予想外の一撃
久々にいい気分だった。
フライトの後でこんなにも爽快なのは本当に久しぶりだ。訓練を終え、編隊を組んで基地へと帰投しながら、つい鼻歌が出てきそうになる。
今回は色々と上手くいった。いつもよりは遥かにウイングマンの動きを捉えられていたと思う。「気負わずに、一点集中になるな」というアディーやジッパーのアドバイスを常に頭の片隅で意識するように心がけていたのが良かったのかもしれない。
今までは気を張り詰めずにやろうとすると、
何となくコツが飲み込めた気がした――よし、できそうだ。次からも上手くやれそうな気がする。初めて掴めた手応えを、早くディブリーフィングの場でフィードバックしておきたい。
はやる気持ちを抑えようと、マスクに送られてくる酸素を深く吸い込みながら、操縦桿を握りなおす。
パイロットの心理状態は操縦桿を伝って機体の動きに現れてしまう。あまりにそわそわしているとウイングマンまで落ち着かなくなってしまうので、表面上は至って悠然としたリーダーらしい態度を心がけつつ、基地に向かって機体を飛ばしていた。
海岸線に近づくにつれ、眼下には積雲系の大きい雲の塊が目立つようになってきた。気象隊の若い予報官が言っていたとおりだ。西からゆっくりと一群の雲が流れてきている。
着陸のために定められたコースに従い、大洗町の漁港を目印に内陸に入ってゆく。水戸市街の上空に差し掛かったところで進路を変え、そのまま真っ直ぐに百里基地の滑走路への進入を目指す。
ラプコンの管制官の指示に従い、徐々に高度を下げていった。飛行場に近づくにつれ、雲はよりいっそう密になってすぐ眼下を覆っていた。浅い角度で雲中に入り、白い霧の中を抜けていく。
キャノピーの表面を撫でるように、濃い霧が高速で後ろに流れ去っていく。雲の上の突き抜けるような青空から一転して、周りは一面に白い世界に変わった。
雲の濃淡を見ていると方向感覚がおかしくなりそうだ。
真っ白い霧に完全に視界を遮られてしまうと、人間の感覚はあっけないほど簡単に惑わされてしまう。上下左右はもちろん、自分が上昇しているのか下降しているのかさえ定かではなくなってくる。
俺はコンソールに並ぶ計器が示す数値を注意深くチェックしながら、キャノピーの外に目を向けて、マルコとライズがちゃんとついてきているかどうかを確認した。
マルコは俺の右側に翼端を寄せて、霧の向こうにうっすらと姿を見せている。
今度は反対側を見た。
――そこには何もいなかった。
何も、見えない――。
全身が一瞬で総毛立つ。
俺はヘルメットのバイザーを跳ね上げ、自分の左側面の前方から後ろ、そして上から下まで、文字通り目を皿のようにして躍起になってライズの機影を探した。
だが、いない。
白く発光したような視界の中に、グレーの機体のほんの一部分すら見当たらなかった。
血の気が引いていくのを感じながら、
「ライズ、どこにいる」
答えはない。
「ライズ、応答しろ」
努めて動揺を抑えた声で繰り返す。
どこだ、どこにいった!? 雲に入る前は確かに横にいたのに――まさか、バーティゴに入って……。
胃の中が氷の塊を丸呑みしたように冷たくなり、喉が締め付けられたように苦しくなる。
マスクの下で喘ぐように息をつき、必死に自分を落ち着かせようとした。
『――ここだ。後ろにいる』
飛行班長の低い
同時に、背後の雲中から見慣れたF-15が姿を現し、何事もなかったかのように翼を並べて再びウイングマンの位置についた。ライズの機はいつの間にか俺の真後ろについて、レーダーを使って追随していたようだ。どうりで視界に入らなかったはずだ。
班長が応答したということは、ライズの調子でも悪いのか――薄くなった雲の合間に切れ切れに現れるコクピットを窺ったが、見る限りでは切羽詰まった様子もない。前席のライズは至って普通に操縦を続けており、後席の班長は計器でも見ているようだ。
まったく、何やってるんだ。ヒヤッとさせるなよ……。
ついさっきまでの息詰まる緊張感は拍子抜けするほど一気に解けた。
予想外の出来事に慌てたものの、その後は何事もなく雲を抜けた。
