ウエスト・サイド・ストーリー

月見あお

west side story

 こんな経験がないだろうか。

 夕方とか、昼下がりとか、そんな微妙な時間に一、二時間の昼寝をしたとき。はっと目が覚めると、それまで自分が何をしていたのか、今はいったい何日で何時なのか、個々はどこで自分は誰なのか、一瞬分からなくなることがないだろうか。

 ほんの一瞬だが物凄い不安を感じる。学校、会社に遅刻する時間ではないのか、自分の正体すらもわからない。だけどそんな不安もほんの一瞬。

 数秒ですぐに記憶がよみがえってくる。シナプスがぷつぷつと繋がっていく、そんな感覚。

 だけどすぐに、ああ、そうだそうだと、先ほどの不安の事などすぐに忘れてまたいつもの日々に戻っていくのだ。

 だけど、今回は少し違った



 目覚ましの音でいつも通り目覚めた。

 はて、いつも通りってどんなだっけ?

 暫くベッドの上で動けないでいた。それは寝起きで頭が働いていないからではない。何をすればいいのか分からない、正確には、何をしていたが分からない。

 それどころか、此処が何処か、自分が誰なのか、今がいつなのか、さっぱりわからない

 陳腐な言い方をすれば記憶喪失だろうか。

 このまま放心していても仕方がない。起き上がり部屋を見渡した。なんてことのないワンルーム、白と青が目立ち、クローゼットには暗い色の服ばかり。可愛げのない、いかにも男の部屋といった様相。 

 窓を開けると、むわっとした、湿気の含んだ空気が身体を吹き抜ける。季節は夏のようだ。

 部屋の様子、窓から見た景色、それらを見ても何も浮かばない。だけど不思議と焦りや、不安、恐怖は感じない。むしろどこか清々しさすら感じる。

 ふと目に留まったのはテーブルの上にぽつんと置かれていた一枚の封筒。他のペン、文房具、書籍などは綺麗に片づけられているが、その封筒だけは無造作に置かれて目を引いた。

 少し膨らんだその封筒には結構な額の現金、そして一枚の紙。

『西へ』

 たった一言、その紙には書かれていた。

 くしゃっと、その紙を握り潰してごみ箱に投げ入れた。

 クローゼットから適当な服に着替えて、ザックに現金をそのまま放りいれた。財布は見つからなかった。跡は何も持たずに家を出た。

 小さな二階建てのアパートだった。鍵もかけずにそのまま歩きだした。

 取りあえず、あの紙の言うとおりに西へと向かうつもりだった。しかし徒歩でそのまま西に向かうのは馬鹿正直だろう。なので駅をまずは目指した。

 バス停をまず見かけたので時刻表を見た。近くの駅までは三駅、歩いて三十分もかからないだろう。

 おそらく何度も歩いたであろう道、何度も利用したであろうコンビニ、このラーメン屋も来たかもしれない。しかしそんな記憶はすっぽり消え失せていた。



 駅には多くの人が行き交っている、背広姿が目立つということは、今日は平日だろうか。何故か後ろめたい気持ちになりながら構内を歩いた。

 駅のコンビニで新聞と食料を買ってザックに詰め込んだ。

 路線図の下に立ち、さて、何処に行こうかと思案する。今の時代、電車の時間や目的地を調べるときには携帯端末で調べるのが主流だ。その方が楽だし、複雑になったシステムでは手動で調べるのは難しい。だけどこの場合、時間も気にせず、目的地もないに等しい。ただ西へ、それだけならアナログな路線図でも十分だ。

 ちょうど来た電車に飛び乗った。

 都心から離れて行くせいか、車内はがらがらだ。四人掛けのボックス席に座り食料をもそもそと食べる。空腹を満たすとまだ起床してそれほどたっていないにも関わらず眠気が襲ってきた。それに抵抗する気もなくゆっくりと瞼を閉じた

 


 かれこれ、始めに電車に乗って十時間以上は経った。降りては乗ってを繰り返し、西へ西へ。ちゃんと向かっているのかも分からないまま、ただただ移動した。

 三度目の食事を電車内で摂ろうかという頃、太陽の勢いはすっかり衰えていた。その沈みいく太陽の光が海に反射して最後の輝きを車内に届けた。

 その光景が美しいと、今日初めて感情らしきものが芽生えた。

 だから電車の旅は次の駅で終わった。

 外に降り立つと潮の香りが鼻に着く。ほとんど太陽が沈みかけてるとはいえ、空調の利いた車内に比べると外は蒸し暑い。

 もう、今日中に引き返すことは出来ないところまで来てしまった。引き返す場所すら覚えていない。出発駅、アパート名、部屋番号、気にせずに出てきたので一切覚えていない。

 海岸沿いをゆったりと歩く。

 何も考えずこんな所まで来たが、そろそろ今日の寝床ぐらいは決めなければ。

 ビル、ホテルのような背の高い建物は見当たらない。繁華街からはかなり離れた場所にあるようだ。

 少し先に薄らと青い明りが灯った立て看板を見つけた。『勿忘草』と書かれた看板。旅館だろうか、いまどき珍しい、木造建築の二階建ての建物。

 逡巡の後、すりガラスの引き戸を引いて中に入った。

「いらっしゃいませ」

 若い、くぐもった女性の声が響いた。

 布団を三枚重ねて持ち、上半身がすっぽり隠れた仲居さんらしき人がちょうど廊下を横切っている最中だった。

「しょ、少々お待ちください」

 そう言って仲居さんは布団を抱えたまま急いで駆けて行った。微かに見えた彼女の横顔はまだ若く二十台前後に見えた。

 そして、すぐに戻ってきた彼女は姿勢よく出迎えてくれたが、息切れして肩の上下が隠し切れていない。

「お待たせしました」

「予約とか何もしてないんですけど、泊れますか? 旅館、ですよね」

「はい、ありがとうございます。では受付におねがいします」

 こんな時間のいきなりの客にも嫌な顔一つせず彼女は対応してくれた。

 靴を脱いで彼女に続く。

「こちら料金とプランになります」

 差し出されたのはA4サイズのタブレット。古めかしい旅館の内装とはあまりマッチしないデバイスだ。

 わざわざタブレットに表示する必要はあるのだろうか。プランは素泊まりか、一泊二食付きかの二つしかない。値段もリーズナブルで安いビジネスホテルと同じぐらいだ。所持金で一カ月は優に泊れる。

「じゃあ、二食付きの方で」

「はい、ありがとうございます。では、個人認証をお願いします」

 指示された場所へ人差し指でタッチする。それだけで住所、氏名、勤め先等の個人情報が向こうに渡る。今では紙に記入するなんてことはほとんどなくなってしまった。時間短縮のため、偽装を防ぐため、管理を徹底するために。

