第12話 <疫>

 甲高い音をたて、風は容赦なくエルナに当たって来る。落ちないように、必死に青にしがみつく。うつぶせで這うように移動し、どうにか上体をあげて腰を下ろしたが、手と足で体を支えているため、これ以上動けなかった。

 ――落ちたら、きっと遠くに見える地面に体がめりこんで、人型がくっきり現れるんだ。それを見に来る人でしばらくは地中に埋まったまま処理すらしてもらえないのではないだろうか――。

 ここまで来ておいて、下を見て背筋を凍らせた。

 今いるのは、空に浮かぶ宝石と言われる、王宮の屋根の上だ。空の色と海の色を足したような青をしている。

 屋根の上は緩やかな傾斜がかっており、掴まるところもない。風にあおられ、落ちてもおかしくない。寒さと恐怖で顔を青くしていると、猫の姿のマキアはおかしそうに笑った。

「気楽な気持ちで、ついていく、なんて言うからだよ」

「別に、後悔などしていないけど」

 強がって言うと、マキアはおかしそうに喉を鳴らした。

「そこまでしてボクと話したいことって何? アイツをどうにかする方法なんて教えないよ」

 挑発してきている。だけど、むやみに教えを請うてはだめだ。少しずつでいい。

「はい、りんご」

 茶色の紙を開くと、こぶし大の赤い実が出てくる。紙は、風に乗って飛んでいった。太陽に焼き尽くされるかのように、光の中に消えてゆく。

 マキアはりんごを貰ったが、少しにおいを嗅いだだけでしゃぶりつこうとはしなかった。賄賂失敗か、とエルナは忸怩たる思いで見る。もっとも、マキアがそんなことでなんでも話してくれるとは思えないが。

「ねぇ、どうしてこの世界を制圧したいの? ただ理由もなしに動くわけじゃないよね」

 相手の自尊心をくすぐりながら話す。こちらは丸腰で、ひとりだったらここから降りられないかもしれない状況でもある。そこまで追い込んだ人間相手なら、多少は口が軽くなる。

