一日のスタート

 朝の空気はもう既に暑気をはらんでむっとしていた。

 6時の起床ラッパが基地内に鳴り響いて間もない時間にもかかわらず、フライトスーツを着た背中がじっとりと汗ばんでくる。袖をまくりあげてみるが、たいして涼しく感じるわけでもない。

 今日も間違いなく暑くなりそうだ。


 基地の正門から駐機場脇まで真っすぐに続く大通りを自転車で飛ばしてゆく。基地内で寝起きしている営内者たちが食堂に向かって三々五々歩いていく横を走り抜け、途中の幹部食堂に寄って朝食をかきこむと、いつものようにそのまま隊に直行した。


 飛行隊の朝は早い。


 れたてのコーヒーの香りが漂うオペレーションルームの中では、一番に出勤してくる新入りパイロットのデコとボコが箒を手にして床を掃いてまわっている。カウンターの奥では、二人の飛行管理員が書類を挟んだバインダーと壁の現況板を見比べながら今日のスケジュールを確認している。

 オペレーションから駐機場を見渡すことのできる張り出し窓からは、牽引車タグに乗った整備員たちがF-15の巨体を慎重に牽引しながら格納庫から引っぱり出し、列線に整然と並べているのが見えていた。


 続々と飛行班員のパイロットたちと総括班のメンバーが姿を見せ、威勢のいい挨拶が飛び交う。人が出入りする気ぜわしい雰囲気の中で、7時を過ぎるころには全員が出揃っているのだ。


 もうすぐ始まるモーニングレポートのために、出勤してから身辺整理を終えた面々がブリーフィングルームに集まりだした。ずらりと並んだ椅子の前の方から下っ端の若手が座っていき、ベテランは後ろに座る。俺とアディーのポジションだと、真ん中より少し前寄りの席だ。


「おはよう!」


 皆が揃い、最後に隊長の富永2佐と飛行班長の三木本3佐が入ってきた。


 この305飛行隊のトップ2人が並んでいるのを見る度に、俺の頭の中には「牛若丸と弁慶」が浮かんできてしまう。子どもの頃に親の横で渋々見ていたテレビドラマの時代劇に出てきた「垢抜けた主人と彼を支える荒くれ者」という取り合わせが、うちの隊長と班長にぴったりなのだ。


 防衛大学出身の隊長「リッチ」は、ひと言で表せばスマートな人だ。背が高く、細面ほそおもての彫りの深い顔は男から見ても美男子だと思う。所作は凛として、無駄なところが感じられない。かと言ってとっつきにくい訳ではなく、「隊長は自分たちのことを気にかけてくれている」と隊員たちに感じさせる眼差しを持っている。この人は絶対に将来航空自衛隊のトップになると俺は密かに信じている。


 一方の飛行班長、三木本3佐の浅黒く厳つい顔とがっちりした体躯はまさに305飛行隊に似つかわしい荒々しい野武士のようだ。本名に由来する「パール」というキラキラとしたタックネームはウケ狙いの冗談としか思えないが、航空学生出身の叩き上げの猛者もさで、技量も総飛行時間も隊内一。飛行班のパイロットたちのカリスマだ。日々大声で檄を飛ばしながらアクの強い梅組のメンバーをまとめ上げ、隊長をサポートしている。

 この班長が今日は教官役として俺の編隊に入る。


 隊長、班長が揃ったところで、その日に皆が知っておくべき情報を伝達するためのモーニングレポートが始まった。


 気象隊の予報官から、今日の天候の見通しについてプロジェクターを使って説明が行われる。スクリーンいっぱいに映し出された衛星写真や予想天気図を見ながら、これから少し雲が出てくるものの、鹿島灘沖の訓練空域も飛行場周辺の気象状況もフライトには問題のない事を把握する。


 予報官が一通りの説明を終えるや否や、班長の濁声だみごえが上がった。


「え? この天気でもうファーストの帰投リカバリー時に雲が入ってくるの?」


 班長は声も大きく相手の発言をズバッと一刀両断にするような喋り方をする。だから声をかけられた相手は圧倒されてつい腰が引けてしまうのだ。現に、指示棒を持ってスクリーンの前に立つ若い予報官はたじたじとなっている。それでも必死に棒の先で衛星写真の一点を示した。


「あっ……はい。ええと……気圧配置と前線の状況から考えると、その時間には西からこの雲が流れてきて飛行場周辺に被ってくると思われます……」

「ふうん……そう」


 一応納得したようで、班長は頷いた。


 毎朝思うことだが、このウェザーブリーフィングの時間が好きな予報官はきっといないだろう。予報が当たれば当然と言われ、外れれば何やってるんだと(面と向かってではないが)ぶつくさ言われる。自分の目で実際に上空の状況を確認できるわけではないので、空を飛んでくるパイロットの言うことに対してはどうしても押しが弱くなってしまうのだ。


 予報官は手にした指示棒を落ち着かない様子で伸ばしたり縮めたりしながら質問を待っていたが、他には特に何もない事を確認するとほっとした顔でブリーフィングを終わらせた。


 続いて整備幹部から航空機の稼働状況や整備の進捗状況についての説明があり、その後、訓練幹部や総括班長からこまごまとした連絡事項が告げられ、レポートもようやく終わりに近づく。


「あと、何か諸連絡」


 飛行班長の言葉に「はい!」と声を上げて、若手が並ぶ一番前の席に座っていたデコが拳にした手を挙げて立ち上がった。


「厚生係からですが。今週の木曜から、前飛行隊長の加賀2佐が業務調整で百里に来られるとのことです。それで、飛行班として金曜日に宴会を催すことになりました。会費ひとり五千円を徴収しますので、よろしくお願いします」


 班長が口を挟む。


「場所は? もう押さえたの?」

「これから予約します」

「料理の美味うまいところにしろよ。この間の店は揚げ物ばっかりで後で胸やけがしてかなわんかった」


 胸やけがしたのは料理のせいではなくて、単に班長が飲み過ぎたからだ――心の中でそう突っ込んだのは俺だけではないはずだ。


「飲み過ぎだろう。料理は悪くなかったぞ」


 苦笑を浮かべた隊長が飛行班員たちの言い出せないセリフをすかさず代弁し、宴会幹事を務めた若手をさりげなくフォローした。

 班長は渋い表情で首をひねっている。


「いやあ、そんなに飲んだ覚えはないんですけどね」

「覚えがない時点でアウトだな」


 隊長はそう言って、朗らかに班長の抗弁を却下した。そして班員たちを見回して他の誰からも連絡事項がない事を見て取ると、「よし」と頷いて立ち上がり、モーニングレポートを締めくくった。


「今日も無事故で。気合いを入れていこう」

「はい!!」


 気迫のこもった返事が部屋中に響く。一日のスタートだ。あと1時間もすればフライトが始まる。


 昨日の失敗は今日の糧に。同じ間違いは繰り返さない――今日こそうまくやってやろう!

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【自衛隊青春小説】大空へ駆けのぼれ 島村 @MikekoShimamura

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