9-34.引き裂かれる体
眼前に迫った鎖を、ホースルは紙一重で避けながら雷を落として軌道を逸らす。しかし、右側から飛来した別の鎖が髪と頬を掠めていき、皮膚にわずかに裂傷が走った。傷を付けられるのはホースルにとっては随分と久しぶりの感覚だったが、それに浸る余裕はない。
指を鳴らすのに合わせて、ラドルの頭上に雷が落ちる。だがラドルはそれを見切っていたのか、鎖を避雷針代わりにして直撃を避けた。
『何度も同じ手が通じるかよ。あの時は貴方の雷で顔を焼かれたんだ。対策を練らない訳がないだろ』
『なら別の手にしよう』
今度は雷がラドルの足元から空に向かって走った。先ほどよりも威力は低いが不意打ちを食らったラドルは体勢を崩す。ホースルは足元を強く蹴ることで一気に間合いを詰めると、ラドルの腹部に思い切り蹴りを放った。弾力のある手応えと共に体が弾き飛ばされる。不可視の足場に火傷で崩れた皮膚が点々と散った。
『ところでラドル。お前はいつ森から出て来た?』
ラドルは無言で立ち上がると、包帯の位置を指で直した。しかし倒れた時にどこか緩んだらしく、元の形には戻らない。
『二十年ほど前だ。……最初は貴方を連れ戻そうとしたんだ。同胞たちもそれを望んでいたから。全く笑える話だろ。あんな風に出て行った貴方を、それでも皆慕っていた。何しろ、「キャスラー」だからな。シ族の持つ名の中で最も優れた一つだ』
シ族の者は自分の名前の他に、役目に応じた冠名を持つ。ミソギ達がホースルを呼ぶのに使う「キャスラー」は、実際のところは固有名詞ではない。
『でも貴方は見つからなかった。二十年前まで『瑠璃の刃』にいた記録までしか辿れなかった。まるで俺を避けたかのように消えたんだ。それで気が付いたんだ。もしかして貴方はキャスラーの器じゃないんじゃないかって』
『面白いな』
続けろ、とホースルは促した。
『器ではなかったから、それが露呈するのが怖くなって森から逃げだしたんだ。そして追ってきた俺からも。そう考えれば納得がいく。いつまでも使命を果たさないことも、そうして姿を変えて人間に紛れ込んでいたことも』
『私をキャスラーにしたのは兄だ』
『マズル・シ・レルムは貴方を可愛がっていたと聞く。貴方は弱かった。だからレルムは貴方を守るためにキャスラーにしたんだ』
『兄は……』
その時、細い雷がホースルの足元に落ちた。それに気を取られた一瞬に、ラドルが手を前に伸ばす。一本の鎖がホースルの腕を絡めとり、そのまま強い力で引きずり倒した。
『動くなよ、リン』
念を押すような言葉と共に、ラドルを取り囲んでいた鎖が動く。多種多様な形状をした鎖は、ホースルの体を無遠慮に貫いた。槍でも突き立てるかのように、真っすぐに伸びた鎖は肉を貫き、内臓を蹂躙し、不可視の足場まで到達する。ホースルは右手を動かそうとしたが、手の甲を棘の生えた鎖が貫通した。
『……野蛮な奴だ』
『俺たちに小手先の技なんて必要ないだろ。人間どもの中にいて忘れたか』
『私を探すために姑息なことをした奴には言われたくないな。本当に探したいのなら、手当たり次第に破壊していけばよかっただけだ。シ族にとって破壊は呼吸より容易い』
体の中から体液が流れ落ちていくのを感じながらホースルは笑った。体を貫いた鎖の冷たさだけが手足に伝わってくる。
『お前は
『人間みたいに今わの際にべらべら喋るな。何か策でも持っているのか?』
『いや、別に。なかなか良い攻撃だと思って感心していただけだ。貴様こそ人間みたいに中途半端に標的を生かすな。自分の力を誇示したいのか?』
ラドルの口元が歪み、目が不快一色に染まる。
『黙れよ』
『だから殺すならさっさと殺せ。それとも、やはり私が怖いのか』
『……いいや。貴方の命乞いでも見れるかと思っただけだ。いつも俺たちを見下して、一人で微笑んでいた貴方の顔が哀願に歪むのを見たかった。でも無理みたいだな。潰れた顔で我慢してやるよ』
そう告げると同時にラドルは右腕を後方に引いた。しかし、その直後にラドルの顔が引きつり、更に醜く歪む。右腕から生えた鎖はいずれも短く切断されていた。
『私をその鎖で引き裂こうとしたか。馬鹿な奴だ』
千切られた鎖は、ラドルの目の前にあった。いずれも唐突に現れた刃に絡めとられている。刃は幾重にも重なり、そして硬質な光を放ちながら揺れていた。かつて人間がその姿を見て、翼であると勘違いしたそのままに、ホースルの背から生えた無数の剣はそれぞれの刃先を広げていた。
『我らはその名にて操る力を授かる。貴様は鎖で、私は剣。鎖が剣の真似事をしても勝てる道理はない。縛り、締め付け、吊るす。それならば勝機はあったと言うのに』
ホースルは立ち上がると、右手の鎖を引き抜いて後方に放り投げた。体の中にはまだいくつもの破片が残っているが、痛みなどはない。一歩踏み込んだホースルは、口角を思い切り吊り上げて相手の顔を覗き込んだ。
『いいことを教えてやろう。兄は私を守るためにキャスラーという最高位の名前を授けたのではない。あれは単に私への嫌がらせだ。何百年何千年と生きて行けと、兄は私にこの名を与えた。お陰でなかなか死ねやしない』
ラドルの返事は無かった。その首には、ホースルの剣の一部が深々と突き刺さっている。喉から溢れ出した体液は、空気と混じって泡立っていた。
『鎖を奪われてはもう何も出来まい。我々の戦いは人間よりも単純だ。衝突した力の優劣でのみ決する』
『……な、ぜ』
『私はお前のことなど感知すらしていなかった。単に飽きただけだ。シ族にも、あの組織にも。勝手に想像して勝手に破滅するとは酔狂な奴だな』
剣の翼が広がり、黒い影が二人を覆った。
『まぁ、ここまで来たのだから敬意を表して貴様を食らってやろう。同族を食うのは久しぶりだ。特に、私が弱いと勘違いして挑んできた愚か者はな』
その時にラドルが何を考えていたのかはわからない。ただ、その命が絶える瞬間に上げた悲鳴を、ホースルだけが聞いていた。
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