テイクオフ

「イナゾーさん、おはようございます!」


 アサインされた機に向かっていくと、ハンドライトを手にしてきゃくの格納部を覗きこんでいた女性隊員が俺に気づいて元気のいい挨拶をよこした。機付員の磯貝士長だ。日に灼けた顔に化粧っ気はまったくない。童顔の可愛らしい顔いっぱいに、人懐っこい笑みがぱっと広がる。


 まだまだ自衛隊に女性は少ない。男に交じって働く女性隊員はただでさえ目立つ存在だ。だがそれ以上に、磯貝士長はその大きな胸でなおさら男たちの視線を引きつけている。ゴワゴワとした布地の作業服を着ていてもそうと分かるくらいの大きさだから、この時期のTシャツ姿ならなおさらだ。


 男ならば誰しもつい注意を引かれてしまう見事なバスト。「君の誘導でストップサインが出されても、そのでっかい胸に15の鼻先レドームごと突っ込んでしまいたくなるよ」と面と向かってのたまわったツワモノの先輩がいたほどだ。彼女が豪快に笑い飛ばしてくれたおかげで、その先輩は幸いにもセクハラで懲戒免職になることもなく、今でも懲りずに軽口を叩いている。


 そんな男どもの視線をものともせず、磯貝士長は戦闘機に触れていられる喜びを全身にみなぎらせ、毎日張り切って作業にあたっている。彼女の横では、機付長である皆川3曹が後輩の手つきを真剣な眼差しで見守りつつ、共に作業しているもうひとりの機付員の指導も忘れることがない。


 そんな整備員たちの真摯な姿を目にする度に、「愛機」という言葉はまさに彼らのためにあると納得できる。


 パイロットにとって愛機と呼べるものはない。その時々で割り当てられる機体が違うからだ。だからせいぜいは「何号機はコントロールが滑らかにききやすい」とか、「何となく乗りやすいのは何号機」だとか、ちょっと特別なケースだと「今日アサインされてるのって、この前、上で気持ち悪くなったあいつがコクピットで吐いたゲロ号機だよな!?」とか、その程度の認識だ。


 しかし整備員は自分が担当する機が決まっている。受け持ちの機体に対して細心の注意を払い、最高のコンディションで性能を発揮できるように気を配る。そして何より、必ずパイロットを無事地上に連れて帰ってくるように、ほんの些細な不具合や不調に対しても妥協を許すことはない。


 経験を積んで機付長ともなれば、1機100億円もする機体に自分の名前が記され、専属の責任者となる。メカニックにとってこれ以上手のかけ甲斐のあるものはないだろう。「自分の機」にこっそり愛称を付けて呼んでいる整備員もいるらしい。


 皆川3曹もこの機体に何かニックネームをつけているんだろうか?


 フライト前の外部点検のために機体に触れて異常がない事を確認しながら、ふとそんなことを思いついた。

 差し出されたバインダーの整備記録にサインしながら、俺は隣に立つ機付長にそれとなく訊いてみた。


「皆川3曹もやっぱり自分の15に名前をつけてるの?」

「えっ……いやぁ――」


 バインダーを受け取った彼はいきなりの質問に驚いたように声を上げたが、すぐに照れくさそうな曖昧な笑顔になって口ごもった。たぶん歳は俺と同じくらい。25、6だろう。自分の仕事に誠意を持って全力を尽くしている機付長の真面目な顔が、とたんに少年の表情になる。


「まあ、名前は一応……。でも、自分の中でこっそり呼んでるだけですから……」

「へぇ、何ていうの?」

「いやいや、改まって人に言うのは恥ずかしいですよ」

「ジェシーちゃんとか?」

「違いますって! 何でそんなバタ臭い名前になるんですか」


 苦笑しながら手を振って否定する皆川3曹をそれ以上煩わせるのをやめ、俺は機体にかけられた梯子を登るとコクピットに乗り込んだ。後ろから続いてきた皆川3曹が、パイロットの体を座席に固定するためのハーネスを俺の胸の前でしっかりと留め合わせる。


 部隊ロゴの入った紺色のキャップを脱ぎ、ヘルメットを被った。マスクを顔に合わせてヘルメットにフックで固定する。機付長がコクピットの中に身を乗り出してひとつひとつの装具に手を当て、あるべき場所にきちんと繋がれているかを手早くチェックしていく。


 下では機体にインターコムを繋ぎイヤーマフを耳に当てた磯貝士長が、エンジン・スタートのために少し離れた正面でスタンバイしていた。大きな胸にどうしても目が行きそうになるが、努めて自分のやるべきことに集中する。


 最終チェックを終えた皆川3曹が下に降り、機体にかけていた梯子を外した。

 俺は人差し指を立てた手を前にいる磯貝士長に示した。エンジン・スタートのハンドサインだ。


 エンジン・マスタースイッチ、オン。JFSジェットフューエル・スタータ、オン。十数秒でレディ・ランプが点灯。始動の準備は整った。


 掲げた手を一度握り、今度は2本の指を立ててから、左手でスロットルについたレバーを上げる。


 とたんにスタータがけたたましく回転を開始する唸りが聞こえ始める。スロットルをアイドルの位置に進める。イグニッション作動、エンジン着火。


 F-15独特のかすれて籠ったような音がスタータの回転音に重なり、次第に甲高くなっていく。しばらく続いたその音のテンションが急激に下がると同時に、胴体脇についた空気取り入れ口がガクンと下がる。

