第3話 人間評価

「エルナ、起きろ」

 聞きたくもない人の声で目が覚める。

 部屋の中が明るい。

 夜の開店にあわせるには、もっと遅い時間には用意を始めている。もう一回眠ると起きられなくなるし。そろそろ準備をしよう。そう思って体を起こす。ぼんやりとした視界に、ベネディクトの姿。しかし、その後ろは見慣れない壁紙で、ランプもついていて……。

 あ、そうか。王宮につれてこられて眠ってしまったのだった。夕方ではなく朝だ。

 夢ではなかった。

「おはよう、エルナ」

 そのことより驚いたのは、目の前にベネディクトがいるということ。

「兄さん、なんでいるの?」

 寝ぼけた声で尋ねると、いつもの笑みを浮かべた。妹的には腹立たしいだけの、人を虜にする顔だ。

「妹が連れて行かれた! だなんて、一大事じゃないか。追いかけてきたらここにいるということで通してもらったのさ」

 平然と言うが、ここは王宮ではないか。

「どうやって入ったの? いえ、どこから侵入したの?」

 冴えてきた頭で畳み掛けるように言うと、ベネディクトは肩をすくめた。

「酷いことを言うなぁ。ちゃんと、正面から入ってきたよ」

「ちゃんと、というには問題があるように思えたが?」

 開きっぱなしの大きなドアを片手で軽々と閉めながら、フレッドが入ってきた。手には、抱えるほど大きな籠。

 それに対し、珍しくベネディクトは不機嫌な顔になる。

人たらしのベネディクトは、嫌なことがあってもそんな顔は見せない。

「おにーちゃん、なんか、アイツ好きじゃない」

 ぼそりと、エルナにだけ聞こえるような声で言うと、急いで笑顔を作った。

「いやぁー、正門でモメていたら、フレッドくんに助けてもらったわけさ。ここにエルナがいるのは突き止めたんだけど、中には簡単に入れないから」

 そういうことか。でも、なんで二人とも睨むように見つめ合っているの?

