第一章 -4

 そんなある日の放課後のことだ。

 陽の落ち始めた昇降口。今日もいつものゲーセンで腕を磨こうと靴箱に手をかけたところで、

「おお那珂湊、ヒマか? ヒマだよな? ヒマに違いないから仕事を頼もう」

 などと慇懃に声をかけてきたのは、真正ドSこと竜ヶ崎教子の白衣姿だった。

「いや、俺はこれから戦闘機で世界を救うという重要な使命が――」

「実は大学で実施したアンケートの集計が終わらなくてな? 教授に提出する期限が明日までなんだよ。那珂湊が手伝ってくれなかったら間に合わないところだった。いやー助かった!」

 人の話を微塵も聞かず、ずるずると俺の服をひっぱって廊下を進む竜ヶ崎教子。華奢ながら百七十近い背丈のせいか、いくら抵抗してもその手を振り払えない。なんつう怪力だった。

「つーか、大学の仕事なら大学生に頼めよ! なんで俺が狙い撃ちなんだ!」

「ハッ、どうせまたゲーセンにでも行く気だったんだろう。これも教育指導の一環と思え。それに今回は役得だぞ?」

「役得?」

 どういう意味だと声を発する前に、白衣から出た足がピタリと止まる。そこは竜ヶ崎が普段休憩室代わりに使っている理科準備室。

 木製の扉をがらりと開けて、俺を室内へと押し込んだ。

「なっ……」

 その部屋は奥に細長い構造で、突き当たりの壁の一枚窓からは茜色の光が差し込んでいる。

 両脇に薬品棚が立ち並び、中央には長テーブルを二つくっ付けた簡素な机。

 机の上にはA4用紙がうず高く積まれており、それらと格闘していた一人の女子と目が合ったとき、彼女は俺以上に目を丸くして驚嘆の声を上げた。

「な……なんで、幸太っ?」

 夢見乃夢叶。俺が保育園の頃からのクラスメイト。にして……最大の特異点。

 そんな俺たちの衝撃など露知らず、竜ヶ崎は俺の首根っこを掴んだまま室内を蹂躙していく。

「なっ、役得だろ? 学園のアイドル・夢見乃夢叶との共同作業だ。嬉しさに声も出まい」

「…………」

 別の意味で声が出ない。

 竜ヶ崎は俺をゆめかの対向に座らせ、簡単に作業内容を説明すると、くるりと踵を返した。

「じゃっ、そういうことで私は大学に戻るわ。終わったらウチの研究室に持ってきて頂戴ね」

「えっ!? 行っちゃうの教子センセ? マジで?」

 竜ヶ崎教子は俺の頭を軽く小突いて、眼鏡の奥の目を細める。

「コラ。行ってしまうのですか竜ヶ崎先生、だ。――私も忙しい身でな、正直他にも仕事が山積みなのだよ。それに、幼い頃からの勝手知ったる者同士なら、作業効率も良いだろう?」

 どうやら竜ヶ崎教子は、俺とこいつの関係の悪さを知らないらしい。

 それじゃ頼むぞと言い残し、竜ヶ崎はさっさと理科準備室から出て行ってしまう。

 後には大量のA4用紙の束と、幼馴染みのクラスメイトと、重苦しい沈黙だけが残された。

 正直、気まずい。

「……はあっ」

 しばらく黙り込んでいたゆめかは、忌々しげにため息を吐き出すと、アンケートの集計作業を再開した。

 幸い、マルの数を数えるだけの簡単なお仕事のようだ。黙っているだけも手持ち無沙汰なので、俺も見よう見まねで追随する。

 ……結構な枚数あるな、コレ。

 開始数分で飽きてきた。難しい作業ではないが、面倒くさい。竜ヶ崎が早々に投げ出した理由が分かる。

 ちらりと視線を上に向けると、黙々と鉛筆を動かすゆめかの顔があった。

 ――確かに、男好きのする顔だわ、コレは。

 美人というよりは美少女の相貌。まあ中学生なんだから当たり前なんだけど、気が強そうなのに温かみがあって、動物に例えると猫に対するような保護欲を掻き立てられるのだろう。

 飾り紐を纏った真っ直ぐの髪に、小さな顔と華奢な身体。告白に挑む男子が絶えないというのも頷ける。俺も昔からの顔見知りでなければ、お近づきになりたいと思ったかもしれない。

「何ジロジロ見てんのよ」

 と、突然の冷たい一言に面食らう。こちらを一瞥することもなく言い放たれた。

 俺は慌てて視線を下げるが、その言葉の棘が喉の奥に引っかかって作業に集中できなくなってしまう。つーか何その言い方? 仮にも顔見知りなのにちょっと厳し過ぎやしねえ?

