梅組流 酒の宴(1)
小川町の中心部――とは言っても、間違っても繁華街ではないのだが、とにかくその中心部は商店街になっていた。
一段高くなった歩道もない狭い県道に沿って、簡易郵便局や、個人経営の電気屋や酒屋、金物店、呉服屋といった小売店が年季を感じさせる古びた看板を掲げている。
商店が並ぶ通りのところどころには、昔からの平屋建ての家が軒の低い間口を歩道に向けていた。この季節、ようやく暑さの和らぐ夕方になると、ステテコにランニングシャツ一枚という寛いだ格好のお年寄りの姿をよく見かける。玄関先にぎっしりと並べた鉢植えの花に水をやりながら、煙草を
のんびりとして気負いのない、どことなく懐かしさを感じさせる風景だ。
夜の気配がようやく濃くなってくる宵の口、そんな通りの一角にある寿司屋の奥座敷を借り切って、飛行班の宴会が始まろうとしていた。
2列に用意された座卓の上には、サラダや蒸し物、天ぷら、刺身や寿司などが行儀よく並べられている。「揚げ物ばかりだと胸やけがする」という班長の注文を受けて、宴会幹事のデコが気を利かせたのだ。
ただ、予約できる店を見つけるのに相当苦労していたようだった。店に電話をかけて「今度の金曜に30名程度で。揚げ物の少ない和食メインで」と伝えるところまではいいのだが、その後で「305飛行隊です」と名乗った途端、店側から「確認しますので少々お待ちください」としばらく待たされる。そして結局、「大変申し訳ありませんが、生憎その日は予約でいっぱいでして……」と慇懃に断られるのだ。別の店に問い合わせてみても似たり寄ったりの対応をされる。
手当たり次第に電話をかけた後、デコは「先輩、全然予約が取れないっす」と携帯を握りしめたまま俺に泣きついてきた。
そうなのだ。俺も下っ端の頃に幹事を任されて宴会の度に苦労した経験があるから良く分かる。たとえ金曜とは言っても、この小さな町の宴会場がすべて団体の予約で埋まるほど町が賑わっている訳ではない。つまり――店が305の宴会を断るための方便なのだ。まあ、俺たちが敬遠されるのにはそれなりの理由があるのだが……。
何とか宴会場の予約を取ろうと奮闘しているデコが気の毒になったので、俺は比較的305に好意的なこの寿司屋のことを教えてやり、デコはどうにか会場の確保ができたのだった。
広くはない座敷に30人余りの飛行班員たちが
現隊長のリッチに乾杯の音頭を頼まれ、一番奥の主賓席に座っている前任飛行隊長、加賀2佐がグラスを手に立ち上がって一同を見渡した。愛嬌のある小さな丸い目をした前隊長は一見すると気の良さそうな中年にしか見えないが、小柄で痩せ形の体格にもかかわらず、堂々として落ち着いた風格は健在だった。
「今日は俺のために宴席を設けてくれてありがとう。
加賀2佐は今、市ヶ谷にある防衛庁の空幕――つまり航空幕僚監部に勤務している。
防大出身のパイロットは現場で飛んでいればいいだけではないから大変だ。防空の中枢を担う者としての役割も求められるので、空幕や、北部・中部・西部の各航空方面隊や南西航空混成団の司令部での幕僚勤務と、現場の部隊での勤務を短い周期で往復する。
だから隊長として立場や階級は隊内トップであっても、航学出身のパイロットに比べると総飛行時間はずっと少ないし、戦闘機乗りとして技量面では飛行班長に及ばないという隊長も多い。
それでも、指揮官というのはそれでいいのだ。下に従う者たちに、「この人にならついていきたい。この人のために頑張りたい」と思わせるものを持っていれば、部隊はうまく動いてゆく。
「現場を離れ、日がな一日デスクに向かい、方々に頭を下げて根回しに回らなければならない市ヶ谷での幕僚勤務は辛く耐え難いものはあるが――」
気苦労がありありと滲む言葉に、一同から笑いが漏れる。
「そんな毎日をこなしていけるのは、この梅組で君たちと切磋琢磨した2年間の日々が心の支えとなっているからこそだ。今まで色々な部隊を経験してきたが、俺はこの305こそが、自分の
加賀2佐はひとりひとりに力のこもった眼差しを向けながら、更に声を太くして続けた。
「『強・速・美・誠実』!――305に受け継がれるこの素晴らしい伝統を君たちには誇りに思ってもらいたい。そしていつまでも、たとえ305を離れたとしても、日本の空を守る戦闘機乗りとしてこの気概を忘れないでもらいたい。最高の部隊である梅組に――」
前隊長はそこで言葉を切り、勢いよくグラスを掲げた。
「乾杯!」
乾杯!――唱和の声が座敷いっぱいに響いた。
皆が一斉にビールを喉に流し込み、あちこちでテンションの高くなった上機嫌な声が上がる。
「やっぱりフライトの後の一杯はこたえられねぇなぁ!」
「ああ、生き返った……」
一気に場が和み、長い一週間が終わってフライトのストレスから解放された高揚感も手伝って声高に喋りながら、それぞれが思い思いに料理に箸を伸ばす。
座敷には女将さんが日本酒の一升瓶を次々に運び込んでいた。
ビールは乾杯の時の一杯だけ。あとはひたすら日本酒だ。宴会が始まって30分もしないうちから、あちこちに空の一升瓶が転がり出す。
俺も一杯目のビールを飲み干すと、後輩が注いでくれた日本酒を早いペースで胃に流し込んでいた。いつもなら先輩に絡みにいったり後輩を焚きつけたりするのだが、班長に殴られるほどの失態が頭から離れず、今はとてもそんな気分になれない。
ぼんやりと料理をつつきながら、加賀2佐の言った305飛行隊のモットーを頭の中で繰り返していた。
『強・速・美・誠実』――。
その強きこと闘犬の如く 速やかなること雷光の如し
その美しきこと梅花の如く 誠実なることまた梅花の如し
オペレーションルームに掲げてある額に記されている言葉だ。
今は、手の届きそうもない遥か彼方に輝く理想に思えてならなかった。
――他の部隊に転属になった時、俺は果たして「305出身です」と胸を張って言えるだろうか? 「梅組」の名に恥じないリーダーになっているだろうか……。
中にはどう頑張っても2機編隊長になれない人間もいる。ウイングマンとしての技量は十分でも、リーダーのポジションになるととたんに動けなくなるというパターンだ。たぶんそれは努力が足りないのではない。努力でカバーできる範疇を越えた「適性」の問題なのだ。その適正に欠ければ、戦闘機乗りとして部隊に居続けることはできない……。
そこまで考えて、俺は思わずぞっとした。
入隊してから8年間、歯を食いしばってがむしゃらにやってきた。そして、憧れだった戦闘機に乗れるまでになった。やっとのことでここまで来て、「やっぱりお前は戦闘機乗りとして向いていなかったんだ」と宣告されでもしたら……。
急に喉の渇きを覚えて酒を煽った。いつもは至福に感じる日本酒の味は感じられなかった。
その時――。
「今から諦めてどうするんですか!」
威勢のいい女の声がきっぱりと叫んだ。
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