第1章
歯がゆさ
茨城県小川町――電車を使って都心に出るには2時間以上はかかるのどかな田舎町だ。
空から見ると、深緑色の森と白茶けた畑が目の粗いモザイク模様のように見え、その隙間に民家が寄り集まるようにしてところどころにかたまっている。森と畑が広がる景色には繁華街らしいものは一切見当たらない。
そんな風景の中に、ほぼ南北の方向に一本の滑走路が伸びている。その東側には長方形のだだっ広い駐機場。どちらも夏の強烈な日差しを照り返して白く光っている。
そこが航空自衛隊の百里基地だ。通称「陸の孤島」。僻地手当てのつかない僻地にある基地。
手当てがつくかつかないかの基準となるのは基地から一番近い郵便局までの距離だそうだが、小川町の郵便局があともう数十メートル離れていたら手当てが出たのに……と、「陸の孤島」に配属された隊員の恨み節もたまに聞く。まあしかし、その話も本当かどうか。
鹿島灘沖の訓練空域から飛行場に戻ってくると、いつもの手順で着陸し、エンジンをアイドルに戻して駐機場へと向かう。
格納庫前の駐機場では、次々に帰投してくる機を迎えるために整備員たちが慌ただしく動き回っている。直射日光が照りつける駐機場には、先に帰投した機の排気ノズルが発する熱も加わってそこかしこに陽炎が立っていた。
航空機を並べる列線に立ち、こちらに向かって両腕を高く掲げた整備員の元に機体を向かわせる。誘導のとおりに位置を取り、タイヤを留めるチョークを固定したことを整備員と確認し合って
激しいGを受けて顔に食い込んでいたマスクを外すと、暑い空気に混ざったジェット燃料の灯油のようなにおいとともに、ムッとするようなニラと鶏糞のにおいが鼻を衝いた。基地の周囲の畑や養鶏場から時折風に乗って運ばれてくるのだ。大きな建物もなく吹きさらしの飛行場には一年中こういった風が吹き渡っている。
ヘルメットを脱ぎ、汗でぐっしょりと濡れて頭にへばりついた髪を乱暴に掻きまわしながら、ついつい大きな溜め息が出た。
ついさっきのフライトの惨憺たる結果を思うと、溜め息ひとつでは収まらず、がっくりとうなだれたくなる。
ウイングマン役を務めた教官は、「ウイングマンが対抗機の位置を完全に誤認していた」という想定で動き、ものの見事にリーダーである俺を撃墜してくれたのだ。
そんなことあるわけないだろう!
そう抗議したかったが言えるわけがなかった。自分自身への腹立たしさに情けなさも加わって、苦い思いで我が身を振り返る。
自分がウイングマンとしてリーダーについて訓練に臨んでいた時、今回の「間抜けなウイングマン」と同じことを実際にやらかしかけたことがあったのだ。その時のリーダーが今日の教官のジッパーだった。
目標を取り違えてリーダーに突っ込んでいこうとした俺のおかしな動きをジッパーは素早く察知した。無線越しに怒鳴られて初めて自分の思い違いに気づいた俺は慌てて機体を反転させて軌道修正し、編隊としての攻撃態勢をどうにか立て直すことができたのだが……今回、そのリーダーの立場である俺は、自分のことに精一杯でウイングマンの動きをまったく把握できていなかったのだ。
情けない――その言葉しか思い浮かばなかった。
俺はよっぽどひどいしかめ面をしていたのだろう。ヘルメットバッグを受け取るためにコクピットにかけた梯子を昇ってきた新人の整備員が、励ましの中に憐れみも少し混ざったような目を向けてきた。その隊員に苦笑にもならない表情を返し、体を座席に固定しているハーネスを外しながら、鼻面を揃えて整然と並んでいる何機ものF-15の上を通り越した先に視線を向ける。
コクピットからはずいぶん低く見える飛行隊の建物の横に高々と掲げられている隊旗。駐機場を吹き抜ける強い風になびいている旗に描かれているのは、明るい紺地を背景に、二本の矢にぐるりと囲まれた赤い円と、その中にくっきりと描き出された白い梅の花。「梅組」とも呼ばれる
第7航空団第305飛行隊。
「後輩は先輩を喰え」――下剋上を是とする荒くれ武者のような隊風で他の戦闘機部隊とは一線を画している部隊だ。
ここに配属されて約3年。
とりあえず操縦はできるというだけの見習いパイロット扱いである「TR」と呼ばれる段階から始まり、対領空侵犯措置に対応できる「AR」、そして有事の際には敵戦闘機と渡り合える技量のある「CR」と、訓練を重ねて資格を上げてきた。
今まではリーダーの指示の下に行動するウイングマンとして飛んでいたが、これからは自分がリーダーとして部下を連れて飛ぶ立場になる。2機編隊長の資格を得るための訓練に、今、俺は悪戦苦闘しているのだった。
2尉になった今でも、勢いのある先輩たちに日々のフライトで容赦なくやっつけられる。それでもこの305の隊旗を見る度に、自分は梅組の一員であるということに誇りを感じ、「もっとうまくなりたい、強くなりたい」と気持ちを新たにしてきた。もちろんそれはいつだって変わることはない。
それにもかかわらず、2機編隊長錬成訓練が始まってからというもの、自分はこのマークが描かれたワッペンをフライトスーツの右腕に着けるのにふさわしくないのではないかという弱気な気持ちが事あるごとにちらちらと首をもたげる。
俺にリーダーが務まるんだろうか。ウイングマンを無事に連れて帰ることのできるリーダーになれるんだろうか……。
ついネガティブな方向に引っ張られている自分に気がつき、慌ててその考えを叩き潰す。
いいや、そんなことでどうする! 俺は石にかじりついてでもこのワッペンに恥じないリーダーになってやるんだ……!
「おい、イナゾー!」
後続で次々と帰投してくるF-15のエンジン音に負けないほどの怒鳴り声が下から飛んできた。険悪な語気で自分のタックネームを呼ばれた俺は、はっとして我に返った。
機体の鼻先のあたりに仁王立ちになって、ジッパー――間抜けなウイングマン役をやってのけた先輩の須田1尉――が恐ろしい形相で俺を見上げて睨んでいる。
俺は慌ててコクピットから抜け出すと、踏み外しそうな勢いで梯子を下りてジッパーの前に立った。
上空で押しつけられていたマスクの跡がくっきりとついたジッパーの顔には、
だが、さすがに拳は飛んでこなかった。
ジッパーは眉間に寄せた皺をいっそう深くして、鋭い目つきで俺を睨みつけた。
「イナゾー、お前、自分でよく分かってるよな。今回のディブリはなしだ」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、ジッパーは踵を返して飛行隊の建物に戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、両脇で握り締めた拳が震える。
訓練後の振り返り――ディブリーフィングすら受けられないフライトをした自分が情けない。悔し涙が出そうになるのを奥歯を噛みしめて必死に堪え、胸の内で自分に向かって叫ぶ。
くそっ! くっそぉ!! こんなことでめげるわけにはいかないんだ! 見てろよ、次のフライトでは絶対にうまくやってのけてやるからな!
真夏の熱風に煽られて悠然とはためく305の隊旗に向かって、俺は歯ぎしりしながら今にも爆発しそうになる決意を思い切り投げつけた。
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