「ウチムラ様ですね。本日は『勿忘草』のご利用ありがとうございます」

 自分の名前はウチムラと言うらしい。本当に自分の名前だろうかと疑いたくなるほど、その響きに覚えがなかった。

「こちらこそ、お願いします。あの、この先予約とかは埋まってますか?」

「いえ、とくには」

 質問の意図がわからず、彼女はきょとんとする。

「一週間とか大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。今も他に一組様しかいらっしゃいませんし」

 乾いた笑いしか返すことができなかった。

 案内された部屋は広く、一人では持て余すほどだ。おそらく家族用だろう。

 窓を開けると海が一望できる。太陽は既に沈んでしまったが電車から見た景色と同じだ。

 備え付けのテレビをぼうっと眺める。集中できず何も頭に入ってこない。まだ早い時間にも拘わらず眠気を感じた。ほとんど動いていない一日だったが、長旅で疲れたのかもしれない。旅館の浴衣に着替え、布団を敷いてそのまま眠りについた。 



 差し込む朝日で目が覚めた。まだ五時を少し過ぎたぐらいだった。

 疲れはなく身体は軽い。浴衣のまま二階の部屋から下へ降りた。

「あ、おはようございます」

 昨日、受付をしてくれた例の仲居さんにあった。昨日は気づかなかったが胸元に名札があり『カヤ』と手書きで書かれている。

「おはようございます、こんな早くから働いてるんですね」

「はい、今日はお客様がいらっしゃいますから、いつもより少し早起きです」

 それは少し申し訳ない気がした。まあ、もうひと組いるらしいし、それほど気にすることもないだろう。

「ちょっと外に出てきます」

「はい。あ、朝食は六時から八時の間です」

 カヤさんの言葉に会釈を返して外に出た。

 昨日と同じように、海岸沿いをゆったりと歩く。薄暗い中見た昨日の景色と、朝日に照らされた景色はまるきり別ものに感じた。

 車の交通も少なくとても静かだ。波の音がやけに耳に付く。

 防波堤に座り釣り糸を垂らす老人を見かけた。大きな麦わら帽をかぶり口元には威厳のある白いひげが蓄えられている。

「おい」

 通り過ぎようとしたとき、低い声が老人から発せられた。

 老人の視線は海へと向かったままだったので自分にかけられた声なのかどうか分からなかった。返事もせず立ち止まっているともう一度「おい」と低い声が響いた。

「はい、なにか」

 おずおずと老人へ歩み寄る。

「勿忘草か」

「え?」

「勿忘草か、その浴衣」

「ああ、はいそうです。あそこにお世話になってます」

 今着ている浴衣は青い花の絵が施された水色の浴衣だ。もしかしてあの旅館の関係者だろうか。

「ほれ」

 老人は横に置いてあった大きなバケツに手を突っ込んだかと思うと、一尾の大きな魚を取り出した。

「見事なスズキですね」

「もってけ、勿忘草に」

「え、あの」

 勿忘草にこの魚を届けてくれということは理解したが、目の前に差し出されたのは尾を鷲掴みにされた大きなスズキ。ナイロンの袋に入れてくれるとか、そう言った様子はないし、こちらも何の持ち合わせもない。

「ほれ」

「……はい」

 おそるおそる魚を受け取る。その際、大きく一度暴れまわり、危うく落としそうになる。

「しっかり持て」

「はい、すいません」

 海のある街では魚をそのまま持って歩くのは普通の事なのだろうか。ヌメヌメとした表面、ときおりぴくぴくと動く身体、生で持つにはどうも抵抗がある。

 まだ魚は生きているが、なるべく新鮮な方が良いだろうと、来た時よりは早足で勿忘草へと戻った。

 旅館に戻るとタイミング良く人が現れた。

「あら、おかえりなさい。ウチムラ様」

  和服を着た妙齢の女性。アップスタイルの髪型はいかにも旅館の女将さんといった風貌だ。カヤさんに次、出会った勿忘草の従業員は彼女で二人目だ。

「戻りました。あの、これ」

 スズキを差し出す。

「まあ、立派な。どうしたんです?」

「あー」そう言えばあの老人の名前を知らない「麦わら帽をかぶった、白い髭が立派な――」

「ああ、ゲンさんですね」

 ゲンさん。かどうか分からないが、あれほどの特徴をもった人物はそれほどいないだろう。

「はい、そのゲンさんに持っていくようにと」

「わざわざありがとうございます」

 女将さん、と思われる彼女は笑顔で躊躇いなく魚を受け取る。

 やはり、海の街に住む人間は生魚に躊躇いがないのか、はたまたこんなことを躊躇する自分が軟弱なのか。

 部屋に戻り一息つく。時刻は六時を過ぎていた。備え付けのお茶を入れて飲んだ。暑いこの季節には冷茶が欲しいものだが、まだそれほど陽の昇っていないこの時宜にはちょうどいい。

 何もない時間。記憶は戻らないが、これは久々の感覚がした。

 そう言えば、朝食は六時からと言っていたか、意識すると急に空腹を感じだ。

 さて、食事は何処で摂るのだろう。下に降りて受付付近をうろついていると、どこからともなくカヤさんが現れた。

「あ、戻ってたんですね。朝食ですか?」

「うん、お願いできるかな」

「こちらです」

 畳の部屋には長机が六つ並べられていた。ちょうど部屋の数だろうか、ただ今は他には誰もいない。貸切状態だ。

 胡坐をかいて座っていると、いい香りと共にお盆にのった料理が運ばれてきた。

「おまたせしました」

 ご飯、みそ汁、焼き魚、おしんことオーソドックスな朝食なメニューだ。

 そういえば、昨日食したものは駅で買ったおにぎりやサンドイッチばかりだった。暖かく、人の作ったものを食べるのは久しい感じがした。昨日からだけではなく、本当に久しぶりに、まともなものを食べた気がする。

 胸が熱くなるのをこらえながら、一口ずつ丁寧に食した。



 服がない。下着がない。財布もない。

 身一つとまでもいかないまでも、所持品をほぼ持たず来てしまったので色々と足りないものが多い。

 暫く乗りたくないと思っていた電車に揺られ街へと向かう。

 といっても何処に何の店があるかなど、見知らぬこの土地では見当もつかない。だから人が多く降りた駅で適当に降りた。

 降り立った名も知らぬ街はもう潮の香りはしない。その代わりに勿忘草の辺りよりは賑わっていた。コンビニもすぐに目に付いたし、百貨店らしきビルもある。大抵のものは此処で揃うだろう。

