第一章 -6

 ――掻き乱された平衡感覚のその先で、誰かと誰かの話し声が聞こえた気がした。

 俺はゆっくりと目を開ける。

 ぼやける視界に知らない空気。

 寝そべった身体の下に木目調の床が広がっていて、ここが自分の部屋とは違うことだけが、ぼんやりとした思考の片隅に思い浮かんだ。

 あれ……俺ってベッドで寝ていたんじゃなかったっけ……?

 頭を起こして、指で目を擦ろうとする。こつん、と今までの人生の中で体験したことのない硬い感触が指先とこめかみに響いたので、俺は何とはなしに自分の右手を確認した。

 それは、人間の手ではなかった。

「……んあ?」

 意味が分からず、しばし固まる。脳に血液が行っていないせいで、幻想でも視ているのか。

 もう一度、今度は右手をプラプラと振ってみる。人間の手ではないモノがプラプラと揺れる。

 よく見るとそれは水色の毛むくじゃらに覆われた小さな蹄で、俗にいう哺乳類の前足に似ている。

 水色の毛は右腕だけでなく左腕、両肩、そして腹から後ろ足にまでびっしりと生え揃っており、それぞれの四肢は太く短く、小さなシッポまでが尾てい骨あたりから飛び出していた。

「なんじゃ、こりゃ……」

 混乱した頭のまま、俺はふさふさの足でふらふらと立ち上がる。視界の高さが明らかに低い。

 すぐ近くに金属製の機械のようなものがあったので、その側面に自分の姿を映してみる。

 そこにいたのは、人間ではない。

 何かの哺乳類の類だった。

「――ええっ? なにッ? これ、俺ッ?」

 完全に眠気はすっ飛んだ。

 両手――というか、形状はすでに前足となっている短い手で顔を触る。鏡代わりの金属の壁にも、正体不明の哺乳類が前足で顔を触る姿が映っていた。

 な……なんだよこの、イヌとヤギとウサギを足して割る3したような青い小動物はよ!?

 体長は比べるものがないので良く分からないが、おそらく小型犬程度の大きさ。

 服の代わりにフワモコの毛皮が全身を覆い、首には赤いスカーフ、頭には短い二本のツノ。

 どこからどう見ても人間ではない。


 俺は、人間ではなくなっていた。


「お……おおおぉぉうぉおお?」

 狂った叫びが全身から沸き立つ。

 これぞまさに混乱の極致。つーか意味が分からない。

 俺はただ普通に自分ン家のベッドで寝てただけだぞ?

 それが、なんで目覚めた瞬間、全然違う生物に生まれ変わってるんだ?

 周囲をぐるりと見渡すと、そこはやはり見慣れぬ場所だった。ホールのように広い部屋。俺が鏡代わりに使った機械と、それに繋がる無数のケーブルがホールの半分以上を占拠している。

 部屋の中は薄暗いが、小さな照明がところどころで瞬いているおかげで視界は利く。

 そして、俺と後ろの機械に正対してその場に立つ、二つの人影がそこにはあった。

 ――逆光の中、二人のうちの一人が、軽い足取りでこちらに近づいてくる。

 混乱しきっていた俺は、竦んでしまって動くことができない。

 その人物はゆっくりと俺に両手を差し伸べると、脇の下に掌を差し込んで、まるで子犬にするように高く持ち上げた。

「この子が、私のアリエス……。私だけの、パートナー……!」

 透き通るような、女の子の声。

 間近に迫った彼女の容姿に、俺は更なる衝撃をその身に受けた。

「ゆ、ゆめかッ?」

 特徴的な髪留めに、可憐な相貌。紛れもない、俺の保育園からのクラスメイトだ。

「わぁ、スゴイ。私の名前分かるの? それじゃあ、キミのお名前は?」

 ゆめかは大きな瞳をキラキラと輝かせながら、抱き寄せた俺の顔を覗き込んでいる。今までに見たことのない無邪気な表情。その嬉しそうな笑顔が、逆に俺を苛立たせた。

「は……はあ? なにスッとぼけたこと言ってやがる! 俺だ、幸太に決まってんだろ!」

「コータ……うん、分かった。キミの名前はコータね。それじゃあ今日から――よろしくね!」

 そして。唐突に、ゆめかの綺麗な顔が近づいてきて。

 この女、何をトチ狂ったかと思ったら。


 何の前触れも断りもなく、突然唇にキスされた。


 ――その瞬間、ゆめかの全身が強烈な赤い光に包まれた。

 着ていた衣服は一瞬で溶けて全裸となり、生まれたままの姿が俺の眼前で晒される。

「ぶっ!」

 いきなりの奇行に狼狽した瞬間、俺の身体はゆめかの腕から滑り落ちて、激しく床に叩きつけられた。ちなみに今のは鼻血を噴いた音じゃない。本当だぞ。

 なおも続く彼女の異変と光の嵐。

 幾重もの帯と化した光はゆめかの身体に巻き付いて、マテリアルへと変貌する。

 最初に靴、次に脚。光はニーソとなりスカートとなり、胸をでかいリボンで彩るドレスに化けると、髪留め、肩当て、手袋と形を変え、最後に大きな杖を出現させた。

 杖と言ってもご高齢の方々が手にするような松葉杖ではない。頂部に十字架と赤い宝玉を設えたクラシカルなそれは、言うなれば聖職者が持つ錫杖の類か。しかしその壮麗な装飾と、変貌を遂げた彼女の服飾の華やかさから、これが魔法の杖であることくらいは容易に想像が――、

