同期

 時刻は夜の9時近くになっていた。

 夜間飛行訓練のない今日、さすがにこの時間になるとオペレーションルームに残っている隊員は少ない。その彼らも帰り支度をしている。


 人もまばらで閑散としている部屋の一角に居座って、俺は頭を掻きむしりながら机の上に広げた用紙を覗きこんで唸っていた。傍らにはビデオテープが3本。あの最悪のフライトの最中の音声と映像を録画してあるものだ。


 フライトが終わる度に、記録されたHUDヘッドアップディスプレイとレーダースコープの映像を元にして、交わされた無線交信と時間、その時の機動を時系列に沿って秒単位で細かく書き出していく。ディブリーフィングでは、そうしてできあがった各機の機動解析を突き合わせることによって格闘戦全体の状況の推移を把握し、問題点を洗い出してゆくのだ。


 今回、ディブリの実施を拒否された俺は、教官を務めたジッパーと対抗機に乗っていた別の先輩に頭を下げて、それぞれの機のビデオテープを借りてきた。


 何枚もの紙の上に絵コンテのようにコマ分けして書き起こした3つのパターンの機動図を睨みながら、頭の中で立体的に3機を動かしてゆく。


 格闘戦に入って数分と経たないうちから、ウイングマンはリーダー機を対抗機と誤認している動きをしていた。そのあからさますぎる動きにも気づけなかった自分に今更ながら冷汗が出る。


  「ウイングマンから目を切るな」――それは誰もが先輩からくどいほど言われることだった。僚機の動きを常に掌握し、状況に応じてその都度的確な指示を出す。それがリーダーの務めだ。

 それなのに、俺はつい周りが見えなくなる。自分では見ているつもりでも、実際は見えていないのだ。一点集中してしまう悪い癖なのは嫌になるほど分かっている。


「ウイングマンにやられたって?」


 唐突に声をかけられ、唸りながら机の上に散らばった機動図を凝視していた俺は顔を上げて振り向いた。

 アディー――同期の村上が立っていた。片手にひとつずつマグカップを持っている。


 俺は大きな溜め息だけでアディーに答えると、コーヒーが入った自分のカップを受け取って訊き返した。


「そう言うお前は、今日のフライトはどうだったんだよ」

「まあ、いくつか下手なこともやったけど、ウイングマンにとされることはなかったかな」


 爽やかな笑みを浮かべながらとぼけたようにそう言って、アディーは俺の斜め向かいの席に腰を下ろした。


 こいつとは腐れ縁だ。


 昭和から平成へと移り変わる時代、バブルの熱に煽られて世の中の大人達が我も我もと土地だのビルだの絵画だのを買いあさり、投機でひと儲けしようと躍起になっていた頃、俺は高校を卒業し航空学生として自衛隊に入隊した。

 浮かれ騒ぐ世間から隔絶され、山口県にある防府ほうふ北基地で、時に理不尽とも思える厳しい訓練を共に耐えることになった同期は60人。そのうちの一人がアディーだった。


 訓練課程が進むとともに防府北から福岡県の芦屋基地に移り、その後に輸送機コースと戦闘機コースに振り分けられた。念願かなって戦闘機要員に選ばれた俺は、他の同期たちと共に静岡県の浜松、宮城県の松島、宮崎県の新田原にゅうたばると基地を移りながら約5年にわたる訓練を続けてきたが、その間も、そしてようやく戦闘機部隊タックへの配属となってからも、アディーとはなぜか一緒だった。305飛行隊に着隊してもう3年経つが、今もこいつとは基地内にある独身幹部宿舎で同部屋だ。


 最初は取り澄ましていけ好かない奴だと思っていた(もちろんアディーはそんな奴じゃないし、そもそもは完全に俺のやけくそ半分のやっかみだったのだが)。

 まず、見た目が気に食わない。すらっとした長身で、フライトスーツ姿が憎たらしいほど様になる。まるで人気俳優が映画のロケにでも来ているようだ。

 顔立ちも整っている。くっきりした二重の目は優しげで、女たちはこいつの笑顔に大抵ぐっとくるらしい。日本人離れした色素の薄い目の色とさらさらの髪も嫌味だ――それでも、この髪は本人にとってはコンプレックスのようで、薄毛になるのをいたく心配している。酒の席でそれを知った先輩から、「その歳でもうアデランスのお世話か?」とからかわれたのがこいつのタックネームの由来だ。つまり、「アデランス」で「アディー」。


 いつぞや流行った有名なハリウッド映画のおかげで、戦闘機乗りはみんなカッコいいタックネームを持っているものだという一般的な思い込みが出来上がってしまったような気がする。

 しかし実際のところ、訓練課程を終えたばかりで戦闘機乗りとしてはまったくの役立たずのヒヨッコに、自分のタックネームの命名権なんてあるわけがない。それを決めるのは、新入りの歓迎会でしたたかに酒を飲んで気炎を上げる先輩たちだ。