 まずは財布、百均で適当な二つ折りを購入。

 次は鞄だ。紙袋やナイロンの使い捨てでも別にことたりるが。帰るときに持ち運びが不便だろう。

 そのとき、やがて帰ることを想像していることに気付いた。帰る場所も多い出せないと言うのに。しかし自分の住所を知ることは簡単だ。

  生体認証で登録されているので勿忘草で訊けばいい。適当な飲食店だってそれは可能だ。自分の住所を忘れるなんてそうそうないだろうが。引っ越したばかりで忘れてしまったとでも、言い訳はいくらでもある。

 所持金も無限ではない。いつまでもこうしてはいられない。だけど、今は、せめて一週間ぐらいは考えるのをよそう。

 しかし鞄は購入。アウトドア店で40リットルのザックを買った。かなり大きいが、それにこしたことはないだろう。

 あとは下着、替えの衣服。今が夏でよかった。冬物を揃えるとなると結構な金額となっただろう。

 暇つぶしの文庫本を数冊、洗面用具、他に何がいるだろう。このあたりの観光ガイドでも買おうと本屋をうろついていると文具が目に付いた。

 何故そこに目がいったのかわからない。

 気づくと立ち止まり何かを探していた。

 鮮やかな青い色の鉛筆。ステッドラー。

 懐かしさを覚え、思わず手に取る。

 とたんにそれを手放したくなくなった。奇妙な感覚の赴くままにステッドラーのH、F、Bの三本、スケッチブック、消しゴムを購入。ついでにガイドブックも買った。

 昼時になり空腹を感じた。フードコートであまりおいしくないラーメンを啜りながら今後の昼食の事を考えた。朝と夜は勿忘草で済むが、あの辺りに飲食店はあっただろうか。コンビニの一つも見た記憶はない。明日探してみることにしよう。

 百貨店を出て街をぶらついた。特に目に留まるような場所もなく、一時間もたたずに帰ろうかと思い、駅に足を向けた。 

 そのとき今朝のことを思い出し、一つの店が目にとまり、最後にそこに立ち寄った。



 翌朝も早くに目覚めた。ほぼ夜明けと同時だ。というのも夜にすることがなく昨夜はすぐに寝たからだ。

 昨日と同じように外に出てぶらぶら歩く。

 同じ場所にゲンさんが座りこみ、釣り糸を垂らしているのが見えた。

「おはようございます」

 ゲンさんは一瞥すると軽く頭を上下に動かしただけだった。

 鞄から昨日買ったあるものを取り出し、それとなく見せびらかすようにゲンさんの前に掲げる。

「昨日買ったんですよ。やってみようかと思って」

 最後に寄った釣り具屋で買った竿とリールのセットだ。ワゴンセールの棚にあった安いものだが。

 ゲンさんはそれを見ても大きく鼻を鳴らすだけで何も言ってくれなかった。

「餌とか、仕掛けとかはないんですけど、何処かに売ってますか」

 めげずに話しかけると、ゲンさんは仕方ないと言ったふうに、一旦釣竿を置き、横の用具箱から針と錘の付いた仕掛けを一つ分けてくれた。

「餌はこれだ」

 差し出されたプラスチックの箱の中にはにょろにょろとイソメが蠢いている。そのグロテクスの形態に尻込みしながらもなんとか針に通した。

「ありがとうございます」

 無意識のままキャスティングしていた。釣りも初めての事ではないのだろう。何かをするたびに自分を取り戻している気がするが、何故か興味は湧かなかった。

 どちらの釣り糸もピクリとも動かない時間が流れた。

 波の音と、時折響くカモメの鳴き声に集中しているとゲンさんが不意に口を開いた。

「あんさん、何処からきたんだ」

「都会の、方からです」

 それ以上掘り下げられると答えはもうなかったが、幸いにも次の問いに移ってくれた。

「こんな辺鄙な所に、なにようだ」

「ただの、休暇ですよ」自然に答えられたと思う。「別に何か目的があってここにきたわけじゃないんです。何処か、静かで人の少ない所でゆっくりしようと思って」

 何か突っ込まれる前に咄嗟に口をついて出た言葉。別に嘘ってわけではない。

 ゲンさんはじっとこちらを見つめていたが、特に何を言うわけでもなく、会話は終わった。

 その後、ゲンさんの釣竿には何匹か獲物がかかるものの、こちらの方はさっぱりだった。

 そういえばバケツか何か、魚を入れるものがない。じゃあちょうどいいや、なんて言い訳を一人心の中で唱えた。

 釣り糸を垂らし始めて一、二時間たっただろうか、ゲンさんは懐から趣のある懐中時計を取り出して時刻を確かめた。

「そろそろ行くぞ」

 その台詞からは、『もう帰る』ではなく、『ついてこい』という意味があった。

「はい」

 よくわからなかったが素直に頷いて後に続いた。

 バケツや釣り具は当然のように持たされて、ゲンさんは先に歩く。年の割に歩く速度がかなり速い。

 ついた先は、途中から予測していたが勿忘草だった。

 扉を開けて中に入ると、勝手知ったる我が家のようにずんずんと奥に進んでいく。戸惑っているとゲンさんは振り返り、早く来いと視線で訴えた。

 食堂の部屋を過ぎた奥の部屋、ノックのせずに扉を開けてると女将さんと調理服姿のいかつい中年男性。いかにも角刈りがに会いそうだが帽子で髪型はわからない。

「あら、ゲンさん。また持ってきてくれたの?」

 女将さんが愛想よく出迎えるとゲンさんは視線で僕に合図した。

「あ、どうぞ」

 差し出したバケツの中には昨日ほどの大物ではないにしろ、アジやイサキが数匹泳いでいる。

「あら、ウチムラさんもご一緒に釣りを?」

 確かに一緒に釣りはしていたが、釣り上げたのは全部ゲンさんだ。答えに詰まっているとゲンさんが「おう」と返事をし、二人の成果にしてくれた。ぶっきらぼうだが、優しい面もあるのだと、ゲンさんの評価を改めつつ感謝した。

 部屋を後にしようとすると、

「ゲンさん、ご飯食べて行ってね」

 と女将さんが言った。

 ゲンさんは深く頷いてそのまま食堂に向かった。つられて食堂に入ってゲンさんの隣に腰を落とした。

 やがて食欲をそそる朝食が運ばれ、ゲンさんと共に頂いた。ゲンさんは歩くのも速ければ食べるのも速く、食べ終えると先に一人で出て行ってしまった。



 午前中は何をするでもなく、テレビを見たり、窓の外から海を眺めたりしていた。

 パンッパンッ、と音がしてふと視線を落とすとカヤさんが洗濯ものを干してる音だった。旅館の裏は小さな庭になっており、庭一杯に物干し竿が連なり、そこに干されたシーツで庭は白に染まっていた。