 ……いいや、もう格好つけた言い回しはやめよう。

 俺だってオタの端くれだ、ここまでテンプレートに飾ってもらって察せないほど深夜アニメは観ていないのである。

 西洋の神話に出てくる魔女でもなく、かと言って単なる魔法使いでもないその恰好は、


「魔法少女じゃねえか!」


 思うがままにツッコんでしまう俺だった。

 彼女を取り巻いていた光の粒子が飛散して、やがて部屋の中は元の色合いを取り戻す。

 白と赤のドレスを身に纏い、自分の背丈ほどもある魔法の杖を携えた夢見乃夢叶。

 閉じていた瞳をゆっくりと開き、未だに光の残滓が残る自らの衣装のあちこちを何度も触って確認すると、

「やった……。やったよコータ! 変身した! 本当に魔法少女に変身できたあ!」

 泣きそうなほどの満面の笑みで、床に縮こまっていた俺の身体をぎゅううっと抱きしめた。

「ぐ、苦しいッ……折れっ、肋骨折れる……ッ!」

「どう、ブリゾ? これで私も魔法が使える。ソラエたちと一緒に戦えるよッ!」

 俺の骨をミシミシさせながらゆめかは振り返り、背後にいた人影に声をかける。

 頭から足元までをすっぽりと覆う紺のローブに身を包んだ人物は、二十代くらいの女性のようだ。

 ハデに変わったゆめかの全身を矯めつ眇めつ見回した後、低音の落ち着いた声で言葉を返した。

「確かに魔力は申し分なさそうですが……よろしいのですか? 貴女はまだ戦闘経験が――」

「大丈夫! ソラエやリリちゃんだけに戦わせたくないし、それに、私にはこの子がいるもん。コータと一緒なら、この国を絶対に守れる。私の大好きなこの国を!」

 ぐっ、と杖と俺を抱く手に力を込める。そろそろ本当に肋骨の二、三本がイキそうだ。

 ブリゾと呼ばれた女性は肩を竦め、ゆめかの視線を避けるように数歩横へ。

 ブリゾの身体が隠していたものは、その背後の壁にぽっかりと空いていた出入口だ。その先には夜空が広がっている。

「ならば、止めはしません。そのアリエスと共に空を駆け――大切なものを、護りなさい」

 ブリゾの言葉が終わるのが早いか、ゆめかは俺を掴んだままその場を駆け出し、部屋の外へと躍り出る。グロッキーだった俺の意識は、次の瞬間に見たその光景によって都合四度目の驚愕を迎えた。

 そこは、摩天楼の最上段。

 眼下に広がる無数の建物のどれよりも高く、空は手を伸ばせば届きそうなほどに近い――そんな形容がぴったりな高層の塔のベランダに、ゆめかはその身を躍らせたのだ。

 ――いや、それで終わればまだいい。

 ゆめかはあろうことか、下を見ただけで青くなりそうな高さなど忘れているかのように。

 駆けた勢いのままにベランダの手すりに脚を掛け。


 文字通り、何もない夜の空へとダイブした。


「うッ、わあああああ!」

 掴まれてる側であることも忘れて俺はゆめかにしがみ付く。情けない声まで上げてしまった。

 だが、地面に叩きつけられてミンチになる時間はいつまで経ってもやってこない。

 俺は強く瞑っていた目蓋を上げて、謎の浮遊感の答えを見る。これが五度目の驚愕だった。

 ――浮いている。否、飛んでいる。

 俺の身体は、というか、ゆめかは手にしていた魔法の杖に跨って、夜の帳を切り裂いていた。

「おい……ちょっと、どうなってんだよ! 唐突過ぎるだろ、誰か解説しろ!」

 びゅんびゅん過ぎ去っていく冷たい風に充てられて、半ばヤケクソ気味に俺は叫ぶ。ゆめかは風に舞う自分の髪を片手で抑えながら、胸元にいる俺に向かってにっこりと微笑んだ。

「コータ、飛ばすよ! 私たち出遅れ組だからね!」

「いや待て、飛ばすって何だよ、説明が先だって言ってんじゃね――えかあああ?」

 背後へ向けていた杖の十字架が翼のように変化したかと思うと、朱いアフターバーナを閃かせて一気に加速した。

 狂おしいほどの速度で巡る風景。建物の窓や街灯が放つオレンジ色の生活光が、俺たちの陰を明滅させる。

 そのとき見えた眼下の風景に、俺は目を丸くした。

「なんだよ、ここ……、六玖波市じゃ……ない?」

 立ち並ぶ建物は、どれも石造りや煉瓦造りで同じ色の屋根ばかり。煙突からは蒸気が噴き出し、道路は石畳で構成され、コンクリートのビルの代わりに先鋭的な塔がいくつも生えていた。

 見慣れた六玖波市とは明らかに違う――いや、そもそもここは、日本ですらない。

 愕然とした俺の声に何を感じたのか、ゆめかは俺を抱く手で優しげに毛並みを撫でて、

「ノイアードよ」

「え……なんだって?」

「ノイアード王国。私の生まれた街で、そして、キミの産まれた街の名前だよ」

 と、まるで呪文のような言葉を呟いた。

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