 妹を連れ去られたベネディクトが怒るのはともかく(そんなことで怒るような性格かはさておき)フレッドまでも。

「お兄様だということは、俺も事前の調査で知っていたからね。事情を含め、いろいろ説明しないといけないと思って」

 籠を置きながら、フレッドが不機嫌に話を進める。

 部屋がさらに明るくなってきた。朝方の太陽が、東側の窓から見える。南にも窓があるし、とても日当たりのよさそうな部屋だ。もったいない。

「ここには、着替えが入っている。他にも必要なものがあれば、なんでも言いつけてくれて構わない」

「どうも」

 なんでも言いつけてくれ、とは凄い言葉だ。本当になんでも言いつけていいのだろうか、とわくわく胸躍らせていると、フレッドのつんとした声がした。

「とりあえず、風呂に入れ。小汚い格好でずっといられると困るんだ、こちらも」

 随分な言い様に、エルナもかちんとくる。だが、衣食住を世話になる主人にたてつく気はない。嫌われないようせいぜい努力しておこう。

 だが。

「俺の妹を汚い呼ばわりするとは、いい度胸してんな」

 余計なことを。思わずエルナは額を覆った。どうしてこの人は物事をおだやかに終わらせようという気がないのだ。

「兄さん、いいから。お世話になるのは私たちなんだから」

 服の裾をひっぱり、エルナは遠慮がちに言う。

 すると、ベネディクトはエルナを振り向いた。ちょっとした笑顔で。

「ちょっとはカマしておく。少しでもここにいるためにな。アイツムカつくし、搾り取ってやろうぜ」

 その小声にまたも呆れる。この兄が、妹の為を思って、なんてあるはずがないと分かっていたが、やっぱり過ぎて力が抜けた。エルナはベッドに座りこむ。

「兄さんもここに来る気?」

「そりゃー、エルナが心配だもん」

 嘘付け、と言いたいところを我慢する。女さえ連れ込まなければいいが、とエルナはげっそりする。

「で、ウチの妹は何をすればいいんだい?」

 妙に張り切った声で尋ねる。結局、働かされるのはいつだってエルナだけだ。

「会ってほしい人物がいる。だから、着替えて」

「俺はどーすんの?」

 どーすんの、って何かする気があるのか。逆に尋ねてやりたい。

「お兄様は、こちらの部屋でお待ちください」

 シレっと無表情で、フレッドは冷たい目線をベネディクトに向けた。

 生真面目そうなフレッドと、軽薄を形にしたベネディクト。合うわけがない。

 二人の男に挟まれ、エルナはひっそりとため息をつく。


 なんじゃこりゃー! と言いたいところをぐっとこらえる。部屋の外にはフレッドがいるのだ。

 風呂でさっと汗を流し、髪を乾かしていつもどおり耳の上でひとつにくくる。

 ふわふわした地毛は、巻いてもいないのにたくさんの弧が描かれている。まっすぐな髪に憧れたことも合ったが、ないものねだりは時間のムダなので考えないようにしている。まっすぐな髪でご飯が食べられるならまっすぐのほうがいいけれど。

 やたらに重たい、たっぷりの布を使った服を悪戦苦闘しながら着用する。いわゆるドレス。豪華な服。引きずりそうなスカートの裾には白いレース。エルナの瞳の色と同じ、紺に近い青が主な色だ。腰を曲げることを考えていないような太いコルセット型のベルトは、黒色でウエストを引き締めている。そこまではいい。だがしかし。

 今までも十分な問題だが、ここからが、本当のなんじゃこりゃーなのだ。

「平面人間に対して、これはイジメだ……」

 残念なことに、エルナの胸元はガバガバだった。貧相な胸なのは認めるが、胸の部分がやたらに大きく作ってある。どうしてこうも胸のある前提で作ってあるのだこのドレスは!

 怒りに体を震わせていると、妹の着替えを覗きに来た兄がにっしっしー、と意味不明な声を出して笑う。

「我が妹ながら残念な体形だよ、ホント」

「うるさい!」

 衣装の入っていた籠を投げつけるが、兄はすでにカーテンの向こうに消えていた。

「どーすんのよこれ……」

 このままではみすぼらしいことこの上ない。途方にくれていると、衣装籠から薄い布がひらりと落ちていた。ショールだ。透ける素材だが、まぁいい。エルナはそれを巻いて部屋の外で待っているフレッドのところに行くことにした。

 そうえば、お腹すいた。夜中に来て、朝起きたから睡眠も足りていないし、頭がぼんやりする。とっとと終わらせて、食事を貰おう。

 何をするか知らないけど、と思いつつ、部屋のドアを開ける。結構な重さだが、フレッドは片手で開け閉めしていたんだなぁと感心する。

「お待たせしました」

 おどおどと控えめに出て行くと、ちょうどあくびをしていたフレッドと目が合う。寝不足は彼も一緒なのだ。エルナと違って一晩中寝ていないのかもしれない。そう思うと、不満だらけでこの部屋から出てきたことが少し申し訳なくなってきた。

「なんだ、その格好は」

 渋い顔をして、頭から足のつま先まで見られる。

「なんだ、って用意されたものを着ただけですけど……」

「そうじゃない。ショールは頭からかぶらなくてよろしい」

 どうこのショールを使っていいかわからず、頭から被って上半身を隠していたのだ。

 先生のような口調で、エルナの頭から胸にかけて巻きつけられていたショールをはがされる。すかすかの胸が露になり、慌てて両手で覆った。そのしぐさを見て、フレッドは思わず目を逸らす。

「悪い。これは肩にかけておけ」

 薄い青のショールを投げるように返してくる。心なしか顔が赤い。急いで肩からショールを巻きなおすと、エルナは素朴な疑問を口にした。

「あのぉ、なんでこんなに露出が多いのでしょう? 普通、隠したがるものですよね?」

 露出をよしとする文化もあるだろうが、少なくとも王宮内はそうではない気がする。すると、フレッドは迷惑そうに息をはき、答えた。

「俺だって、そんな格好は嫌だ。だが、そうやって男に媚びて、その中からより良い男を見つけ出す……それが、この王宮内の約束だ。いつ、どの国の使者が現れてもいいように、独身者はいつもそういった格好をさせられる」