 全ての洗濯物を干し終え、カヤさんは縁側に腰かけ一息ついているところだった。

 今なら大丈夫だろうかと、部屋を出て庭に下りた。

 足音で気付いたカヤさんは笑顔で会釈してくれた。

「今、大丈夫」

「あ、はい。一段落したところです」

 横に腰をおろし、自販機で買い置きしていた缶珈琲を差し出した。カヤさんは少し躊躇いながらも「ありがとうございます」と言って受け取ってくれた。

 束の間、二人で珈琲を啜りなだらかな時間を過ごす。

「ゲンさんって、この旅館の関係者?」

 疑問に思っていた事をそれとなく訊いた。

「いえ、近所に住んでるただのおじいちゃんです。……二年前に奥さんを亡くしてからは今は独りで」

「そうなんだ」

「だから心配でときどき、お母さんとかが様子を見に行ってたんですけど。ゲンさんは申し訳なく思ったのか、そのうち自分から顔を見せるようになりました」

「魚を持って?」

「はい、魚だったり、秋になると山に行って山菜なんかも採ってくれてます」

 きっと、持ちよるそれらはついでに過ぎないのだろう。ただ顔を見せに来るだけというのは気を使うだろうから、何か言い訳といっては聴こえが悪いが、間に入れる何かが必要なのだ。

「何か、昔から付き合いはあったの?」

「いえ、ゲンさんは元々都会に住んでいて、まだお母さんが私ぐらいだったころに旅行でこの辺りに来て。この旅館に泊ったそうです。それからは毎年のように来てくださって数少ない常連さんになったそうです」

「へえ、でも今はこの辺りに住んでるの?」

「会社を辞めてからは奥さんと二人で引っ越してきたんだそうです。そのあたりの経緯はくわしくは知らないんですけど」

 毎年のように訪れて、果てには終の棲家として選ぶとは、よほどこの土地が好きなのだろう。お世辞にも栄えてるとはいえないし、買い物するにも不便だ。ただ自然が豊かなのは確かだ。都会に住み、長年コンクリートジャングルに囲まれた生活を送っていたなら、こういった物静かな場所に憧れるのも頷ける。

「良い場所だからね、ここは」

「そうですか? 確かに海とかは綺麗ですけど、何もないですよ。私の同級生なんかはほとんど出て行っちゃいましたし」

 それから小一時間、僕等は会話を楽しんだ。まともに話したのは初めてだったが旧知の仲のように会話は弾んだ。

 この書簡、勿忘草はたった親子三人で経営しいて、お母さんが女将、お父さんは料理を担当、その他ほとんどの仕事をカヤさんが担当しているとのことだ。あとは兄が一人いるが調理師免許を取りに街の学校に通っているらしい。

 こっそり、愚痴のように漏らしてくれたが、カヤさんも都会に憧れがあったらしい。まだ若い年頃の女性としては当然の思いだろう。

 しかし、小さい旅館とはいえ、二人ではさすがにきついらしく、兄がいない今はどうしても自分が手伝わなければということらしい。

「別に、この土地が、この仕事が嫌いってわけじゃないんです。ただ、一度は違う生活を味わってみたいってだけで」

「そうだよね、俺も――」

 何かをいいかけて、言葉がつまった。何だ? 『俺もそうだった』。そう言おうとしたのだろうか。無意識についた言葉。だけど肝心の記憶は未だに靄がかかったままだ。

「ウチムラさんも田舎育ちなんですか?」

「ええ、うん、まあね」

 言葉を濁す。

 会話の内容がいやな方向へ向かって背中に嫌な汗が滲んだ。

 ぎしっと、縁側の後ろの廊下を踏む音が聴こえて二人して振り返る女将さんがたって手招きをしていた。

 思えば結構の時間話しこんでいた。

「そろそろ戻ります。珈琲ありがとうございました」

 そういってカヤさんは勢いよく立ちあがった。

「うん、こちらこそ、楽しかった」

「あ、都会に行きたいとか、内緒ですよ」

 最後にいたずらに微笑んでカヤさんは仕事に戻っていった。



 午後は再びぶらりと外に出て辺りを散策していた。

 太陽が頂点に登る頃、日差しはきつくなり、立っているだけでも汗ばむ気温になってきた、それと同時に空腹も覚えた。

 食事できるところはないかと、海岸沿いや皆の間をうろうろする。カヤさんと話しているときに訊いておけばよかったが、その時はすっかり忘れていた。

 海から少し離れると、小さな赤い鳥居が見えて来た。前に立つと、上にはかなりの段数の階段が続いていた。周りには木々が生い茂りもう山と言って差し支えない。というよりは山だ。

 何を求めてか、長い階段を登り始めた。空腹で足が重い。

 急にあたりが開けた、しかし階段はまだまだ続いている。その中腹部は小さな駐車場になっていた。車でここまでは登ってこられるらしい。

 駐車場の奥に食事処と書かれた幟が見えて一気にテンションが上がった。早足で駐車場をかけぬける。

 幟の横には小屋のような小さな建物。看板も何もない。外からは仲窺えず、人がいるのか、そもそも営業しているかもわからない。

 意を決して引き戸をガラガラと音を立てながら開いた。

「らっしゃい」

 そう声をかけられおずおずと中に入る。どうやら食事処で間違いないようだ。

 五十がらみのおじさんがタバコを吸いながらテレビを見ていた。店内は四人掛けのテーブルが二つとかなり狭い。

 席に着くと、タバコを消した叔父さんが水をもってきてくれた。メニューはどこかときょろきょろすると、壁に貼り付けられていた。

「ラーメお願いします」

「ラメーン? うーん……」

 おじさんは腕を組んで顔をしかめた。

「じゃあ、かつ丼で」

「……」

「アジフライ定食」

「はいよ」

 ようやく注文を受け入れてくれた。

 おじさんを観察しているとテレビを横目に調理している。大丈夫だろうか、味もそうだが、包丁を持つ時すらよそ見している。良く手を切らないものだ。

 失礼だが、予想と反して出てきたアジフライ定食はおいしかった。勿忘草ものにも劣りはしないほどだ。

 胃を満たすと急に元気がみなぎってきた。上に続く残りの階段を一気に駆け上った。 

 神社。

 砂利の敷かれた境内には人の気配はない。静謐な空気のなか、踏みしめる砂利の音だけが響く。

 特に祈る事もなく、お賽銭も入れなければ手も合わせない。

 神社の裏には木々がなく、崖下の下が一望できた。海、そして小さな町がすっぽり視界におさまった。

 勿忘草はどこだろうかと、ドングリサイズの家々を順に見る。海岸沿いに面した二階建ての木造建築。裏にある小さな庭。そこに広がる一面の白で勿忘草は割とすぐに見つかった。