 その一言からまた数分。いい加減、沈黙に我慢ができなくなって、俺は口を開いていた。

「……な、なあ、ゆめか」

 ギンっと効果音が聞こえそうなほど睨まれた。え、なんで睨まれてんの俺?

「馴れ馴れしく名前を呼ばないで」

 形の良い唇から残酷な言葉が紡がれる。これが告白の場面だったら男は卒倒するんじゃなかろうか。

 い……いやいや、違うんだよ。これがこいつのデフォルトじゃないんだよ。普段のこいつはもっとこう、誰にでも優しいはずなんだ。よく笑うし、誰にだって愛想も良いし、礼儀も正しい。こいつを深窓の令嬢だと思い込んでいる奴もいるくらいだ。

 ただ、俺だけが違う。

 俺に対する態度だけが、これ以上ないくらい厳しいだけなんだ。

「えっと、夢見乃……さん?」

「……なによ那珂湊くん」

 思いっきり不機嫌そうな顔をしつつ、返事をする。

 彼女の視線はすぐさま机へ。まるでゴミと会話しても時間の無駄とでも言いたげな、そんな視線の背け方だった。

 えっと……そういや、何を喋ろうとしたんだっけ俺。今のガン飛ばしのせいで完璧に会話の内容を忘れていた。仕方がないので、何でもいいから適当に話しかけることにする。

「いやーしかし、めんどいなコレ。完全に貧乏クジだよな、そう思わねえ?」

「だったらさっさと終わらせればいいでしょ」

 間髪入れずに突き返される。

 くっ……負けるものか。

「こ、こんなことなら、さっさと逃げれば良かったな。そしたら、今頃はゲーセンで――」

「あんたもちく高受けるんでしょ。ゲームより受験勉強した方がいいんじゃない?」

「う゛……いや、その、あはは。まあなんだ、そっちは推薦だもんな、気楽でいいよな」

「そりゃ悪かったわね」

 むぐう、会話が続かん。

 というか、どんどん険悪な感じに陥っている。

 ……いやいや、雰囲気に呑まれるな那珂湊幸太。

 ホラコン全国八位の腕前はどうした。こんな、一介の女子中学生に負けるほど、貴様の根性は弱っちょろいものじゃないだろう?

「で、でもさ、ゆ……夢見乃はスゲーよなあ。この間の中間考査も十位以内だったし? 球技大会でも一番目立ってたよな。男どもが放っておかないってのも分かる気がするよ」

 ぴくり、とゆめかの肩が震えた。

 用紙を持った手が止まる。お、何か感触良かったか?

「そういえばさ、先週もまた一人告白してきたらしいじゃん。サッカー部の藤代ふじしろだろ? 結構女子にも人気あるのに、あいつをフッちゃうんだから大したもんだよな。なあ、なんで断っちまったんだ? やっぱアレか、モテる女は辛いぜーってヤツ――」

 バン! と机にA4の束が叩きつけられて、俺は思わず竦み上がった。

「うるっさいわよバカ! 好きでもない奴に告白されたって、嬉しいわけないじゃない!」

 机から身を乗り出して、そう吼えられる。

 あまりの迫力に椅子からずり落ちそうになった。

 ゆめかは荒っぽく椅子から立ち上がると、手に持った紙束を傍らのスクール鞄に放り込む。

 鞄を肩に担いで、そのまま扉へ。

 俺は一瞬抜けていた気を取り戻し、慌てて呼び止めた。

「お、おい、どこ行くんだよ?」

「集計表を先生のところに置いて帰る。私の分は終わったから」

「終わったって、おまえ……まだ十分の九は残ってるだろ……」

「私は善意で手伝ってただけ。あんたは強制でしょ。私に義務はないわ」

「じゃあ、残り全部を俺一人でやれってこと? それちょっと酷くね――」

「つべこべ言わずにとっととやれ」

 あ、ハイ、スイマセン。と思わず謝っちまいそうになるような一言だった。

 俺を見下ろすゆめかの視線は怒気に満ち溢れている。いや、嫌悪と言った方が正しいか。

 長い髪を揺らして廊下に出たゆめかは、理科準備室の扉に手をかけたほんの一瞬、椅子に座ったまま硬直している俺の目を睨み付け、

「それと――べらべら喋る男は一番嫌い」

 そう言い残し、叩きつけるように扉を閉めて去っていった。

「こ……告ってもいないのにフられる俺って一体……」

 未だびりびりと振動を残す部屋の扉と、机に残された紙束を交互に見ながらぼそりとつぶやく。

 とりあえず、下校時刻までに残りの十分の九を終わせなきゃならないことに絶望した。

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