曇り空の下に広がる風景は薄暗かった。ところどころにできた雲の隙間から陽が差し込んで、光が落ちた一帯の畑や家々だけが明るく照らされている。そんな景色の奥に飛行場と滑走路が小さく見えていた。
訓練を終えて戻ってきた時に、滑走路の姿がはっきりと視認できるとほっとする。滑走路端から長く延びる滑走路進入灯――その脈打つような規則正しい点滅がまるで手招きしているように見えるので、俺たちは「来い来いライト」と呼んでいる――の光すら確認できないほどに霧が濃く立ち込めていたりすると、
もちろん、そんな時でもリーダーは焦る様子をウイングマンに悟られてはならない。鷹揚に構えて、「こんな突発事態、大したことないぜ」という雰囲気を操縦にも無線交信の声にも醸し出していなければならない。
しかし、今回は曇っているだけでそんな心配もなかった。
編隊を組んだまま滑走路上空をいったん通過し、順にブレイクして一機ずつの間隔をとり無事着陸した。ほっと息をつく瞬間だ。
駐機場に戻ると、この後ディブリーフィングを始める時間や今回のフライトでの目標達成度合、改善点など、ディスカッションすべき要点をあれこれと頭の中で考えながら荷物をまとめ、機上を離れた。
整備記録のチェック項目を埋め、サインをして機付長に渡して飛行隊に戻る。うまくウイングマンを動かすことのできたフライトの後では足取りも軽い。
「イナゾー!」
背後から班長に呼び止められて、俺は振り向いた。その瞬間――。
いきなり胸倉を鷲掴みにされ、左頬に激しい衝撃を受けた。
何が起こったのか咄嗟に分からなかった。しかし、怒りに目を吊り上げて右手の拳を握りしめている飛行班長を見て初めて、自分は殴られたのだと理解する。
俺はフライトスーツの首元を掴まれたまま、更にグッと班長の方に引き寄せられた。
「お前、雲の中で油断してウイングマンから完全に目を切ってたな」
「……は、はい!」
「どのくらい注意が途切れていたか知ってるか」
「いえ……」
「18秒だ、18秒」
吐き捨てるようにそう言った班長の目がいっそう険しくなった。一刀のもとに斬り殺されるのではないかと思えるような気迫に圧倒され、俺は思わず竦み上がった。
「何か起こって墜落するには十分すぎる時間だぞ」
班長は掴んでいた俺の胸倉を突き飛ばすようにして離した。完全に班長の剣幕に呑まれていた俺は、後ろによろめいてみっともなく尻餅をついた。
「先輩、大丈夫ですか!?」
立ち去った班長の後から駆け寄ってきたライズが俺を引っ張りおこす。列線の整備員たちがこの騒ぎに驚いた顔で遠巻きにこちらを見ていた。だが、自分の醜態をカッコ悪いと感じることもできないほど、俺は呆然としていた。
「すいません、先輩。班長に操縦を代わるように言われて……」
「お前のせいじゃないよ……」
そう、ライズのせいじゃない。注意を疎かにしていた俺が悪い。俺が悪いのは分かっているが――殴られるほどのことなのか?
ライズに続いてマルコも走り寄って来た。
お調子者のこの後輩は地面に落ちた俺のヘルメットバッグを拾いながら、「先輩、見事に一発食らいましたね!」と愉快そうに声を上げた。
この野郎、こんな時にまた呑気なことを……。
そう思ってマルコを睨みつけたつもりだったが、突然の一撃に打ちのめされた状態のままでは、まったく迫力の無い一瞥にしかならなかったようだった。その証拠に、マルコは相変わらず軽口を叩きながら、目の前で起こったハプニングの一部始終を言いふらそうとしている子どものように目を輝かせている。
ああ……左の頬骨がズキズキする。口の中も切ったのかもしれない。血の味がする。
気遣うライズとはしゃぐマルコを残して、俺は顔をしかめて頬を押さえながらよろよろとオペレーションルームに戻った。
殴られるほどの酷い失態をしたにもかかわらず、そのことに自分はまったく気づいていなかった――そして何より、「殴ることはないだろう」と、未だにミスの重大性が理解できていない自分自身がショックでならなかった。
――最悪だ……。
ついさっきまであれほど爽快だった気分は見事に吹き飛んでいた。もう立ち直れないのではないかと思うほど、自己嫌悪の奈落にはまりこんだ気がした……。
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