 こうして見下ろすとかなり遠くまで来たように思うが、歩いたのはせいぜい三十分程度だ。

 ちょうどいい高さの切り株に腰を降ろし、背負ったザックも地面に置いた。

 暫く景色を眺めた後、ザックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。

 指でフレームを作り、切り取った景色を紙に描いていく。記憶はないが確信できる。なんども繰り返した所作だ。黒い線が走り、重なり、景色が浮き上がっていく。

 一心不乱に描き続けた。休憩することなく完成まで一気に描きあげ、気付いた時には日がかなり傾いていた。

 完成した絵を眺めると、最後に右下に今日の日付と奇妙なマークを書き加えた。自分で書いておきながらその、なぜこんなアルファベットのWに似たマークをかいたのか分からなかった。まるで今までずっとそうしてきたかのように、無意識の行動だった

 そろそろ帰ろうと神社を出て、長い階段を下る。ゆっくりと来た道を戻り、海岸線に出たとき、海はオレンジに染まっていた。何度目か目にするこの景色はいつ見ても美しく新鮮だ。

 ふと衝動が込み上げ、抑えきれずに再びスケッチブックを取り出し、防波堤に座った。そしてまた鉛筆を走らせる。

 夕焼けの絵完成したとき、現実では既に日は沈みきっていた。



 それから、生活のパターンが決まった。

 朝、ゲンさんと共に、釣りを楽しむ。

 相変わらず会話は少ないが、気まずい空気はなく穏やかな時間だった。あまりに釣れないときは、新しい仕掛けをくれたり、違うスポットへと連れて行ってくれたりした。

 そのおかげで坊主の日はなくなり、胸を張って女将さんに魚を届ける事が出来るようになった。

 その後は決まって一緒にゲンさんと朝食を摂る。ゲンさんはいつも半分の時間で平らげては先に帰ってしまう。本気を出せば追いつけないこともないが、折角のおいしいご飯だ。味わって食べなければ損だろう。

 一息つくとザックを背負って外に出る。町の中、海、山、神社、どこでもいい。思い立った場所に赴き午前中のうちに絵を一枚仕上げる。

 昼食は神社の途中にある小さな食事処。長い階段も今や苦ではなくなった。そのまま神社に登ることもあれば、道をそれて山に入るときもあった。後はいつも同じ、適当な場所に腰をおろしスケッチブックを開くのだ。

 描いては仕上げ、ただそれだけを繰り返す。理由なんてない、ただそうしたいからだ。ただ書き写すだけじゃない。それでは写真で十分だ。いや、写真だって同じ対象物を撮影しようと、撮影者によって映り方は変わるものだ。

 ただ、絵はそれがより顕著に表れるような気がする。描く景色や物体を通して自分という自分物をもそこに投影しているのだ。記憶の無い自分がそんなことを言うのは皮肉なことだが。

「何やってんだ?」

 ゲンさんが訝しげに問いかける。

「見ての通り、絵を描いてるんですよ」

 何かも描くのは風景ばかりではない。

 早朝だけでなく、夕方にもゲンさんは釣り糸を垂らしていることがある。その日は横に腰かけ、一緒に釣り糸を垂らすのではなく、少し離れた所からゲンさんの釣り姿を描いてた。

 風景と違って、人物や動物は動きがあるので描くのが難しい。そんな時は最初の一瞬を切り取り、輪郭を急いで仕上げたのちにディテールを仕上げて行く。

 しかし、ゲンさんに限ってそんな気遣いは無用だった。身動きがほぼないのである意味風景より楽かもしれない。

 仕上がった絵をゲンさんに見せても「ふんっ」とまともな感想はもらえなかった。それが馬鹿にしているとか、けなしているとか、そんな意味でないことはわかっている。だけど少しは寂しい。

 比べてカヤさんは違う。

 ある日の午前中、二階の部屋から裏庭で洗濯物を干すカヤさんの姿を描いていた。気づいたカヤさんは大きくて手を振ってくれたので、同じように返した。

 午後になると、さあ今日はどこに行こうかと旅館を出た。ふと振り返り、勿忘草の凛とした佇まいに今更ながら気が付き。今日はお世話になっている勿忘草を描くことに決めた。

 勿忘草の前に腰かけ、描き始めて数十分後、カヤさんが箒をもって現れた。箒を立て掛け、仕事を放棄したかと思うとすぐに駆け寄ってきた。

「何描いてるんですか?」

 そう言ってはスケッチブックを覗きこんできた。

「ちょっと、旅館の絵をね」

「うわあ、上手ですね」

「ありがとう」

「他にも描いてるんですか?」

「うん、どうぞ」

 一旦手を止めてスケッチブックを手渡した。

 始めのページからゆっくりと眺め始めたカヤさんは、ページを繰るごとに感嘆の声を上げて賞賛してくれた。お世辞だとしても嬉しいもので、やはり、人に見てもらい、感想をもらった方がモチベーションは上がる。

「あ、これさっきの私ですか?」

 ひとつ前のページに差し掛かりカヤさんは言った。

「そう、ついさっきの」

「あれ、絵描いてたんですか、気付かなかったです」

 スケッチブックを受け取ると再び作業に戻った。カヤさんは暫くその光景を後ろから眺めていた。絵を見られる事自体は恥ずかしくはないが、描いている最中を見られるのは少し気恥ずかしい。

 絵はほぼ完成に近づいていた。だけどどこかもの寂しい。そうだ、

「カヤさん、ちょっと旅館の前に立ってくれない?」

「もしかして、モデルですか?」

「そうおす、すぐ終わるから」

「わ、わかりました」

 勿忘草の立ち看板の横にぎこちなくカヤさんは立った。明らかに緊張しているのが見て取れる。少し不自然な立ち姿、それもまた一興と鉛筆を走らせた。

 スケッチブックから視線を上げる度にカヤさんは恥ずかしそうに目をそらした。

 そんな仕草が可愛らしく思わず笑みを漏らした。

 その笑いを何か勘違いしたのか、カヤさんは拗ねたように眉をひそめた。



 今日で一週間が終わる。あっという間だった。

 最後の朝もいつもと同じ、ゲンさんと釣り糸を垂らしていた。しかし、まったく集中できない。

 昨日の昨日まで、夏休み最終日の小学生のように、未来の事など何も考えていなかった。いや、本当は分かっていたんだ。わざと心の隅に追いやって考えないようにしていた。どうせ明日考えなければならないのだから。憂鬱な気分になるのは一日で十分だ。

