持ちが届いたように。そう祈りを込めて、りんごを、牙をむき出しにしたダミアンの口に放り込んだ。ぐり、とその牙が手に刺さるが、りんごを手から離すまでは。エルナはうめき声をあげたいところを我慢しながら、りんごを口に入れてそれを両手で閉じる。大きく裂けた口に、りんごはすっぽりとおさまった。

 自らの手のしたたる血を見ながら、エルナはダミアンの変化を見守った。

 お願い、どうか……。

 戸惑ったようなダミアンは、しゃり、とりんごを噛む。すると、目をとろんとさせ、へなへなと地面に横たえた。体はどんどんとしぼみ、元の白い肌に戻った。そして、いつもの間抜けな顔に戻っていた。口からは、赤いりんごのカケラがぽろりと出てきた。

 成功したのか、とエルナは牢の中にへたり込んだ。

 兵士たちの歓喜の声を聞きながら、エルナはそのままダミアンの隣に倒れこんでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る