 俺の場合、酔っぱらって呂律の回らなくなった飛行班長が「おい、稲津!」と俺を呼ぼうとして、声を上げたら「イナゾー!」となってしまったという、ただそれだけで満場一致で決定となった。ひねりも何もあったもんじゃない。


 まあ、俺なんかはまだましな方だ。この間配属されたばかりの新米パイロットの曹長二人は、一人がひょろりとしていてもう一人がずんぐりとした体型だったので、「お前らはでこぼこコンビだ!」と言われ、「デコ」と「ボコ」という、本人たちにしてみればどうしようもなく不本意な呼び名にされていた。


 酔った勢いで容赦なく決定される残念なタックネーム。これを変えることができるのは、2機編隊長の資格を得てからだ。


 編隊長になって初めて一人前と認められ、隊の中で発言権を得られる。それまでは、何かにつけて「文句があるならリーダーになってから言ってこい!」と一蹴されて終わりだ。それくらい、ウイングマンとリーダーの立場の間には大きな差がある。


「ああ、何でうまくいかないんだよ……!」


 俺は両手でごしごしと顔をこすり、椅子の背もたれに体を投げ出して思わず大声を上げた。


「分かってんだけどなー、こう動かせばいいんだって。だけど実際飛ぶと、ウイングマンの動きを切れ切れにしか把握できなくなるんだよな」

「イナゾー、お前さ」


 殴り書きされた機動図を一枚手に取って眺めながら、アディーが口を開いた。


「もっと気楽にやってみたらどうだ? ガチガチになってたら、周りが見えなくなるだろう?」

「別に緊張してるつもりはないんだけどな」

「そうじゃなくて、気負わずにやったらどうかってことだよ。お前を見てると、赤い布を目の前でひらひらさせられてる闘牛の牛が思い浮かぶくらい鼻息が荒いからさ。カッカしてヘルメットから湯気が立ってるのが見えそうだもんな」

「悪かったな、頭が沸騰してて」

「まあ、力を抜いてみろって」


 なだめるように言うアディーを、俺は恨めしい思いで見やった。

 確かにアディーの言うことはもっともなことだと分かっている。反面、お前みたいに器用にできたら最初から苦労しないよ、というふてくされた気持ちもない訳ではない。

 アディーは軟派な優男に見えるのに、操縦の腕は悪くない――というよりむしろ、こう認めるのは悔しいが、センスがある方だと思う。センスというのはまさに天性の才能だ。どうやらそのセンスに恵まれなかった俺は、ひたすら努力してその不足分を補うしかないのだ。


 出来のいい同期に対して複雑な思いはあるものの、悶々としている俺を見て声をかけアドバイスしてくれ、少しでも気を晴らそうとしてくれる腐れ縁のアディーの存在はつくづくありがたいと思う。


「イナゾーさん、アディーさん、最後、戸締りお願いしてもいいっすか?」


 帰り支度をした後輩に声をかけられ、軽く手を挙げて答える。気がつくと、オペレーションルームに残っているのは俺たち二人だけになっていた。


 座っている回転椅子をくるりと振り向かせて、アディーが背後にあるカウンターの方に体を向けた。カウンター奥の壁一面に掲げられたホワイトボードには、飛行訓練の現況や週間予定、月間予定、関連部隊の動きなどが細かく記入される。現況板にはもう既に明日の訓練予定が書きこまれていた。

 そのボードを見上げながらアディーが訊ねた。


「明日は?」

「朝イチに1回」


 俺のフライトは8時過ぎから始まる第1ファーストピリオドに組まれていた。


「もう帰った方がいいんじゃないか? しっかり寝ないと頭も体も動かないだろ?」


 アディーの指摘に俺は重々しく頷いた。しかしこの後すぐに帰る訳にもいかない。明日のフライトの準備もあるのだ。

 その事を伝えると、アディーは頷いて立ち上がった。


「じゃ、先に戻ってるから」

「ああ――お疲れ」


 自分の荷物とカップを持って部屋を出て行こうとするアディーの背中に向かって、俺は慌てて声をかけた。


「アディー、ありがとな。明日は頭を沸騰させないようにやってみるわ」


 肩越しに振り返ったアディーはにっこり笑って頷くと、宿舎に帰っていった。


 同じく2機編隊長への錬成訓練を受けている自分だって毎日のフライトは決して楽ではないはずなのに、ああして俺に気配りをしてくれる。そんな同期を持った俺は幸せかもしれない。ぐずぐずといつまでも腐っていたって仕方ない。きっぱり気分を切り替えて明日も頑張ろう――。


 アディーの持ってきてくれたコーヒーを一息に飲み干し、俺は明日のフライトに向けて気持ちを新たにした。

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