 幸い、所持金にはまだ余裕がある。もう一週間、二週間でも余裕で泊れるほどの。だけどさすがに怪しまれるだろうか。

「お前さん、大丈夫か?」

「え、何がですか?」

「アイツと、あの時のあいつと一緒の目だ」

「アイツって誰のことです?」

「……はやまるなよ」

 最後に理解のできない台詞を残りゲンさんは黙り込んでしまった。

 結局その日は二人とも釣果ゼロだった。

 手土産がないと

合わせる顔がないのか、ゲンさんは独り反対方向の自宅へと帰ってしまった。今日は久々に一人で朝食を摂ることになりそうだ。

 とぼとぼと勿忘草に帰り荷物を置いて食堂に行こうとしていたとき、開け放った窓から救急車のサイレンの音が聴こえて来た。

 響くけたたましい音は、静かな海町には不似合いだった。

 ドップラー効果によって徐々に高くなるその音から、救急車が近づいてくるのが分かった。やがて視界にとらえ、海岸沿いを走る救急車を見ていた。そして、てっきり通り過ぎるものかと思った、らちょうど目の前で停車した。

「え?」

 何事だと思い、急いで部屋を飛び出して下へ駆け下りた。

 玄関付近では少し騒然となっていた。近所の人たちも何事かと数人集まっている。

 調理服姿のオヤジさんが両脇を女将さんとカヤさんに支えられ、救急隊員の方にバトンタッチされるところだった。

 タンカに横になった親父さんは苦悶の表情を浮かべ、そのまま救急車に運ばれた。

 救急車が去った後、女将さん、カヤさん、近所の人たちが庭先で話している。その中にひょいと紛れ込み事の顛末を訊こうとした。

「あの、何かあったんですか?」

 言った後にすぐに後悔した。何かあったに決まっているではないか。

「ああ、ウチムラさん、お騒がせしました。こんな早朝に申し訳ございません」

 女将さんが深々と頭を下げた。

「いえ、それより大丈夫なんですか」

「はい、本当に大したことないんです。ただのぎっくり腰ですから。それなのにこの子が慌てて、大げさに救急車なんか読んで」

 横にいたカヤさんは睨まれ、慌てて周りの人々に頭を下げた。

 周りの住民たちはほっとした表情を浮かべて三々五々に去っていった。

 こんなことを口に出しては言えないが。幸いなことにオヤジさんがぎっくり腰を発症したのは朝食を作った後だった。最後になるかもしれない朝食をありがたく戴いた。

 その後はいつも通りザックを背負って出かけた。

 最後にもう一度、この町を一望しようと神社へ向かった。

 スケッチブックを広げ、鉛筆をいつものように走られるが作業は遅々として進まない。これからどうしようか、思考がそれに囚われているからだ。

 選択肢は三つだ。もう少しこの場所に留まる。お金はあるんだし、怪しまれようと文句はいわれないだろう。二つ目は、違う場所に行く。違う所で、同じような旅館に泊まり、違う景色の絵を描くのもいいかもしれない。三つ目は帰る、現時点では自分が何処に住んでいたか覚えていないが、知りうる手段はいくらでもある。そして、自分が何者か知る必要がある。正直、これは一番後回しにしたい。

 どうしたものかと考えているうちに、かなりの時間が経過したのだろう。太陽が既に半分海の向こうに消えていた。

 よし、もう少し此処にいよう。

 最後の最後にそう決意した。もしくは、大切な事を後回しにした結果かもしれない。

 勿忘草に帰ると、受付近くで女将さんとカヤさんが話しこんでいた。険しい表情い見えるのは気のせいだろうか。兎に角、ちょうどいいと二人に歩み寄る。

「あの、もう少し此処に滞在することは可能ですか。実は休暇はもう少し残ってるんです」

「え、はい。それは大丈夫ですけど」

 答える女将さんはどこか歯切れが悪い。

「もし迷惑だったら無理にとは……」

「いえ、ご迷惑なんてことはないんですが――」

 そこで電話が鳴り響き、「失礼します」といって女将さんは電話の元へ向かった。そして会話はカヤさんに引き継がれた。

「実は、お父さん運ばれていったじゃないですか。ぎっくり腰といえ、結構重症な方で、二、三日は入院が必要そうなんです。そして、タイミングが悪いことに、明日から大学の薙刀部の方々が合宿に来るんです。料理の方はなんとかなるんですが、材料や、クリーニングに出していた布団とかの運搬は父の運転でやってたんです。私も、母も免許を持ってないのでどうしようかと」

「それは、大変だね」

「今更キャンセルはできませんし……、」

 電話を終えた女将さんが帰って来た。

 この大変な状況だと、やはり追加で宿泊されることは好ましくないだろうか。当初の契約通り今日でお暇した方が賢明だろうか。自分は部外者なのだが、この状況で帰るのは見捨てるみたいで気が引けるな。そう思ったとき、思わず言ってしまった。

「よかったら、自分が運転しましょうか?」

 女将さんもカヤさんも驚いた表情を見せた。言った本人も何を口走っているんだと驚いている。そもそも、自分は運転免許を持っているのだろうか。簡単に脳内でシミュレートしてみた。車の構造、動力の伝わり方、マニュアル、オートマの違い、そう言った記憶は思い返せば存在し、運転はなんとかできそうだ。

「でも、そんな……。お客様に手伝ってもらうわけには……」

「気にしないでください、散々お世話になっている身ですし」

 自分から言った手前、簡単には引き下がれない。

「ですが……」

「お客と店員の関係じゃなくて、人と、人として、力になりたいんですよ」

 女将さんはまだ迷っているようだ。片手を頬に当てて考え込んでいる。

「お母さん、折角の好意なんだから、無下にするのも失礼だよ」

 横からカヤさんが助け舟を出してくれた。

 それを聞いた女将さんは小さなため息を一つ洩らし、

「じゃあ、お願いいたします」



 勿忘草から少し離れた場所に業務用のバンは駐車されていた。

 旅館を無人には出来ないので女将さんが残り、運搬はカヤさんと共に行うことになった。

「ウチムラさん、本当に助かります」

「いやあ、こちらこそ、差し出がましいこといって、困らせちゃったならごめんね」

「いえ、本当に助かってます」

 その車はマニュアルだった。クラッチ、ブレーキ、アクセル。エンジンをかける前に確かめるように踏みしめる。

 さて、クラッチを踏みながらイグニッションを回した。古い車だ。今となっては、ほとんどがセルスタートなのに。

 カヤさんの案内で町中を駆け巡った。心配だった運転は思いのほかスムーズにできた。

 クリーニング店では布団を受け取り、市場では食材を購入した。カヤさんはいつもオヤジさんについて回っていたらしく、やり取りには慣れていた。

 帰ってからも大忙しだった。

 運転以外にも色んな事を手伝った。女将さんは最後まで遠慮していたが、乗りかかった船だと半ば強引に手伝った。カヤさんに教わりながら。アメニティの補充やベッドメイキング、布団の畳み方など。