 マキアも、その理由くらいは言ってもいいかというように迷いを見せた。理由もなくやるようなバカだとは思われたくない。誰だってそう思うだろう。

「そりゃ、理由はあるさ。でも、言っちゃうと怒られるんだ。お父様に」

「ふぅん。お父様は怖い人なのね」

 お父様、という些細な失言を掘り出すことに成功し、エルナはにやけたいところを抑える。

「そう。世界のひとつも取れないで、わしの跡継ぎにはさせないってさ……。今までいろんな世界を制圧しようとしたけど実力不足でさ。ここで、ようやく成功しそうなんだ」

 そこまで言うと、さすがに言い過ぎた、と感じたようだ。途端に口をつぐむ。

 エルナは落ち着いて、どうにか話を引き出そうとした。

「そっか。じゃあ、マキアが成功すれば、偉い人になれるのね」

 偉い人、という言葉に反応する。ぴくりと耳が動く。

「まあ、ね。ボクたちは君たちよりだいぶ長生きするんだ。こう見えて、結構いい年だよ、ダミアンも」

 少年の容姿で「いい年」と言われても。そこは聞いてもわからないので、話をかえた。一度、口を閉じて口内を湿らす。緊張と風でカラカラだ。

「ダミアンも、同じ世界の人なのね」

「そうだよ。ボクが呼び出すことで、彼には尋常ならざる力を手に入れてもらうはずなんだけど、まだボクの力が弱くて、あんな感じ」

 どういった理屈か尋ねてみたいが、聞いたところで理解出来そうもない。そういうものだと思って諦めよう。

「ダミアンのもともとの性格は、どっちのほうなの? 明るい方? それとも今みたいな?」

「明るい方。底抜けにバカなんだよ、アイツ」

 バカとは言いつつ、どこかおかしそうに笑っていた。

 核心をいつ突くべきか、エルナは判断に困った。悠長に会話しているわけにはいかないが、焦ったら何にもならない。

「あんな姿になってしまったら、なんだか可哀想」

 エルナは、ついぼやいてしまう。それは失策だった。

 人の心など操れるものではなかった。今のエルナの不用意な一言で、マキアは体の毛を逆撫でさせた。

「だったら、元通りに戻してやれと? それは嫌だと言ったはずだ」

 しまった。慣れない事をしてもうまくはいかないものだ。だが、ここまで来たからには、少しでもフレッドの役に立つ情報を仕入れなければ。

「マキアは、この世界を愛していないの?」

 率直な思いを伝えた。探りあいをするには時間が足りない。それに、マキアは見た目と違ってしたたかだ。「いい年」というのも、そうなのであろう。最初に出会ったときの、老獪さを思い出す。

 すると、猫のマキアはふぅん、と鳴き声にもならない声を出す。

 すぐにでも「愛なんてものはない」と言うと思ったのに。

 もしかして、マキアにはまだ迷いがあるのかもしれない。光明を見出したエルナは、気持ちを落ち着けて尋ねる。

「跡取りのために、みんなをどうするつもり?」

 具体的に何をするか知らない。あえて口にださせて、思いとどまってもらおうとたたみかける。

「……ダミアンは」

 聞こえないくらいの声は、風にかき消されそうだった。聞き逃すまいと、エルナは必死に耳をそばだてる。

「もし成功していたら……これから空を飛ぶ。こっちで言う、ドラゴンのような姿になって、世界中に〈疫〉をばらまく」

 すぐには、返事の出来ない言葉。エルナはしばし呆然とした。

 聞き間違えであってほしいと願わずにはいられない内容だった。そんなにも恐ろしいことを実行しようとしているなんて。

 エルナは言葉が出なかった。どうにかして止めないと。でも、無理なのではないか。ダミアンがすぐにでも動かないことを祈るしかないが、もし目覚めてしまったらどうしようもない。

 疫がばら撒かれ、この世界が、終わるなんて。

 エルナは今にも泣き叫んで、逃げてしまいたい衝動にかられた。逃げるといっても、どこにも行けない。知らず荒くなった呼吸のまま、マキアを見る。

 すると、マキアも実際にしでかす事の大きさをかみ締めたのか、先ほどまでとは違い顔が曇っている。

 エルナは、自分が冷静になるのがわかった。

 やはり迷いがある。だったら、まだ諦めるわけにはいかない。この世界を守るために、エルナは自分が出来ることを考えた。

 フレッドの顔が浮かぶ。あの人につなげて、未来を作らないと。もし自分がここから無様に落ちても、マキアの心を少しでも変えさせることができたなら。

 エルナは心意気を新たに、マキアに話かけた。

「短い時間だったけど、少なくとも私はあなたと友達になれたと思っていた。もしかして、今回ダミアンがああなったのも、迷いがあったからじゃない? 本当なら力があるはずなのに、迷いから中途半端になってしまった」