「私は、別に男に媚びる必要はないんはずなのですが」

「仕方ないだろう。それしかないのだから」

 いらいらしたような口調に、思わず肩をすくめる。これは誰かのお下がりらしい。さすがに、洋服まで新調するほど時間はなかったようだ。

「ほら、行く……」

 言葉を切り、フレッドは苦々しい顔つきになる。

「どうしたの? ……兄さん!」

 いつの間にやら、ドアを少し開けてこちらの様子を窺っていた。こそこそとして、なんと女々しい兄なのだ。

「おい」

 フレッドに向かって、低い声を出す。背は高いくせに、腰を曲げているせいで上目で睨んでいる状態だ。

「妹の体をそんなに舐め回すように見るんじゃない」

 恩人とも言える人を睨んで、ろくでもないことを言う。怒ろうと口を開きかけたとき、フレッドも反論する。

「誰が舐め回して見るか! こんな貧相な女の体!」

 フレッドはいかり肩で先に歩いていってしまう。

 なんだと。エルナは腹が立ってきた。ベネディクトはドアから出てきて両手を突き上げる。

「人んちの妹を捕まえて貧相ってなんだー!」

「うるさいな兄さん! 急に兄ぶらないでよ、もう! 余計なことを言うから私が傷ついたじゃないの!」

 どうしてこうも首を突っ込みたがるのか。うんざりしながら、エルナはフレッドの後を慌てて付いて行った。歩きにくいことこの上ない。

 ようやくフレッドに追いつくころには、少し息も上がっていた。ここは、自分の怒りよりも謝罪が先だ。

「あの、ごめんなさいフレッドさん。兄ったら、いつも人に対して、温厚だけが売りなんだけど」

 すると、フレッドは少し歩く速度を遅くしてエルナを見た。

「フレッドで良いと言っただろう」

 その顔は柔らかく、思わずエルナも微笑み返してしまうほど。怒った顔ばかりだと思えば、こんなにも優しい顔もする。エルナの怒りはさっくりと消え去った。

「妹が、わけの分からない男に連れて行かれたら、それは面白くないだろうな」

 その言葉には頷けない。エルナは首を振ると口を尖らせた。

「兄が、私の心配をしているとは思えません。負担ばかりかけて、私のことなんてどうせ黙っていても働いてくれる、便利な生き物だと思っているんです」

 フレッドは螺旋階段を上がっていく。

 どうやら、同じ離れであるこの塔に、目的の人物はいるらしい。普通の道でも歩きにくいのに階段だなんて。しかも、靴はかかと部分が相当高いものだ。歩きにくい。若干ガニ股になりつつ、汗をかきながらフレッドの後をついていく。心なしか、ゆっくり登ってくれている。

 前を見たまま、フレッドは話を続ける。

「そうかな……。意見が合わなくても、ちゃんと気に留めているさ。兄なんて、どこも一緒だと思う」

 どこか感慨深いような声に、エルナは言葉につまる。どうして、と聞こうと思ったら、向こうから来た初老の男がフレッドの為に道をあけて顔を伏せた。

 そういえば、フレッドって何者なのだろう。もしかして、たやすい口を利いてはいけないような偉い身分なのでは……だとしたら、あんなにうらぶれた違法カジノに、自ら来ることもないだろうけど……。

 どちらだろう、ともんもん考えていると、フレッドが足を止めた。

「ここだ」

 荒くなった呼吸を整えながら、エルナは目の前の光景に立ちすくむ。

 そこは、エルナがいたところとは廊下の雰囲気から違う。照明となるランプはなく、ろうそくだけが、頼りない明かりを灯している。だが窓がないのでとても暗い。そして、壁にはドアがひとつもなかった。

 その代わりに、鉄製の格子が目に入る。薄暗い部屋に、黒い影がひとつ。

 まさかまさか、妄想していた通りの牢獄がそこにはあった。

 エルナは捕らえられてしまうのだ。

「こんな格好をさせておいて、牢獄にぶちこむんですか」

 呆然と言うと、フレッドは呆れたようにエルナの頭を小突く。

「バカか。合わせたい人物がいると言っただろう。人の話を聞け」

 小突かれた部分をさすりながら、小さい声で「すいません」と呟く。バカは否定しないが、図星なだけに冗談でも言われるとなんだか落ち込んでしまう。

 そんなエルナにはお構いなし、フレッドは鉄格子のカギを開けた。

「おはよう、フレッド」

 少年の声に、エルナはびくっと体が動いてしまう。子供が、なんでこんなところに。

「客人を連れてきた」

「またぁ? どうせ二、三日で尻尾巻いて逃げ帰るでしょ」

 おかしそうに笑うのは、紛れもない少年。だが、純粋そうなものは感じ取れず、雰囲気だけならば老獪な人間にも思えた。うすら寒いせいか、エルナは鳥肌をたて、ショールの前をかき合わせる。