 薙刀部の一員が到着してからは女将さんは着物で出迎え、練習に出かけた後はすぐに割烹着姿に着替えて料理にとりかかっていた。女将さんも調理師免許を持っているらしく、その手際は業に入っていた。その手伝いにカヤさんが駆り出されていたので、その他の雑務を引き受けた。

 時間は慌ただしくも過ぎ去った。これまでの一週間が緩やか過ぎたせいで余計にそう感じた。

 忙しさ、これを感じるのは久々だった。だけど、どこか心地が良い。

 オヤジさんが退院しても、まだそれほど動けないということで忙しさはあまり変わらなかった。

「お疲れ様です」

 そう言ってカヤさんは缶珈琲を手渡してくれた。

「ありがとう」

 いつかと同じように、だけど立場は逆で、裏庭の縁側に腰掛けて缶珈琲を啜った。相変わらず面前にはシーツで白に染まっている。ただ、以前よりその量は倍以上に増えている。

「今日で、終わりですね」

「うん、あっという間だった」

 今日で薙刀部の合宿は終わりを迎える。密度の濃い四日間だった。

「ウチムラさん、休暇はいつまでなんですか?」

「休暇? ああ、明日まで、かな」

 咄嗟に嘘をついた。そして思いだした。これからのことを。明日まで、なんてつい言ってしまったからにはもう、ここにはいられないな。

「寂しくなります」

「はは、ありがと」

 乾いた笑いを誤魔化すように珈琲を生きに飲み干すと、カヤさんが神妙な顔でこちらを見つめているのに気づいた。

「ウチムラさん、大丈夫、ですよね」

「え?」

 カヤさんの言葉の真意が分からず呆けた声を出した。

「ウチムラさんが来てすぐのころ、ゲンさんがいったんです。やつは何処か危なっかしいからよく見張ってろって。どこかアイツに似ているって」

「アイツ?」

 以前にゲンさんが一度言った、あのアイツだろうか。

「私も、分からなくて、お母さんに訊いたんです。まだ、ゲンさんがサラリーマンだったころの部下だそうです。大層可愛がっていたらしくて、勿忘草にも一度泊りに来たことがあるそうです。まだ私が小さい頃で覚えてはいないんですけど。部署が変わってその人がゲンさんのもとを離れた三年後、その人は自殺したそうです。部下じゃなくなってもちょくちょく会っていたそうです。だけど気付いてあげられなくて、ゲンさんは自分をかなり責めて、それが原因か分かりませんが会社も辞めて、それから都会を離れてこの町に住んでるんです」

「そう、なんだ」

 少し重い内容に適当な返しをすることができなかった。

「ごめんなさい、変な話して。それに人の過去を話すのはあまり良いことじゃないですよね」

「うん、でも心配させたこっちも悪いし」

「ウチムラさんは、大丈夫ですよね?」

 カヤさんはまっすぐにこちらの目を見て尋ねた。

「大丈夫、だよ」

 そう言う声は震え、視線は斜め下に注がれ。どうして、堂々と答えられよう。記憶の無いこの男が。何者なのか。何故記憶がないのか。どうしてこんな場所に来たのか。もしかしたら何やら犯罪を犯して逃げてきたのかもしれない。

 そう、逃げてきた。何かから逃げてきたんだ。それは確かだ。

「ウチムラさん、何か辛いことでもあったんですか? こんな私なんかが力に慣れるか分からないですけど。話を聞くだけは出来ます」

「……」

 いつの間にか両手はカヤさんの両手に包まれている。

 だけど、答えられない、分からないんだ。

「なんでもないよ、ただの休暇で――」

「……」

 そんなにまっすぐ見つめられては嘘も出てきづらいだろう。

 きっともう、休暇だなんだは、嘘だってことを気付かれているだろう。だけどカヤさんは無理に何かを語らせようとはしなかった。ただ、黙って待っていてくれる。だけどいつまでたっても口から漏れるのは重たい息だけだ。

「分かりました、ただ、これだけは約束してください。また、ここに、勿忘草に訪れてください。泊らなくても、ちょっと顔を見せに来てくれるだけでいいですから」

「うん、分かった」

「約束ですよ」

「うん、約束」

 折り重なった手は、いつの間にか小指だけが絡んでいた。

 

 翌日、親子三人と、ゲンさんにも見送られながら勿忘草を出た。

「さて、と」

 結局、残金は半分以上残っていた。と言っても最初の一週間分以外の料金は受け取ってもらえなかったのだけれど。むしろ最初は一銭も受け取ろうとしない女将さんだったが、そこは無理やり支払ってきた。

 そして受け取った領収書の明細には氏名と住所が記載されていた。気があまり進まないが、目的地はここだ。

 来た時と同様に電車を乗り継ぎ、移動を続ける。

 窓から見える景色、海が遠ざかっていくのを見ると胸が締め付けられた。

 見えなくなる海をみたくなくて、そっと目を閉じた。

 それからはもう外は見なかった。代わりに電車内に視線をさまよわせる。子供から老人まで、外国人だっている。何を思うか知らないが、彼らはみんな生きていて、それぞれの物語がある。だけどそれが重なり合うのは稀で、関わりには限りがある。今、目に見えてる人々とはきっともう出会うことはないのだろう。まあいっか、そう思う自分も寂しい。

 駅で購入したサンドウィッチやおにぎりはどれも味気ない。早くも勿忘草の料理が恋しくなる。

 夕方になると、背広を着た人たちが見立ち始める。皆、一様に暗い顔をして俯いている。携帯端末を見る者、雑誌を読む者、誰も、周りを見ようとはしない。触れ合う距離に居ながらお前は他人だと頑なにバリアを張って。

