9-33.怜悧と狡猾

 リムは自分の屋敷のバルコニーから、低い位置にあるセルバドス家を見下ろしていた。魔法陣を惜しみもなく使って放たれる水圧砲と暴風に、既に群衆の数は半分程に減らされている。火薬式の武器を無力化するのには最適とも言える対応だった。


「よくやるよ。ご当主とルノ隊長だけでさ」


 その敷地内にはギルと息子のルノ、そして執事やメイドしかいないことをリムはよく知っていた。昨日、セルバドス家を訪れた時にもその程度の人数しかいなかった。古臭い客間で上等なカップに入った高級な紅茶を飲みながらリムが聞いたのは、この子供だましのような作戦だった。


「……うちに移民を匿えと言うんですか?」


 紅茶の甘みが残る口を動かしてリムが問うと、向かいに座ったギルは頷き、その後ろに立ったルノは笑って同意した。


「移民に限らず、ですな。商店街の方に避難勧告が出されたようなので、ここは一つ我々で保護すべきかと思いましたが、何しろあまり大きな家でもない。その点、ライラック殿のお屋敷ならば申し分ないでしょう」


 ギルは穏やかに言うが、そこに申し訳なさなどは微塵もない。リムが申し出を受けることを前提としている話し方だった。リムは不快を覚えたが、自尊心が高い分、すぐに否定は返せなかった。


「俺に何の利益がありますか?」

「利益がなくばやってはならぬ、ということはないでしょう」

「それは確かに」


 リムは視線をテーブルへと落とす。歴史ある品であることは間違いないが、リムの家にあるものよりも小さく、そして安いことも確かだった。だがその上に乗せられた皿とケーキは申し分ない。執事の手作りだというチョコレートケーキは、照明の下で艶やかに輝いていた。


「何、場所を貸してくれれば良いのです。食事などはこちらで持たせます」

「ただ金は持たせられないけどな。食材買うのに使ったから」


 ルノが気安い口調で言うと、すぐにギルが睨みつけて黙らせた。


「失礼な口を利くな。ライラック家のご当主だぞ。我が家とは格が違う」

「いや、いいんです。元上官に敬語で話されても、却って困ります」


 殊勝なことを言いながらも、リムはその脳内でギルの申し出をどうやって断るか考えていた。商店街の人間を受け入れたところで自分に利益はない。屋敷の中に不必要に人が入ることは避けたかった。かつて栄華を誇ったライラック家の内情を晒してしまうような真似を、その高い自尊心が許すはずもない。


 だが同時に、セルバドス家に恩義を売るチャンスであることも理解していた。特に表舞台で目立つことはないが、この国の主要な施設に強力なつながりを持っている。恩を着せておくのも悪くはない。リムはそう考えながらケーキにフォークを突き入れた。


「……胸算用はお済みか」


 ギルが静かな声で告げた。思わず動作を止めたリムに、老人は淡々とした表情と口調で続ける。


「貴方が何を考えようと結構だ。私としてはこんな馬鹿げたことで、商店街にある素晴らしい店を失いたくないだけですからな。しかし貴方が断れば非常に……非常に困ったことになる」


 芝居がかった素振りでギルは両手で顔を覆うと、指の隙間からリムを見据えた。


「かつての大貴族ライラック家が、名誉までも失墜する様は見たくない」


 その意味をリムは即座に理解した。


「脅すつもりですか、俺を」

「まさか。しかし人の口に戸は立てられませんからな。貴方にとって不名誉な噂が流れたとしても、それはそれ、自然の摂理だ」


 青い瞳に浮かぶのは真剣そのものだった。ギルは相手が何も言い返さないことを確認してから手を下ろす。


「我が一族は長い歴史を細々と生きてきました。それがただの幸運かどうか、その目で確かめるのも良いでしょう」


 食べ掛けのケーキがバランスを崩し、皿の上に潰れるように倒れた。音など殆ど鳴らなかった筈なのに、リムの鼓膜はそれを大きな音として捉えていた。


「……なーにが、細々と生きてきました、だよ」


 回想から現実に戻ったリムは、錆びたバルコニーの手すりに身を預けながら溜息をついた。階下のダンスホールはいつになく騒がしく、食事の匂いが漂ってくる。


「あんなに面倒な連中見たことないよ。馬鹿剣士のほうがまだマシだ」


 ギルの脅しを跳ねのけることは不可能ではなかった。だがそれをしたところで、ギルを退かせることなど出来ないと、あの時に悟ってしまった。執念深く、どこまでも諦めず、リムを承諾させるまでは一歩も退かないと言わんばかりの態度に白旗を上げざるを得なかった。


 苦々しい事実を忘れるため、リムは手に持っていたライフルのスコープを左目に当てた。毎日手入れをしている磨きこまれたレンズには傷一つなく、裸眼で見るのと等しい明瞭な視界を与えてくれる。

 丸く切り取られた視界には、商店街の入口に立っている知古の軍人たちが見えた。そこから西の方へ移動すると、アカデミーの研究員たちが軍人を妨害する形で地面に這いつくばっている。そのうちの一人が惰性で伸ばした黒髪を振り乱しながら、軍人に向かって大声で何かを叫んでいた。


「ふ・む・な。れ・き・し・て・き・は・っ・け・ん・だ。成程ね。あの爺さん、アカデミーにいる三男まで引っ張りだしたか。アカデミーは権力がない代わりに絶対的な調査権を持つ。あれを蹴散らして進むのは、一等兵程度じゃ勇気が要るだろうね。あとは……」


 東側には制御機関の人間たちが見えたが、何やら揉めているようだった。赤い髪の男が、先頭にいる老練の魔法使いと話をしている。リムはそれ以上見るのを止めて、スコープを目から離した。


「こちらの争いは終わりそうだね。でも、あの人たちはどうかな?」


 空に稲妻がいくつも走り、それに混じって獣の咆哮に似た音が響いた。姿は見えないが、そこに確かに誰かがいる。リムは自分だけではなく、ミソギやカレードもそれに気付いていることを確信していた。裏を返せば、殆どの者はその戦いには気付いていない。

 気付かないほうが幸せに違いないと、リムは口には出さずに思いながらバルコニーを後にした。

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