 いったい、フレッドは何をさせようというのか。

「どうだかな。挨拶してみろ」

 フレッドはごそごそと何かをしながら言う。すると、部屋の中が明るくなった。ろうそくを灯したからで、部屋がまぶしいくらいに明るくなる。

 そこにいたのは、声の通りやはり少年。

 大きな黒いマントのようなもので体全部を包み込んで座っている。唯一見える顔も、頭を覆うフードと、そこから覗く黒髪のせいか雰囲気が重く見える。室内は、机と椅子とベッドでいっぱいの小さな部屋だった。レンガの壁と石の床は、寒そうだし痛そう。

 ちらり、と灰色の瞳がエルナをとらえた。

「へぇ。珍しく若いね」

 どう見てもあなたのほうが年下でしょうが、と言いたかったが、なぜだか言葉が出なかった。圧倒され、会った事のない種類の人間に戸惑いしか感じない。

しかしそれだけではない。よくよく見ると耳は尖っているし、牙のようなものが口からちらちら見えている。

 もしかして、人間じゃない?

 ……手におえないと思う。イカサマディーラーじゃ。

 隣でエルナが顔を青ざめさせていることにも気付かず、フレッドは話を続けた。

「エルナには、こいつのイカサマを暴いて欲しい」

「え? ああ、そうですねぇ……」

 イカサマ師にイカサマを見破れというのはなかなか理にかなっていると思う。思うけれど、どう見てもこの少年、ただのイカサマ師じゃない。

 ますます顔を青くしたエルナに、少年はにっこり微笑んだ。

「僕マキアって言うの。よろしくね。今回は若いおねーちゃんだし、長期間遊んで欲しいな」

 無垢なはずなのに、無垢とは言い難い笑顔に、引きつって答えることしか出来なかった。この子、怖い。まとう雰囲気も、ぱっと見の外見も、すべてが人間離れしている。

 だが、できない、やりたくないなんて言ったら放り出されてしまう。

 ここは、やるしかない。エルナは息を吸い込んで、マキアに視線を定めた。

「私はエルナ。いいこと。ぜーんぶ見抜いてやるんだから! 覚悟しておきなさい!」

 マキアに人差し指を突きつけて、そう言ってしまった。あーあ、と心の中で途方にくれながら。なんの予定も立っていないし、立つ目処もないのに。これからどうしよう、ということはあえて考えないでおいた。

「頼もしいな」

 満足気なフレッドの笑顔も、なんだか遠くに感じる。

 引き返せないところまで来てしまったのだと、じわじわと実感していく最中だった。顔色はほとんど白くなっていた。


「あんな宣言してしまいましたけど、結局私は何をすれば?」

 あれだけのことを言い放ったくせに、なんという質問だ? とフレッドは言いたそうだけど、なんの説明もしない方が悪い、とエルナは顔を逸らさずじーっと見てやった。

「ちゃんと説明するから、そう睨むな」

「睨んでいません。そういう顔なんです!」

 慌ててふん、と顔を逸らす。すると、困ったようなため息が聞こえた。

 強気かと思えば、意外と脆い。

 フレッドってどんな人なのだろう。後ろを歩きながら、じっとその背中を見ていたら、視界が急にぶれた。お腹のすきすぎで倒れることはよくあるが、そういう時はたいてい気分も悪い。

 でも、今はそうではなく、なんだか足元がスカスカ……。

 そう思っているうち、エルナは螺旋階段から転げ落ちていた。

 衝撃は強かったが、頭を打たなかったので意識ははっきりしているし、落ちたといっても数段程度。踏み外したに近い。それでも驚きはしばらく続き、動けなかった。

 階段を踏み外すだなんて、どうせ笑われているのだろう、と階段上のフレッドを見上げる。すると、フレッドは顔を青くして階段を飛び降りた。エルナの脇に重苦しい音とともに降り立つと、膝をついてエルナを抱きかかえる。