 そんな光景を見ていると急に動悸が激しくなった。脈打つ鼓動は脳にまで達して、ガンガンと鳴り響く。自分を抱きしめるように丸くなって必死で耐えた。

 疲労困憊の体で駅を降りた。見覚えのある始まりの駅。

 重い足取りでコンクリートを踏みながら歩く。

 帰巣本能か、無意識に刻まれた記憶か、元のアパートへはさして迷うことなくたどりついてしまった。

 ドアノブを回すとそのまま扉が開いた。そう言えば鍵をかけてはいなかった。

 玄関には郵便物が散乱していた。そのほとんどが住宅販売や近所のピザ屋のチラシだった。その中に一つ、差出人不明の茶封筒が紛れ込んでいた。

 入っていたのは、『My memory』と汚い筆記体で書かれた紙一枚と、透明な袋に入った一粒の錠剤。

 見る前に飛べ、なんて言葉を脳をよぎったが、そのときの気分はそんな大それたものではなく、強いて言うなら自暴自棄。

 袋を破り、その錠剤を水道水で流し込んだ。

 すぐに効果が表れ、ベッドに辿り着くまでもなく倒れ込んだ。

 そして夢を見た。

 長い、長い夢を。

 いや違う。それは夢なんかじゃなくて、自分という物語だ。

 生まれてからそれからの、何があり、何を想い、そして今に至ったかを。

 そう、全てを思い出した。



 目が覚めた。もう朝になっていた。

「まったく、ゲンさんは鋭いなあ」

 変な態勢で、フローリングの上に倒れ込んでいたものだから身体の節々が痛い。

 ゆらゆらと立ち上がり、冷蔵庫を開いた。奥に隠しておいた携帯を取り出す。なんと充電があと十二パーセントも残っていた。

 メールや着信がかなり溜まっていた。友人、同僚、両親、そして会社から。今すぐ床にたたきつけたい衝動に駆られたがなんとか堪えた。

 両親、友人、そして会社と、着信があった人々に折り返し電話し処理をした。処理なんて言うと、冷たい人間に思われるだろうか。二、三日ではなく十日以上もの失踪となると怒りを通り越して心配された。いつも理不尽だった上司も、無関心だった両親も、揃って僕の安否を口にした。ここで、本当なら心配させた事へと謝罪や、その暖かみへの感謝を口にすべきなんだろうが、不謹慎にも僕はおかしくなって笑いがこみあげてきた。笑いだす前に、暗い声のまま会話を終わらせた。

 一仕事終えて携帯を放り投げる。

 ベッドに寝転がり、天井を見つめる。

 僕、ぼくは 内村和尚(ウチムラカズナオ)、二十六歳、独身。高校まで北陸の田舎で育ち、大学は都会へ。そしてそのまま都会に就職。働きだして五年目、何の目標もモチベーションもなかった。社内の空気は悪く、残業も多い、未来の展望もないとあって十数人いた同期も今や三人だ。

 毎日が嫌で嫌でしかたなかった。恋人でもいればまだましだっただろうが、生憎と一人だった。休日はただただ寝て過ごし、好きだった絵も段々と描かなくなっていった。

 もう、ダメだ。

 ほぼ鬱病状態だった。

 死に至る病、それは絶望とはよくいったものだ。未来に、明日に絶望しかなかった。仕事なんてまだ若いからいくらでも変えられる。実家に帰れば住み場所はある。なんて考えはその時は浮かばないものだ。視野が極端に狭くなるのだ。現状を続けるか、死か。

 とはいっても実際に死ぬ気なんてさらさらなく、妄想の範疇だった。しかし、そんな時、ネットである薬が密かに話題になっていた。通称、『ハーフスーサイドドラッグ』略して『HSD』。それを飲めば記憶が消えるらしい。それもエピソード記憶だけが。記憶をなくす、自分が何者であるか分からなくなるということは、それはもう死んだことと同義だ。だからハーフスーサイド。

 ネットで注文するとすぐに自宅に届いた。差出人は不明、説明書的なものもなし。PCパーツと書かれた段ボールにただ現物が入っているだけだった。

 怪しさ満点の薬だが、躊躇うことはなかった。全てにやけっぱちだったし、薬の効果に対して半信半疑だった。

 いや、ほとんど信じていた。だから部屋を掃除してみたり、携帯を隠したり、自分の痕跡を隠したのだ。

 その薬には対になる『リバース』と呼ばれる。ドラックも存在した。記憶を取り戻す薬だ。だからそれを数日後に自宅に届くようにポストに投函した。 

 結局そうやって、保険をかけて事におよぶ。なんてチキン野郎だと自分が恥ずかしい。そのおかげで今の自分がこうしているわけだが。

 だけど、僕は一度、確かに死んだのだ。

 それを実行したのは僕自身だが、そうせしめた何かには非常に怒りが湧いてくる。自分を殺されたのだ。それは当然だろう。この社会か、あの会社か。

 だけど、もういい、行き場の無い怒りはもう消し去ろう。

 ポジティブに考えれば、僕は生まれ変わり、そしてふっきれた。

 会社を辞めた。

 まだ、一年は生活できるだけの預金はある。にも拘わらず、記憶を失くした僕に託したのはその半分にも満たない額。そう言った面でも自分のみみったらしさが恥ずかしい。

 家具や家電、身の回りの物を整理し始めた。不動産屋に行き今月いっぱいでアパートの契約を切った。箪笥や本棚は粗大ごみに。シールを買いに行かなければ。

 断捨離の神と化していた。あれもいらない、これもいらない。

 残ったものは僅かなものだった。さすがにザック一つに納めるというわけにはいかなかったが、軽自動車でも十分に運べる量だ。

 様々な事務処理をしつつ、物を処分し、一週間後にはワンルームの部屋はがらんとしていた。この部屋に引っ越してきた当初を思い出した。

 乗り捨てができるレンタカーを借り、荷物を詰め込んだ。

 不動産屋に乗り鍵を返却。

 晴れて僕は住所不定無職。生まれて初めて感じる自由という感覚。何だってできるし何処へだって行ける。縛りつけるものなど何もない。

 だけど、目的地はもう決まっている。

 西へ。





 早朝に、目的地へ到着した。運転しずめで身体はがちがちで眠気がすごい。そんな酷い顔を見てゲンさんは、

「ふん、もう大丈夫そうじゃな」

 と言って初めて笑顔をみせた。

 その後は二人して魚を手土産に勿忘草に向かった。カヤさんに会わなければ、約束を果たしに来たと。

 まあ、一度と言わず、これからはちょくちょく顔を見せる予定なのだが。

 まず、住むところを探さないと。

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ウエスト・サイド・ストーリー 月見あお @sigure144

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