 右エンジン始動完了。


 次いで左エンジンもスタートさせ、航法装置の調整、警報灯の点灯確認など、コンソールにびっしりと配列された計器類に目を走らせる――すべて正常に作動。


 無線で編隊のマルコとライズに地上滑走準備が整っていることを確認してから、管制塔をコールした。


「百里グラウンド、エンジョイ15フライト。地上滑走許可願う」

『エンジョイ15フライト、地上滑走許可する。使用滑走路21。滑走路手前で待機せよ』

「滑走路手前で待機、了解」


 車輪を固定していた輪留めが外される。磯貝士長が後ずさりして脇によけながら、掲げた両腕を大きく左右に動かして滑走開始を促す。

 踏み込んでいたブレーキを離し、ほんの少しスロットルを進めると、エンジン音が高まり機体はゆっくりと動き出した。愛機とパイロットを敬礼で送り出す整備員たちに答礼し、列線から離れ誘導路に向かう。後ろにライズとマルコの機が続く。


 隣の204飛行隊のF-15が並ぶ駐機場が左手に見えていた。今週は前段のタイムスケジュールで訓練を組んでいる305に対し、204は各ピリオドごとの離陸時間を少しずらした後段の時間帯で動いている。そのため駐機場はまだ静かだ。

 204の整備員たちが沈黙したままの機体に取り付いて入念な点検を行っている様子をコクピットから見下ろしつつ、滑走路に平行して延びる誘導路を進んでゆく。


 滑走路に入る手前まで来た時、俺はふと頭を巡らせた。


 飛行場の草地一面に、細長い茎のタンポポに似た黄色い花が揺らいでいる。その向こう、基地の外柵沿いに車が一台停まっていた。幼稚園に行く途中だろうか、制服を着た小さな男の子がフェンスにへばりつくようにしてこちらをじっと見つめている。その横には赤ん坊を抱いた母親の姿もあった。


 俺は思わずマスクの下で微笑んだ。


 俺もあんな子どもだった。北海道の千歳基地から離陸するF-15を、うちの牧場の端に建つ牛舎裏の小山に登って、毎日首が痛くなるほど見上げていた。 


 自分が知っているどの乗り物よりも速く、信じられないような勢いで一直線に空へ駆けのぼっていく灰色の小さな機体。飛行場からかなり距離があるにもかかわらず、空気を震わせて伝わってくるアフターバーナーの轟音。腹の底に響くエンジン音に我知らず鳥肌を立てながら、その姿が空の色に溶け込んで完全に見えなくなるまでずっと目で追いかけていた。いつか自分もあれに乗るんだと、何の根拠もないままに固く信じて疑わなかった。


 そして今、自分はこうしてそのコクピットに座って離陸の時を待っている。


 俺は手元を操作して機体の背中にあるスピードブレーキを開閉させ、操縦桿を回してフラップとエルロン、スタビレーターをはたはたと動かした。F-15からの挨拶だ。


 コクピットから手を振ったのを、男の子はちゃんと見て取ったようだった。びっくりしたように大きく口を開けて飛び上がり、千切れそうなほど両腕をめちゃくちゃに振り返してきた。傍らの母親が笑顔になって男の子に声を掛け、こちらに向かって頭を下げたのが見えた。


 滑走路手前の待機場所にスタンバイしている整備員から離陸前の最終チェックを受け、管制塔から滑走路進入許可を取る。


 ブレーキを僅かに緩め、ゆっくりと滑走路に入った。俺の左斜め後ろにウイングマンのライズが位置を取り、単独で上がるマルコは右後ろで待機した。


『エンジョイ15フライト、風は190度方向より5ノット。離陸許可する』

「離陸許可、了解」


 管制塔に答え、無線越しにライズに短く合図を送る。


「ブレーキ・リリース――ナウ」


 ブレーキペダルを離し、スロットルを最大出力ミリタリーまで押し出す。エンジン音が一段と高まる。計器類が正常値を示していることを確認しながら、更にスロットルを進める。アフターバーナーに着火する軽い衝撃と共に、体にGがかかるのを感じる。雷鳴のような轟音と共に機体は一気に加速してゆく。


 滑走を続けて数十秒、路面の凹凸による上下の振動がふっと消えた。視点が高く移っていき、飛行場が遠ざかる。


 俺の横にぴったりとついたライズに注意を払いつつ、脚を格納しフラップの位置を戻すタイミングを指示してから機首を一気に引き起こした。


 軽いGを受けながら、数秒もかからずに低い雲が浮かぶ高度を急角度で突き抜ける。点在する雲は見る間に遥か下方へと離れていく。一群の塊となって地上に模様を描く家々や森を背景にして、それはまるで透明なガラスの上に白い綿が散らばっているように見えた。


 後はただ目標の高度まで、青く透き通った空に向かって機体を上昇させてゆく。

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