「大丈夫か? どこか痛くないか?」

 顔から腕から足から、いたるところを触られる。転んだ子供を心配する母親のように。昔は、お母さんにこうやってもらったな、とちょっとしんみりしながら。

 その時みたいに「平気だよ」と言いたかった。痛くても、そう言っていた。でも、今は本当に平気だった。驚いただけで。

 だが、あまりに心配されるので、まったくもって平気だとは言いにくかった。ついていい嘘はあるのだ。

「ちょ、ちょっと腰を打ったか……も」

 遠慮がちに言うと、フレッドは腰をさすってくる。思わずぞわっとしたが、心配してのことなので我慢する。

「立てるか? 頭は?」

 矢継ぎ早の質問を頷きで誤魔化し、エルナはゆっくり立ち上がる。多少ふらついたけれど、大丈夫だ。

「頭は大丈夫。ほら、ちゃんと立てるんだから、そんなに心配しないで。私がぼーっとしていただけだから」

 意味もなくぴょんぴょん飛び跳ね、元気であると表現する。だが、フレッドは苦い顔をしてその動きを静止する。

「じっとしていられないのか、バカ」

 バカって! と反論しようとしたら、体が宙に浮いた。けれど、すぐ側にフレッドの顔があり、ぬくもりを感じる。浮いたのではなく、抱きかかえられた。

「部屋まで送り届けるから、それまでおとなしくしていろ」

 すると、フレッドはわざとエルナの方面を見ないように、まっすぐに視線を伸ばし、大股で歩いて行った。

 手でショールを押さえながら、エルナはただ、高鳴る鼓動を抑えるだけで精一杯だった。気のせいか、フレッドからも鼓動が聞こえるようだ。


 当然、こんな状況を見れば、ベネディクトが黙っていない。

「俺の妹に何をしたぁ!」

 というように暴れるのは予想できたので、部屋の前で降ろして欲しいと頼んだ。フレッドも快諾してくれた。だが、せっかくのその好意も、ベネディクトの暇さには敵わなかった。

「俺の妹に何をしている!」

 想像していたせりふとだいたい同じことを言い、ドアの隙間から覗いていたらしいベネディクトが廊下に飛び出してきた。まさか、ずっとそこから覗いていたのか?

「兄さん、違うの。あの……」

 ぎゃんぎゃん喚く兄に、頭が痛くなる。打ちつけたに等しい痛さだ。

「エルナさんが、階段を踏み外しまして、あまり動かないようにとお連れした所存です。これから医師を呼びますので、どうか静かに待っていてください」

 口調は丁寧だが、計り知れない怒りを含んでいる。そんなに怒らなくても……と思うが、もともと反りの合わない二人だからだろうか。それを見て、さすがにベネディクトも悔しそうに黙り込んだ。

 部屋を後にしようとするフレッドに、エルナは声をかけた。

「ありがとう! あの。それと……」

 振り返ったフレッドは、もじもじしているエルナをじっと見ていた。いつもまっすぐな瞳だから、そうやって見られると照れてしまう。

「あの、やっぱりこんな豪華な服では身の丈に合わないの。どんな服でもいいから、もう少し動きやすいものはないかな」

「だが、客人にはそれなりの格好をしてもらいたい」

 じっと顔を見据えて言われるが、エルナは恥ずかしくて見返せない。口ごもるように、言い訳めいた言葉を返す。

「誰かに合う時はこれを着る。普段着としてよ」

 衣装籠を見る限り、こういったドレスか、寝巻きしかなかった。

「わかった。適当に買ってこさせるから、待っていろ。いい子でお医者さんの診断を受けたら服をやるよ」

 そう言うと、子供のようであり、父のような笑みを見せた。随分と余裕な言い方だ、とエルナは反抗したくなる。

 つかみどころがないなぁとぼんやり遠ざかる後姿を見て、はっとなる。

「子ども扱いして!」

 その遅すぎる反論も、フレッドは聞こえたのか聞こえなかったのか。すぐに角を曲がって行ってしまった。

 なんとなく、だけど、フレッドは星二くらいにしてもいいかな、と思っていた。

 口は悪いけど、優しい。父親も、あんな風に厳格だったり優しかったりした。男の人とは、みんなあんな風なのだろうか。ベネディクトを見すぎていて、普通というものが分からなくなっている。

「男に服を買わせるとは、おまえも女として成長したな!」

 上機嫌でわけのわからないことを言う兄は、いつだって0だけど。

 だけど。

 エルナは部屋に入ると、ドレスのままベッドに倒れこんだ。どこか具合が悪いわけではない。フレッドと別れて、少し気が抜けた。

 嫌いだなぁ、と天井を見ながら思う。

 こうやって、人や物をすぐ評価したがる自分。評価の対象にすら入れたくないくらいだ。ネガティブな妄想以上に、自分の嫌いなところだった。

 人に評価をつけることは、兄も知らないエルナの秘密だった。

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