 マキアは黙ったまま、青の天井を爪でかいた。耳障りな音がしたが、エルナは手で必死に体を固定させているので、耳をふさげない。

 顔を歪ませていると、マキアは爪を動かしたまま言葉を発した。

「今からじゃ、間に合わないかもしれない」

「いい。それは、私たちの努力で変わるはずだよ」

「ボクは別に、この世界を愛しているわけじゃない。ただ、エルナがそんなにも悲しそうな顔をするなんて……」

 爪を止め、じっとエルナを見る。

 悲しそうな顔など、しているつもりはなかった。確認出来ないが、切羽詰っているのは確かだ。

「ボクにはわからないんだ。守りたいものとか、世界とか。エルナは知っているの?」

 一瞬、あっけにとられた。それすら理解せず、ただ世界を制圧して跡取りに? 親は一体何を教えているのだ。

 腹立たしくなりながらも、エルナはどうにか笑って答える。

「知っている。見て。この世界の空。マキアの世界の空はどんな色?」

 見上げた空は、いつもより近い。流れる雲に乗れそうなくらい。澄んだ空はどこまでも続いていた。

「変な色だよ。この世界にきて、初めて空が美しいと思った」

「じゃあ、人は? ここの世界の人は温かいの。私みたいな、お金も地位もない女でも、こうして楽しく暮らしていられるの。マキアの世界はどう?」

「どうだろう。ダミアンも言っていたけど、女が怖い。男を自分の奴隷だと思っているんだ」

 年寄りのようにぼやく姿に、ふふっ、と笑みを漏らすと、マキアは怪訝そうにエルナを見る。

「ゴメン。でもね、こっちもそういう人、いるから」

「そうなんだ。エルナは違うよね」

「どうかな」

 自分ではわからないから、あいまいに答える。

 マキアはじっと空を見上げ、呟くように嘆いた。

「こっちの世界とは、すべてが逆で……花は醜いし、星は怖い。闇を好んで明かりを嫌う。人との繋がりはばかばかしくて、無意味だということも。だけど、争いだって悲しみだって、好まれているわけじゃない。それはこの世界と一緒なんだ」

 繋がりがばかばかしいとは。本当に、何もかも逆というより、美しいものがないみたいだ。

 どんな世界で育ったのだろうか。考えると、胸が締め付けられる思いだった。このような状況で育ったマキアに、わかってもらえるのだろうか。

 エルナは、言葉を選びながら伝える。

「そういうつながりは、どこも一緒なんだと思う。たとえばかばかしくても、ひとりでは生きていけないでしょう。あなたの世界も、この世界も。誰かと誰かがいて、それで成り立っているの」

 人と人。それはエルナとベネディクト、フレッドとリカの兄妹でもそう。家族、友達、恋人……すべてがつながっていて、それがうっとうしくも、たった一筋の光のようについていきたくなるものだ。

「マキアと私もそう。マキアは、ここの人とはもう繋がってしまったの。切っても切れない糸で繋がれている」

 そして、マキアの方を見る。

「マキアが、マキアの意思でこの世界を疫病で制圧したいというのではないのなら、一度考えてみて。この世界を、そんな風にしてみたいか。ただ、あなたのお父様に言われてやるというだけなら、マキアはただのバカよ」

 一か八か、バカと罵ってみた。ここまできたらもうどうにでもなれ、という気分になってしまったからだ。

「ボクが、バカだって……?」

 怒りを込めた瞳を向けられ、エルナは強気の視線を返す。

「そうよ。ただ操られているだけじゃない。どうして世界を制圧する必要があるのか、考えもなしに動くなんておかしいじゃない」

「してみせないといけないんだ! それが、ボクの使命なんだ……」

 どんどんと、声がか細くなる。使命だなんて言い張ってはいるが、本当はやりたくないと認めたようなものだ。

「マキアは、私が好き? 嫌い?」

 いつもだったら、こんなことは聞かない。だが、ことがことだ。エルナは必死すぎて、いつもの自分よりも落ち着いていた。

 風の中、マキアは「好きだけど」と呟く。エルナは、精一杯の笑顔を見せた。

「だったら、私と、私の大切な人を助けてはもらえないかな」

 そう提案すると、マキアは照れたように前足で顔を擦った。

「うん……そう、だね。だったら、ダミアンに……」

 ようやくマキアの心がこちらに向いてきたとき。

 王宮の屋根が大きく揺れた。

 ただでさえ落ちやすいのに、と焦りながらも屋根にへばりついてその揺れで落ちないようにする。

 もしかして、とマキアを見ると、同じように低い姿勢のまま爪で体を支えながら、エルナを見た。

「ダミアンが、目覚めてしまった」

 そう言うと、マキアは揺れが落ち着いてきたところを見計らい、りんごをこちらに寄越した。

「なんで私に」

 驚きながらも、転がらないように手で握っていると、ひらりとマキアは姿を消してしまった。

「ゴメンね」

 そう言い残して。

 エルナは、屋根にはいつくばったまま、どうしようかと考えていた。

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